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『生きることの社会学』、あとがきの代わりに


 少し前、私にとっては3冊目となる本を出版した。タイトルは『生きることの社会学:人生をたどる12章』。出版社は世界思想社。

 この本は、人が生まれてから亡くなるまでの生涯のなかで、「社会」という複雑で奇妙なものとどのように広く深く関わるのか、という観点から、人と社会との関係のダイナミクスを概説したもの。本のタイトルは、前著『愛の映画』をさらに上回るほどベタすぎるが、内容をわりと率直に表している。

 研究書ではなくて、私の社会学の授業を受講する学生を念頭に書いたもので、教科書として使いたいというのが一番の動機で書いた。

 私は大学院を出た1997年からずっと京都学園大学で社会学を教えてきたが(もう20年を超えてしまった・・・)、なかなかよい教科書を見つけられずにいた。社会学は幅の広い学問なので、同じ社会学者でも教える内容は人それぞれかなり異なるので、これはやむをないことである。長いあいだ、日本語になっている社会学の教科書ではアンソニー・ギデンズの『社会学』(而立書房)を気に入ってきたが、分厚すぎて高価すぎるという欠点があるうえに、流石のギデンズも改版しなくなって古くなってきた。そこで、もう自分で書いてしまおうと思ったのである。

 授業でしゃべっていることをほぼそのまま文章にすればいいなどと安易に考えていたのだが、じっさいにはしゃべることと書くことはかなり異なる営為で、思っていたよりもだいぶ難しい作業になってしまった。

 授業でしゃべる場合は、目の前にいる学生の反応によかれあしかれ引きずられる。複数の抽象的な概念を同時に使って話すと、理解してくれる可能性はかなり低くなる。初めて授業をしたとき、「社会」とは何かを説明しようとして、近世・近代欧州における社会契約の思想の歴史をしゃべったら(アルチュセールまで登場させてしまった・・・)、目の前の学生が完全にきょとんとしていて、まったく理解させられなかったのを思い出す。複数の抽象的な概念だけで議論を組み立てたりするのはご法度で、どんな学説や概念も、興味をもってくれそうな具体的な事例に沿って想像力をかきたてながら説明する必要がある。生まれてから亡くなるまで、というテーマの立て方には、私自身の研究上の興味でもあるのだが、そういう必要に迫られた事情も背景にある。そして、そういった工夫をすれば、あっさりと理解してくれることが多い。

 他方で、書く場合には、どうしても私の頭の中に「理想の読者」(極めて知的で批判的で事情通の読者)が想定されてしまって、「彼」の期待を裏切らないように、知的に面白い上に厳密に間違いのないように書かなければならない、と思い込んでしまう。論文はいつもそういう感じで書いている(のが本当にいいのかどうかわからないが、一般的には論文とはそういうものだろう)。

 興味をもたせて理解させ想像力を豊かにさせることと(社会的な想像力を豊かにすることは社会学の重要な使命であろう)、知的に厳密に書くこととは、現実には相矛盾する要請である。換言すると、学生たちのきょとんとした表情や案外なレポートを散々みてきた経験と、自分の超自我との戦いのようなものがあったというわけである。超自我のなかには、「社会学的」であることにこだわる研究者たちの目もある。

 そのような葛藤をかかえながらも、若くて賢明な編集者氏の助言のおかげもあって、何とか書き上げた。

 とはいえ、まだ授業では本格的には使っていないので、学生たちの反応はまだよくわからない。秋学期に、しっかりと読んでもらうつもりである。また、基本的には教科書として書いたが、一般の人にも、ある種の社会学の入門書(あるいはある種の社会的想像力を啓発する本)として読んでもらえたらと思って書いた。想定していたよりもずっと多くの書店に置いてもらっているようで、それならそれで書きようもあったかと思ったりもする。

 ともかくも、本書の中心的な主張は、私たちは生涯を通じて常に社会ととともにあって、その社会なるもののある種の原理的な中心は、官僚制的な国家組織や会社組織なのではなく、家族(もう少し広くいえば共同体)なのであり、社会なるものの目的は、究極的には、個々人の幸福なのだ、というアリストテレス的なテーゼである。そういう観点から、人と社会との関係をとらえなおす、というのがこの教科書のごく平凡なテーマなのだが、若い人たちにぜひ伝えたいと思っていることである。

 こういう抽象的な書き方だけでは、わかる人にはわかるけど、わからない人にはわからないだろう。今回の本では、そういうことが誰にもしっかり伝わるように、あれこれ工夫して書いたつもりである。


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# by kohkawata | 2019-08-14 18:34 | 現代日本の文化

ヘルシンキとムーミン・トロールの思い出

  去年の初夏、ライプチヒで開かれた、「世俗性」(secularity)をテーマにした、小さなワークショップに参加したのだが、その行き帰りのトランジットで立ち寄ったヘルシンキは、とても美しい街で、すっかり気に入ってしまった。

 上空からみえてきた、どこまでも森と沼の広がるフィンランドの大地は美しかった。空港から首都に向かう車内から景色も自然豊かで、時々みえる木造の伝統的な家屋は期待どおりにかわいらしかった。北欧を訪れるのは初めてだが、もしかしたら北欧はどこもこんなに美しいのだろうか。

 ヘルシンキの中心部は古い街並みをよく保存していて、日本の都市部に比べると、閑散としているといってよいほど人通りがなかった。夕方の6時になっても7時になっても日は高く、しかし店々は閉まり始め、人通りはますますなくなっていった。

 この日はたまたま、トランプとプーチンがこの街のどこかで会談をしていて、トランプ一行の車列が街中を通るということで、やや騒然としたが、一時のことだった。

 まだ白夜とまではいかないはずだが、夜中になっても空は明るいのに、ホテルの部屋からみるかぎり、もう通りには誰も歩いていなくて、不思議な光景であった。

 翌早朝、三方を海に囲まれているらしいこの街の、港の方を散策してみた。港といっても、小さな船がわずかに停泊している程度の、まるでちょっとした漁村のような雰囲気で、工場も港湾らしいものもほとんどみあたらず、堤防すらもなくて、瀟洒な民家が立ち並ぶその先にいきなりバルト海が広がっていた。

 街中の高台の最も目立つ場所に、りっぱな白亜の教会がそびえていて、なるほどヨーロッパの都市だなと思わせた。街の中心部近くに公園や植物園がかなりの広さで広がっていて静かに落ち着いているのもヨーロッパ的だが、どこか辺境都市のさびしげな感じもあって、アジアの都市の無秩序の活気とははるか遠く離れていた。

一泊したとはいえ正味なところ数時間しか観ることのできなかったこの可愛らしい不思議な街の記念にと、本屋でムーミンの本を買った。作者のトーベ・ヤンソンはヘルシンキで生まれ育ったそうだ。原文はスウェーデン語で、私が買ったのはその英語訳。Comet in Moominland, Sort of Books, 2017

 ライプチヒに滞在中に読んで、たいへん面白かった。この年読んだ本では、宮沢賢治の『春と修羅』と並んで、最も感銘を受けた。切手の収集家や天文台の研究者や自伝を書き続けるお父さんなど、たくさんの変人たちが登場するのだが、様々なかたちをとる人の愚かさにたいする、ムーミン一家の、ユーモアに満ちた寛容の態度がとてもいいなと思った。

 この北の不思議な美しい街で、こういう優れた童話が産まれたということ自体がとても童話的だと思って、拙い英語でたくさんの研究者や院生たちとしゃべったライプチヒでの経験や、ベルリンのにぎやかなカフェの楽しさと並んで、ヘルシンキでの短くて静かな滞在が、この旅でのうれしい思い出になった。


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 写真は、街の中心部に広がる植物園の裏手の、入江に臨む遊歩道と、植物園内の温室。


# by kohkawata | 2019-03-05 17:59 | 欧米の文学

女神の前世譚

 最近、といってももう4ヶ月前だが、論文を発表した。

「観音信仰にみる近世的感受性:その中国における物語の分析」

 以前に、いわゆる妙善説話をたまたま読んで(たしか最初に読んだのは、澤田瑞穂『増補寶巻の研究』のなかの要約であったかな)、その物語にひどく惹かれたことから、今回の研究ははじまった。妙善説話は、妙善という名の少女が、自分を殺そうとした父を救うために、自分の手と眼を差し出し、観音になる、という話である。この物語は、宋代につくられ、明代には観音信仰の隆盛とともに広く語られ大いに発展した。

 同時に、媽祖信仰にも興味をもっていて、そこで当初は、ひっくるめて、近世中国における女神信仰についての精神史的な研究をしようかということで、いろいろ調べてみたのだった。

 宗教的な信仰について研究するのは初めてなので、とても勉強になったし、また、文献だけでは十分共感できないだろうと思って、ここ数年いろいろな寺を見て回ってみた。とくに台湾で媽祖や観音などの廟を見て回ったが、彼の地ではまだこれらの信仰は生きたものであるので、いろいろと感じさせらせるものがあった。その時のことは、このブログに以前に書いた。日本の仏教についても思いを新たにすることが多々あった。

 妙善説話の分析の中身は、論文に書いたので繰り返さないが、今日になって、ふと、はじめて気がついたことがある。それは、妙善の物語は、実は『この世界の片隅に』によく似ているではないか、ということだ。

 妙善は、父王による熾烈な暴力に繰り返し苛まれた末に、にもかかわらず父を救うために自らの手と眼を捧げる。そのような犠牲の物語とともに、母親的な女神となって人々の信仰を集めることになった。

 すずさんもまた、国家的な暴力によって親しい人を何人も失って、自らの右手も失う。それでも、孤児の母親となって戦後を生き抜こうとするのだが、その姿に多くの人が惹きつけられたわけだ。そして、その姿は、どこか女神的でもあるように感じられる。

 若い女神的な女の肉体的な自己犠牲によって救われること・・・それは、私たちのなかにある無意識的な記憶と関係のある、ある種の普遍的な願望なのだろうか、と思ったりもするが、どうなのだろうか。しかし、男の神様や教祖も、自己犠牲的のすえに聖性を帯びることがあるようだから、あるいは、信仰とは、亡くなった人(あるいはその肉体)への追慕とか罪責感なんかとも関係していることがあるのだろうか・・・などと考えたりしている。



# by kohkawata | 2018-07-08 16:40 | 近世中国の文化

阿弥陀如来の願いについて思うこと

 いくつかの機縁が重なって、ここ半年ほど、親鸞とその周辺の人たちの著作を断続的に読んで、いろいろ考えてきた。とくに、親鸞たちの教えの核心にある、生きとし生けるものをすべて救いたいという、阿弥陀の願いについて、それは一体なんなのだろうか、と考えてきた。

 そのなかで、ああなるほど、やっぱりそうか、と思った文章がある。

 『十二個条問答』という文章のなかで、悪人も救われるなら悪いことをしてもいいじゃないかという問いにたいして答えるという文脈で、法然は次のように言っている。

「つみをばただつくるべしといふ事は、すべて佛法にいはざるところなり。たとへば人のおやの、一切の子をかなしむに、其中によき子もあり、あしき子もあり、ともに慈悲をなすといへども、悪を行ずる子をば目をいからし、杖をささげていましむがごとし。佛の慈悲のあまねき事をききては、つみをつくれとおぼしめすといふおもひをなさば、佛の慈悲にももれぬべし。悪人までをもすて給はぬ本願としらんにつきては、いよいよ佛の知見をばはずべし。かなしむべし。父母の慈悲あればとて、父母のまへにて悪を行せんに、その父母よろこぶべしや。なげきながらすてず、あはれみながらにくむ也。佛も又もてかくのごとし。」『十二個条問答』(国立国会図書館デジタルコレクション『法然上人全集』352頁)

 ここでは法然は、自明ではないB(「佛の慈悲」)がどのようなものかを説明しようとして、それは自明なA(「父母の慈悲」)のようなものだ、と言っている。

 BはAのようなもの、とはあいまいな説明の仕方で、むしろいっそ、BとはAから想像的につくられた願望の産物だ、と考えるとすっきりすると私には思える。あるいはもう少し法然たちに好意的に考えれば、Bとは、人と人のあいだで様々に顕現するAなるものの、イデア的な理想形なのだ、ということになるのではないだろうか。

 真宗では、阿弥陀様のことを「親さま」ともよぶらしい。ここでも、BがAとのアナロジーで想像されていることが示されているように思われる。

 Aは、人が生まれ育つときに与えられるものだ。だが、法然や親鸞たちは、Bは人が死ぬときにもたらされる救済なのだ、と語った。それが、彼らの教えの核心であって、その教えは数百年間にわたって日本の各地で篤く信じられた。

 そのように考えると、浄土宗や浄土真宗を熱心に信仰してきた人たちの、健気な思いがわかるような気がする。


# by kohkawata | 2018-03-06 09:35 | 近世日本の文化

『思い出のマーニー』の原作


 今年最初に読んだ本は、ジョーン・G・ロビンソン(松野正子訳)『思い出のマーニー』(特装版、岩波書店)。

 何年か前に米林宏昌監督の映画版を公開時に映画館でみてひどく感動したのだが、この年始にDVDで見直してみたら、やっぱりとてもいい映画だった。丁寧に作られた映画で、主人公の一つ一つの言動が自然で腑に落ちる。ジブリ映画は7、8割くらいは観てきたが、この作品がなかでも一番いいと思う(『となりのトトロ』、『千と千尋の神隠し』、『風立ちぬ』などもとてもいいけれど)。個性的な主人公アンナに共感できるかがすべて、といった映画だが、私には隅々までよくわかる。

 それで原作の翻訳も読んでみた。原作は1967年に出版されたもの。これまたとてもいいお話。分量が多い分、映画よりも主人公やその周囲の人々がより丁寧に描かれている。アンナにとってマーニーとは何か、映画ではやや謎めいているが(それだけに魅力的でもあったが)、原作ではアンナの不安定な精神状態がもっと克明に描かれていて、マーニーの正体もほぼ明白なものとなっている。

 また、映画では、「しめっ地やしき」の新しい住人のことはあまり描かれていないが、原作では後半の多くを使って詳しく描かれている。やさしく配慮の行き届いた両親とその元気いっぱいの子どもたちの様子は、とても素敵で、ほとんど理想的。

 そんな家族と一緒に遊んで打ち解けあって、そのうえで、みんなで一緒に本当のマーニーのことを知る。マーニーの本名はマリアンで、アンナの元々の名はマリアンナで、育ての親によってその名の後半部分からアンナの名は取られた、ということもアンナは知る。そのようにして、自分がどこから来たのかを知って、アンナは回復していく。

 マーニーを失って、しばらくしてから泣いて、泣き終わったときのアンナの気持ちが次のように語られている。(私の読んだ「特装版」には河合隼雄の解説が付いていて、同じところを引用している)

「泣きながらも、新しい、気持ちのいいさびしさが、アンナにしのびよって来ていました。それは、なにかを楽しんで、そしてそれが終わった時に感じるさびしさで、なにかをなくして、もう二度とそれを見つけることができない時のさびしさとは、ちがいました。」

 映画版のように劇的ではないが、成長していく子どもの、味わい深い別れである。

 大人になって、マーニーとの別れを思い出す時、そのさびしさは、また違うものなのだろう。でも、アンナのこころのなかにはいつももっとも素敵なマーニーがいると想像できる。

 アンナのような子どもの将来は、世間的な意味ではそんなに輝かしいものにはならないのかもしれないが、それでも十分よい人生なのだとこの物語は思わさせてくれる。






# by kohkawata | 2018-01-20 11:03 | 欧米の文学