森毅



 三日間にわたる、メール・チェックもできないほどインテンンシヴな研究会から帰宅して、疲労を覚えながら、数日ぶりにネットをみると、森毅氏の訃報に接した。

 私は森毅の本の長年にわたる愛読者であり、また彼のゼミのゼミ生でもあった。

 森毅の思想というのか、森毅という存在の、そのたぐいまれなおもしろさというものをここに書いてみたいと思うが、うまく書けそうにない。

 彼は、様々な情熱や思惑が渦巻いていた京大のなかにあって、とびぬけて自由な精神の持ち主であったと思う。大学生たちだけではなく、誰でもともすると小さな疑似問題や不安に囚われて自分を小さくしてしまいがちだが、彼はいつもそうした小人たちとのつきあいをユーモアをもって楽しみながら、「それはちょっとちごててね」といった具合に、より広い世界へと精神を開いていく志向をもっていたように思う。京大生たちも、私の知るかぎり、そんな彼を(一刀斎ではなく)「森キ」と呼んで親しんでいたようにみえた。

 私が大学生のころ、彼は京大の教養部の数学の教員であり、「自然科学史ゼミ」も担当していた。毎年、一学期にはゼミ参加者が非常に多く、私は参加したことがなかったが、秋になるとぐっと減って一桁に、時には数人になって、私はこの時期にはだいぶ通った。話題はとくに決まっていなくて、先生の研究室に来た学生が、哲学やら文学やら、あるいは個人的な悩みやら、実に勝手なおしゃべりをして、先生が時々話題に入ってくる、といった感じだった。先生は自然科学史の話などほとんどまったくしなかった。南に面した明るい研究室は、意外にも殺風景なほど整頓されていて、机のうえだけが本や書類が積み重ねられて乱雑であった。

 彼から学んだことはとても多いが、今はやはりうまくまとめられないし、結局かんじんなことは学べていないとも思う。それでも、よく思い出すのは、「どんなことでもずっと続くってことはないしね、変わっていくことを楽しめばええんよ」といった感じの言葉である。その言葉を思い出すのは、時代が変わっていくことを、あるいは自分が老いていくことを、私がうまく受け入れることができていないからだろう。

 晩年の彼は「死に備えない」とも言っていた。どんなふうに老いてどんなふうに死ぬか誰にもわからないからである。実際、オムレツを焼いて大怪我をするとは本人も思いもしなかっただろう。

 亡くなったことはやはりさびしいが、今でも彼の言葉やただずまいを思い出すと、ちょっと笑えてくる。彼は京大という権威的な場所で、「いい加減」なことをして、権威を笑い、退屈な制度と凝り固まった精神の裏をかき、常識をずらしてみせ、周りの人を笑いながら笑わせ、自分のいたずらをたっぷりと楽しんでいたと思う。

 流石に白状はしなかっただろうが、森毅は、自分のことが大好きだったんだろうなと思う。それはやはり笑えることではないだろうか。
by kohkawata | 2010-07-26 21:07 | 現代日本の文化
<< 雑談の夜明け 映画評論と満男の告白 >>