おとぎの国の江國香織



 いまさらなことなのだろうが、江國香織に出会ってしまった。

 まだ少し暑かった初秋の東京で、日本の学会を総攬するかのような偉そうな組織が主催するシンポジウムに出席して、これまたとても偉そうな肩書きの先生の講演をききおえて、私は「なんだかなあ」とため息をついた。それは、半世紀ほど前に米日の社会科学者たちが熱心に論じていた古いテーマで、そこからたいして外に出ることができていないのに、ひどくもったいぶって自信満々で話している様子は、これが噂の「東大話法」なのか、日本の社会科学はいったいどうなってしまったのかと、がっくりつまらない気分になっていた。

 日が暮れかかって、新幹線で帰る前に、かねて少しだけ行ってみたかった谷中の町を散歩でもするかと鴬谷の駅を降りて山手へとつながる緩やかなと上り坂をとぼとぼと登ると、いかにも関東らしい深い緑の木々に彩られた空間が広がっていて、そのなかに瀟洒な洋館が建っていた。国際子ども図書館というものがあることは知っていたが、これがそうなのかと偶然の出会いを喜びながら、館内に入ってみると、天上が高くて革靴がよく響く、木造の美しい3階のホールに、子どもの本の歴史を振り返るという趣旨でたくさんの絵本が展示してあったのだが、その本たちがいかにも選りすぐりという感じの逸品ばかりであった。

 そのなかの一つが江國香織の『つめたいよるに』であった。私は何となくガラス越しにみた、長田弘と荒井良二による『森の絵本』という本とこの『つめたいよるに』に惹かれて、東京から帰ってから近所の書店で探して読んでみたのだった。

 『つめたいよるに』の冒頭の短編「デューク」を読んで、ひどく感動してしまった。愛犬が死んだ悲しみを描いている話で、私はこれを十数年前に、センター試験に出題されたさいに新聞で読んでいたことを思い出したが、そのときはそれほどには感動しなかった。冒頭の「びょうびょう泣きながら」などといった遠慮のない表現に少しひいたように記憶している。 多くの人がペットと死に別れた悲しみを胸に刻んでいると思うが、 今回読み直して、その悲しい痛みが蘇るとともに、ほんの少しかもしれないがその痛みが癒されるように感じた。そして、初読のときにはそう感じなかったと思うが、今回は、自分は飼い主の「私」であるばかりではなく、犬のデュークの方にも同一化していたように思えた。先立たれるのではなくて、先立つ方に自分の年齢がなってきたということなのだろうか。最後に二人はとても悲しい会話を交わすのだが、それは悲しいけれども本当にいい会話でもあって、これ以上いい別れは想像できないとすら思った。

 『つめたいよるに』のなかにある他の短編もいいものばかりで、「いつか、ずっと昔」も、「晴れた空の下で」も、胸を打つ悲しみがあって息苦しくなるほどだ。前者は、結婚をする直前の女の、他の男たちとの切ない別れを、後者は妻に先立たれた老人の茫漠とした境地を、いずれも巧みな寓話によって表現している。

 また『森の絵本』もよかったのだが、この絵本の絵を描いた荒井良二と江國香織がつくった絵本もみつけて、それは『モンテロッソのピンクの壁』というのだが、これまたいたく感心した。これは、モンテロッソという街のピンク色の壁にたどりたかなければならないという不思議な思いに取り憑かれた猫の話なのだが、言葉と絵が共振してとても華やかで軽妙な全体的な様子も素晴らしいが、何よりも大胆な結末に驚かされた。己の欲望を生ききることの深い喜びと、そしてその言い表しがたい悲しみとが、見事に表現されていると思う。「いつか、ずっと昔」はこの荒井良二によって絵本にもなっていて、いっそう味わい深い。

 さらに、彼女の絵本についてのエセー『絵本を抱えて 部屋のすみへ』も読んだが、これまた素晴らしい。読んだことのある絵本については「まさにその通り、よく言ってくれた」と思うし、読んだことのないものは、ぜひ読んでみたいと思わされた。例えば、『おさるのじょーじ』についての文章はこんなだ。

 「小さくて好奇心のつよい — そしてちっても学ばない — こざるの冒険に、みんな胸をどこどこさせて自分を重ねるのだろう。その徹底した天真爛漫さや怖いもの知らずのエネルギー、そして、最後にはすべて上手くいくという幸福な確信。その気分にふさわしく、どの頁も活気に溢れ、色とりどりの家や車やビルやひとでみちている。世界はそういう場所なのだ。事件のおこるべき場所」。

 ここまでくると、俄然、この作家の本を一つ残らず読んでしまいたい気持ちにかられたのだが、同時にもったいなような気もして、本屋で何冊か手に取りながら、これはと思ったものを買ってみた。それは、『すきまのおともだちたち』。新聞記者の「私」が出張の帰りに別世界(らしき所)に迷い込んで、そこで、「お皿」と二人で暮らす九才の女の子と出会う、というおとぎばなし。

 「小さなおんなのこっていうものはね、たいてのことはよく知っているものなのよ。でもやったことはないの。当然でしょう?」と宣うこの女の子(この世界にはなぜか固有名詞が存在せず、この子にも名前がない)は、ユーモアとペーソスに満ちていて、実に楽しい。彼女は、生意気にも、小心で平凡な大人である「私」にこう教え諭したりする。

 「さっきも言ったけど、旅はいつか終わるのよ。それはあしたかもしれないし、来年かもしれない。現実をありのままうけいれるの。そして、元気を出さなくちゃ」。

 どんな旅もいつか終わるという運命を噛み締めながら、希望や友情の可能性が探られているのは、やはり大人の童話というべきなのだろう。彼女は「私」とハーモニカで遊びながら、こうもいう。「ひと、りで、やるとき、より、ずーっと、おもし、ろいわ」。聡明で生意気で孤独な子がそう言ってくれるのは楽しいことだ。

 江國香織の本領は小説にあるのかもしれないが、まだほとんど読んでいない。ただ、今日までに読んだ彼女のおとぎばなし的なお話やエセーはどれも素晴らしいと思うし、私が共感できるのは彼女の小説ではないような気もする。音楽と愛犬についてのエセー『雨はコーラを飲めない』や、手近な品々についてのエセー『とるにたらないものもの』もしみじみよかった。タイトルからいいと思う。

 東京の偉そうな場所で偉そうな人が偉そうにつまらない話をしたからといって、いい年をしてため息をついたりしていては、『おともだちたち』の九才の女の子に、どうして懲りもせずにいつまでも他人をあてにして無いものねだりをしているんでしょうね、とそれこそため息をつかれてしまうかもな、と反省したりする。あるいは、江國香織は村上春樹と似ているがはるかにいい、とか言いたくなるが、そんないい草も鼻で笑われそうだ。

 この女の子の口癖はこうである。「そんなの、生まれたばかりのへびの赤ちゃんにだってわかることよ」。楽しくも見事な比喩ではないだろうか。

# by kohkawata | 2013-11-30 13:03 | 現代日本の文化 | Comments(2)

Kindle と消えゆくもの

 最近、Kindle を使いはじめた。使い心地のよさに嬉しい驚きを感じている。

 Kindle のpaper white を使っているのだが、画面に映し出される文字の塩梅がたいへんよく、上質の紙にインクで書かれた筆触のようなものすら感じる。また画面が僅かに光ることによって、文章が生き生きとしたものに感じられる。通常のパソコンの画面よりもずっと読みやすく、ほとんど本と見劣りしない水準にある。いや、本よりも、紙という介在なしに、より直接的にテクストに触れることができる感じすらする。

 そして、読みたい文章・本をすぐさま読めてしまう便利さには愕然とさせられる。20年ほど前にamazon で英語圏の本を取り寄せることのできる便利さにも愕然としたが、電子書籍によって取り寄せる時間が限りなく短くなったわけだ(海外の本をダウンロードするのはまだ簡単ではなさそうだが)。

 Kindle で最初に読んだのは堀辰雄であった。宮崎駿の『風立ちぬ』を楽しく観て、すぐに読み直したくなったのだが、研究室の書架に取りにいくよりも、早いし無料であった。そして、『風立ちぬ』のような古典的な作品を読むうえでも、Kindle の画面は少しも違和感がなかった。電源を切ったときに活字印刷をモチーフにした画像を浮かび上がらせるなど、明らかに本好きの取り込みを狙っており、薄く安っぽい文庫本よりだいぶいいとさえ感じさせられた。

 私は自分のことをかなり重傷の本好きだと思ってきたが、Kindle にふれて、自分が好きであったのは本という物体では必ずしもなく、文学作品そのもの、あるいはテクストを読むこと自体なのだということがわかった。Kindle一つさえあれば、どこでもいつでも素晴らしい作品を読むことができる、というのは安易だがとてつもなく楽しい。

 しかし、こんなにもKindle が便利で快適で、かえって少し不安なさびしい気持ちもなくはない。きっと、もはやいわゆる本を手に取って読むという行為も急速に廃れていくだろうし、自宅の書架に大量の本が並んでいるということも、本の置き場所に困るということも、すべてが多くの人にとっては過去のこととなっていくのだろう。街の本屋さんもますます姿を消していくだろう。そういえば、私が好きだった神戸の老舗海文堂も今日で店じまいだそうだ。さらにもっと情報のデジタル化が徹底していけば、まだ「書籍」というカテゴリーにしばられている「電子書籍」というものも消えていくのかもしれない。

 さらに、情報の徹底的なデジタル化が進み、情報へのアクセスの障壁がさらに低くなったとき、本屋や出版業など種々の知的産業はもちろんのこと、私たちの知性とか感性といったものさえもが大きく変わっていくのかもしれない。その内実がどのようなものになるのか、想像もできない。ただ、もしかすると、有象無象の情報がもっともっと溢れかえり、例えば宮崎駿や堀辰雄のように、たいへんな情熱を注ぎ込んで隅から隅まで行き届いた精緻な作品を生みだす、というような営為はこれまでのようには価値あるものとされないようになり、さらには気がつきさえもされないようになるのかもしれない。いや、そもそもすでに堀辰雄だって、その作品は文学としてすばらしいと思うが、すでにずいぶん忘れられていた。芸術や文学といったものの社会的なポジションや精神的な意義がまったく変わっていくのだろうと思われる。

 本も小説も童話も映画もテレビも、そうした近代の文化的産物は、情報環境のさらなるドラスティックな変化のなかですべていずれは消え去るに違いない、とまでいうとやはり何だかやはりにわかには信じられない。しかしどのみち、 もっぱら本を読んだり映画を観たりして学んできた私たち以上の世代のことは、後世の人にはもう本当には理解されないようになるのだろう。そう考えると、やはり少し悲しい。しかしまあ、近代化がはじまってここ数百年、時代はドラスティッックに変化し続けてきたし、世代間の理解なんてものはずっといたって貧しかったに違いないとは思う。
# by kohkawata | 2013-09-30 19:08 | 現代日本の文化 | Comments(0)

中国本土の不安な未来


 中国本土はこれからどうなっていくのだろうか。この13億人以上を擁する、人類の歴史上最大の国家の秩序はこれからどうなってしまうのだろうか。最近しきりと懸念されている中国の経済バブル崩壊よりも、国家的な秩序全体の混乱の方にもっと不安を覚える。

 長年独裁を続けてきた共産党支配の腐敗はもはや常規を逸しているようだ。例えば薄煕来一族の不正蓄財は5000億円近くに昇るという。どれほどの不正が積み重ねられたのか、想像を絶する。あるいは、公権力であるはずの地方政府は、紛争解決や利益誘導のために大小の暴力を秘かに行使しているという。近代国家にあるまじき事態である。中国の学会では論文の掲載に賄賂が必要だということを聞いたこともある。それが本当なら学会のすべてが茶番になってしまうが、その手の大小の腐敗・茶番は今や中国社会の隅々にまで及んでしまっているのかもしれない。

 歴史が教えてくれるのは、独裁は腐敗を生み腐敗の深刻化は体制の崩壊に帰結する、という一般的法則である。だとすれば、中国共産党の支配も早晩終わるはずである。

 もっとも現代中国についての専門家はだいたい、近いうちの体制の崩壊を予想しないようだし、体制の崩壊よりもバブルの崩壊を心配しているようである。私もまた次のようにも思う。中国共産党の政治権力の奪取・維持へのマキャベリズムぶりにはただならぬ伝統がある。また、共産党員だけではなく多くの中産階級が現在の経済発展の恩恵を受けているし、貧しい階層にも物質的な豊かさを求めるエネルギーが溢れている。そして、中国人は概して現実的で、決死の覚悟の政権打倒などという幼稚な幻想などは抱かずに、たとえ不当なものであったにしても、無秩序よりも秩序を選ぶだろう。だから、この体制は、バブル経済が多少弾けたとしても、まだしばらくは続く可能性は大いにある。

 しかし他方で、体制が末期的であることを示している兆候は他にもある。チベット族やウイグル族への弾圧、あるいは民主派への抑圧は、あまりに不当で道義を欠いており、もはや共産党の正当性など内外の人の誰も信じられないに違いない。実際、共産党の幹部たちはその資産の多くを海外に移転させており、親戚や子弟の多くがすでに海外移住しているともいう。彼らですら体制の未来を信じていないのであって、だとするならば、値上がりしすぎた株価と同じように、体制が崩壊する時は一気呵成ではないだろうか。そして、国民の全体が豊かになる前に経済成長は減速を始めてしまったようで、もし減速傾向が強まれば、格差が縮小する見通しは消え去り、大多数の国民は先進国並の豊かさを手に入れる夢も失うだろう。そうなれば、多くの人にとって茶番を続ける理由がなくなってしまう。

 仮に共産党の支配体制が崩壊するとしたら、その代わりに現れるのは何であろうか。これはきっと当事者たちにも専門家にも誰にも予言できないことだろう。しかし、ごく最近になって、欧米諸国が期待するような民主派ではなく、ある種の毛沢東主義の復活が報告されている。中国は、近代に至って、太平天国を生み毛沢東の共産党を生んだ。どちらも誰も予見しえなかったであろう、未曾有の得体のしれない集団だが、共通するのはユートピア的な万民平等の幻想と徹底した独裁体制である。そして、とてつもない災悪をもたらして、カリスマ的指導者とともに消えていった。その歴史が繰り返されるならば、今度現れるものも、今の政治体制よりもずっと幻想的で破壊的な性質をもつものかもしれない。

 だが、もうかつてのように中国は孤立していない。人と金と物と情報がかなりグローバル化している今日において、狂信が長く広く続くことは難しい。そもそも教育水準も格段に上がった。ならば、私の貧しい想像力では、多少いびつなものだとしていも、やはりある種の民主的な秩序が模索されるほかないのではないか、と思われる。毛沢東ではなく、むしろ孫文が民主化とナショナリズムを統合する象徴として復活しないだろうか。例えば香港系の映画では孫文は明らかに収まりにいい政治的かつ人間的な理想の象徴であり続けている。かつての台湾の民主化を秘かに促したという米国は、そして欧州も、間違いなく中国の安定的な民主化を望み支持するであろう。そしてもちろん、台湾も香港も韓国も中国本土の安定的な民主化を歓迎するに違いない。

 もっとも、なぜか現代の日本人は、戦前の日本人と異なって、中国の民主化に力を貸す用意がほとんどないようである。中国の民主化運動に関わっている人が来日したさいの、歓迎イベントのようなものに何度か参加してみたが、彼ら運動家たちの気骨ある情熱とは対照的に、歓迎するはずの日本人側の熱意はいつも奇妙なほど低いものしか感じられなかった。そういう私自身も、中国の古今の文化には多大な敬意と興味を抱きながらも、その政治的状況に何らかの形で貢献しようという熱意を持てないでいる(そもそも、私も含めて今の日本人には、自国の政治にたいしてすら貢献するつもりなど、ほとんどないのだろうが)。

 日本を含めた東アジアにとって、そして世界全体にとって、中国の支配体制の崩壊と刷新と民主化が、犠牲の少ない実り豊かなものなってくれたらよいのだが、そのような期待は甘すぎるような気がして心配である。現代の中国はあまりに大きく複雑で、もっと意外な、誰も予想しなかった顛末が待っているのかもしれない。
# by kohkawata | 2013-08-14 16:36 | 現代中国の映画 | Comments(0)

最高の価値とは何か

 そんなことも知らなかったのかと笑われそうな話だが、アリストテレスの「最高善」についての議論を、「復幸実学共働学習会」という研究会でアリストテレスの専門家である荒木勝先生に教えてもらって、非常に驚いた。

 あわてて『二コマコス倫理学』を読んでみたら、アリストテレスはこんなことを主張していることがわかった。個々人の諸々の行為の最終的な目的は何であるか。それは幸福になることである。快楽とか名誉とか金銭ではなく、自分自身が幸福になることが最も価値あることであり、それが「最高善」なのだ、と。

 この主張の根拠について彼はこう語っている。

 「われわれは幸福をつねにそれ自体のゆえに選び、けっして他のもののゆえに選びはしないけれども、名誉や快楽、知性、またあらゆる徳の方は、それらをわれわれはそれら自体のゆえに選びながらも(というのも、結果として何も生じなくてもわれわれはそれらの各々を選ぶであろうから)、しかし実際にはわれわれはそれらを通じて幸福になれるだろうと考えて、幸福のためにこそそれらを選ぶからである。逆に、それらのために幸福を選ぶ、というような人はだれもいないのであって、他のもののゆえに幸福が選ばれる、といったことはありえないのである。」(アリストテレス(朴一功訳)『ニコマコス倫理学』京都大学学術出版会、2007年、26頁)

 個人の幸福をもって最高の価値とする、ということをはっきりと宣言した人は前近代の東アジアにはいなかったと思う。そして、この主張は、かく説得力のある根拠とともに、一度このように宣言されてしまうと、もう否定したがたい力をもつだろうし、幸福になろうとする人間の本来的な欲望への力強い後押しとなってきただろう。

 西洋の思想の長い歴史のなかで、この革命的な主張は鳴り響き続けてきたのではないか、そう考えると腑に落ちることがいろいろある。そして、遠く、我々の日本国憲法における幸福追求権にも引き継がれている思想なのだと思われる。

 調べてみると、この説は、高校の『倫理』の教科書にちゃんと書いてある(理系だった私は「倫理」を履修しなかった)。それに、幸福こそ最高の価値とは、アリストテレスに言われなくても、現代人だったら漠然とであれもう知っているし信じてもいることであろう。だから常識の類なんだろうけど、幸福の追求は最高の善だ、とはやはりこの上なく大事な宣言だと思うので、この個人的な発見をメモしておく。
# by kohkawata | 2013-06-30 13:08 | 欧米の文学 | Comments(0)

最初で最後の『胭脂扣』

 もう先月になるが、心斎橋のシネマートで 關錦鵬(スタンリー・クワン)の『胭脂扣』(邦題『ルージュ』)をみた。

 この、25年も前になる(香港での公開は1988年)關錦鵬の代表作は、香港新浪潮の代表作でもあり、当時も今も高く評価され続けている作品なのだが、日本ではこれまで劇場での公開はなかったらしい。今回が初めてであり、最後の劇場公開になるのかもしれない。

 關錦鵬については、拙著『愛の映画』でも一章を設けてこの作品についても論じているが、今回新たに感じたこと、あるいは思いついたちょっとした仮説を書いておきたい。

 まず、DVDで観るよりも、スクリーンでみたほうが、光を上手に使っていることがよりよくわかった。主人公の如花の妓楼(1930年代の設定)には、ステンドグラスのような窓がたくさんあって、それが妓楼の狭隘な空間に光をもたらしているのだが、その華やかでいながら微妙に暗くもある光が印象的で、それは如花の、派手な化粧と衣装にもかかわらず表情がひどく暗いこととうまくあっているように思われた。

 そして、これらの妓楼のなかのシーン、つまり、冒頭の如花が口紅を塗るところから、もう一人の主人公である十二少と彼女が心中未遂をするにいたる、狭い室内で展開する諸シーンは、 關錦鵬にとって渾身の撮影であることが改めて強く感じられた。これまでの誰の映画にもなかったであろう種類の、中華文化の粋を集めた美意識を映画という表現形式のなかに情感豊かに再現したシーンであり、後で振り返ればどこかぎこちなくても、それは新しいものを創造する喜びに満ちているように感じられた。

 『胭脂扣』以降、『阮玲玉』(1992年)、『紅玫瑰白玫瑰』(1994年)などで、關錦鵬は同じように旗袍を身に纏う女性を中心とした室内劇を何度も撮るが、おそらくはこの『胭脂扣』におけるその創造的な愉悦は、観る者にとってもまれにしか体験できないものであると思う。

 この1930年代に設定された妓楼のシーンにくらべて、現代の香港のシーンはずっとラフに撮られている。現代を生きるカップルも、おかしなほど適当に撮られていて、圧倒的な存在感で迫ってくる、張國榮(レスリー・チャン)と梅艷芳(アニタ・ムイ)との落差が著しい。このことからも、關錦鵬という人が失われた時を再現することに固執していることがわかるのだが、この過去の美的再現というテーマを最初に、そして最も見事に展開したのが『胭脂扣』なのであって、当時の香港ではこの一作をもって「懐旧ブーム」が生じたとさえ伝えられる(それにしても、この懐旧的な映画を四半世紀も後に観ると、「現代」であるはずの映像も十分に懐旧的であり、何もかもが失われていくんだなと当たり前にことを感じさせられる)。

 よく知られているように、王家衛(ウォン・カーウァイ)もまた意匠をこらした狭い室内での耽美的なシーンを偏愛してきた。推測になるが、王家衛のそうした趣向は、この『胭脂扣』における妓楼のシーンに直接的な影響を受けているように思われる。それほど両者のあいだには類似性がみられるし、また王家衛が突然といってよいほどその映画的文体を確立するのは、『胭脂扣』公開の2年後の、『阿飛正傳』(邦題『欲望の翼』)においてなのである。王家衛のその前の作品は『旺角卡門』で、それは『胭脂扣』 と同じ年の公開で、時間的に影響を受けえなかっただろうし、少しも似ていない。そのように考えると、『胭脂扣』が創造の愉悦に満ちているのにたいして、『阿飛正傳』がどこかキッチュでパロディー的であるには自然なことかもしれない。両者は主演役者を共有してもいる。もっといえば、王家衛は映画作家として、關錦鵬の模倣者であり継承者である、という面をもっているのかもしれない。


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 最後に小さな文化史的推測を一つ。 上の写真は、『胭脂扣』からのもので、下の写真 は神戸のとある古い広東料理の店の窓。どちらの画像からもはっきりとはわからないかもしれないが、後者の店では、重厚な木造の狭い部屋にステンドグラスからの淡い光がもれていて、店員の女性はグレーを基調とした、見たことがないほどシックな旗袍を着ていた。以前から私はこの目立たない店の、ただならぬ文化的な佇まいに秘かに瞠目していたのだが、今回初めて『胭脂扣』の如花の妓楼に類似していることに気がついた。そういえば、たった今思い出したが、香港の飲茶の老舗陸羽茶室にも両者は似ている。ここにもステンドグラスがあって1933年創業というから、それは如花が李碧華の原作小説において亡くなったとされる年の翌年である。香港(あるいは広東辺り)の近代初頭の独特な建築と接客の文化の残光が海を隔てた日本の神戸にかろうじて残っている、ということなのだろうか。

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# by kohkawata | 2013-05-19 01:56 | 香港の映画 | Comments(0)