震災と原発事故のその後のなりゆきに胸を痛めたり失望したりしながら、ここ数ヶ月はいつになく忙しい日々であった。なにより、編集者の方にあれこれ相談させていただきながら、『愛の映画』の詰めの作業をしてきた(初校終了)。これには時間と根気を費やしてきたが、たいへん楽しいものでもあった。また、今年度は例年以上に大学の行政的な仕事が多く、気ぜわしかった。 今日はどちらも小休止の日曜日。この間、忙しいなか読んで、どれも十分には消化できていないのだが、格別おもしろかった翻訳書を列挙してみよう。 グエン・ズー(レ・スァン・トゥイ、佐藤清二、黒田佳子訳)『トゥイ・キォウの物語』吉備人出版、2005年。 ベトナム人の解説者によれば、「ベトナムでは、たいていの人が『トゥイ・キォウの物語』を諳んじています」という。原作は中国のもので舞台も中国なのだが、グエン・ズーというベトナムの大詩人が19世紀の初めに長編詩としたのが本書であるそうだ。美貌と才能に恵まれながら苦労を重ねる女性が主人公の、繊細なポエジーと民衆的なルサンチマンとが融合した、希有な物語。中心的な訳者である佐藤氏は、奥付の経歴によれば、ベトナムでの仕事の経験があって、岡山県庁にお勤めの方であるそうだ。この長編叙事詩が美しいものであろうことは訳からもよく伝わってくる。 「夕暮れ時、鳥たちが一羽ずつ森に戻り始めました。遅れて現れた月は、椿の花房に半分隠れて見えました。不意に、西の塀に映った枝の陰が僅かに踊りました。キォウは窓を開け、音もなくこっそりと上がってくるスー・カインを見ました。」 アンヌ・チャン(志野好伸・中島隆博・廣瀬玲子訳)『中国思想史』知泉書館、2010年。 中国系フランス人がフランス語で書いた、中国の思想についての、簡にして要を得た、すばらしい入門書。それでも2000年を超える中国思想の長い歴史にふさわしく、実に浩瀚で、辞書としても使えるだろう。677頁、7500円。よくこれを訳したなと驚かされるし、よくこれを出版したなと感心させられる。 ウラジミール・ジャンケレヴィッチ(合田正人訳)『最初と最後のページ』みすず書房、1996年。 題名は、作者の最初期の論文から、紙片に走り書きされていたという最後の文章までを収めていることを示している。高度にインテリ好みの本だが、ベルグソン論をはじめそこに現れた思想には、何かへの純朴な憧憬が感じられる。とりわけ、次のようなナイーブな、しかしきっぱりとした言葉を見いだすのは楽しいことだ。「愛するために愛することはできない。愛される者のために愛するのだ」 フロイト(金関猛訳)『シュレーバー症例論』中公クラシックス、2010年。 フロイトの文章を読むといつも、もしかしたらこの人の分析は根本的に間違っているのではないかとハラハラさせられる。精緻だが観念的な自分の理論図式に引きずられすぎて、対象のことを本質的にとらえ損なっているのではないか、などと疑わしくなる。それでいながら、読み進めていくとしばしば、いつのまにかたいへんな知的な刺激を受けていて、ちょっとした興奮状態にさせられてしまう。そうしたフロイトの分析の一つであるこのシュレーバー論は、もちろん有名すぎるほど有名だが、この新訳の注釈は実に精緻で、フロイト研究にはたいへんな蓄積があることが改めて確認できる。フロイトは今でも世界のインテリのリビドーを活性化し続けているようだ。 パウロ・コエーリョ(山川紘矢・山川亜希子訳)『アルケミスト』角川文庫、1997年。 私の授業に出席している学生に教えてもらった本。作者はブラジルの人。スペインの羊飼いの少年が、宝物を探しにピラミッドへ向かう冒険譚。日本もふくめて世界でよく読まれてきたらしい。取り寄せたこの文庫には36版とある。この現代的な童話のテーマは、自らの「運命」ゆえに追い求めずにはいられない人生の本当の宝物とは何か、ということのようだ。前半と後半に別れているのだが、とくに、迷いためらいながらも思い切って過去を捨てて夢を追い求める旅にでて、しかし挫折してしまう、前半の苦い物語に惹かれた。
by kohkawata
| 2011-06-19 12:20
| 近世中国の文化
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