卒業生を見送る


 今年も卒業生たちを見送った。 

 卒業生を見送るのは毎年のことだが、今年はわりと長くつきあいがあった学生たちが多かった。もっぱら私の専門ゼミの学生たちだが、入学当初からずっと関わりのあった学生もいる。2年半前に専門ゼミで受け入れた14名の学生のうち、1人は退学、1人は早くから留年が決まっており、1人は留学中、残り11名が卒業となった。卒業する11名がそれぞれに次の社会的ステップを何とか決められたことはゼミ担当者としては少し安心させられる。

 ちょっとだけ感慨を記したい。

 長く学生をみていて痛感させられたのは、人は一人一人全然違うんだ、という当たり前のこと。

 教師の認識というは粗雑になってしまうところがあって、ずらりと並んだスーツ姿の新入生や教室でがやがやしている同じような年齢の学生たちをみると、なんだか似たような人たちのようにどうしても錯覚してしまう。同じ年齢、同じ世代、同じ日本人、だいたい関西人。それに、たくさんの試験の採点などをしていると、より「理解できている」かより「できてない」という2次元で判断しがちだ。例外は、相談をもちかけてくる学生とか退学しそうな学生といった、目に見える問題を抱えた学生で、彼らには注意深く関わろうとするが、その他の学生は「とくに問題なし」というくくりに入れてしまいがちだ。

 だが、実のところ、「とくに問題なし」の学生だってそれぞれに問題を抱えているし、誰もがそれぞれの事情や思いのなかで生きている。そうした固有性の高いところまで、教育システムや教師の配慮というのはなかなか届かない。長くつきあうなかで、彼らががんばったり手を抜いたりへこんだり、就職活動したりさぼったり、卒業するためのドタバタをやたりして、そうしたことを、ずっとみていくなかで、また彼らの両親と接触する機会があったりするなかで、ようやくそうした固有のもの、他の誰でもないその人自身の姿が見えてくることもある。1セメスター程度では私にはなかなかみえないような、そうした彼らの固有性とは、いつも私の浅薄な予想や理解の範疇をはみでるようなものであったし、おそらくは本人も十分に自覚はしていないようなものであるように感じられる。そして、私は結局は彼らのことを最後までたいしては理解するには至らなかったとも思う。

 教育関係の業界では、学生を育てるとか成長させるといったことが、簡単に言われる。間違った目標だとは思わないし、教育業界には業界なりの都合があるのも分かる。だが、一人一人の人が抱える事情や思いといった彼らの固有性にまで達するのは組織的・計画的にできるものではないし、固有性にまで響くような働きかけができないなら、本当は「成長」を望むことなどできないのだろう。だから、「成長」とは本来、教育機関や教師の領分ではありえないのだと思う。「指導」とか「成長を促す」といったことは、大抵の場合、業界内のゲームのなかの言葉遊びでしかないように私には思われる。

 教師にできることは、業界の都合に流されることなく、学生たちがその固有のリズムのなかで生きていくことの、ごくささやかな後方支援をする、という程度かなと思う。成長をする主体は彼ら自身であり、しかもそれは彼らの意志や意識とは少しずれた場所に根ざす彼らの固有のリズムのなかで行われるのだと思う。後方支援とは、うまくいえないが、彼らの固有性のありかを察知しながらもそこには踏み込まず、彼らのまだ未熟な意志や意識に働きかけ、彼らの意識の風通しをよくするようにする、というようなことであろうか。いや、もちろん、それすら少しも簡単ではない。人生はいつも人智を超えるのだ。

 さらにいえば、そうした「成長」なるものは、目につかない、喪失や歪み、あきらめや衰弱などをともなうものであり、手放しで「成長」を語ることは軽薄だと思う。だが、成長を語る教育関係者や「社会人」の言葉を気のない表情で聞き流しているのも、まさに彼らの固有性のなせることだと私には思える。

 だが、いわゆる「社会」は冷徹で、個々の社員の固有性など理解することも配慮したりすることもあまりないだろう。それでも自分自身の人生の決定権者は、他の誰でもなく自分自身にあることをわかっていてほしいなと思う。いや、きっとそんなことも、彼らは、彼らの固有のリズムのなかで、身体的にとっくにわかっているのだろうとも思う。



# by kohkawata | 2014-03-26 17:07 | 現代日本の文化 | Comments(0)

皇帝を殺す

  しばらくぶりに論文を発表した。タイトルは・・・

「皇帝を殺す~中国における至高者を殺害する物語についての予備的研究」

 この論文のそもそもの始まりは、10数年前に北京を訪れたさいに、京劇の「閙天」や「盗仙草」の段を初めて観て、秩序転覆的とでもいうべきその大胆なプロットに驚いたことにある

 「閙天」は「西遊記」の一部。孫悟空は、一個食べたら何万年も生きられるようになるという桃、しかも千年に一度しかならないというとんでもなく珍重な桃を、食べてはいけないのに、欲のままにさっさとたくさん食べてしまう。それで、天帝が激怒して悟空を成敗しようと神兵たちを差し向けるのだが、悟空は成敗されたりしないでそれと闘って勝ってしまうのである。

  「盗仙草」は「白蛇伝」の一部。息絶えた夫を蘇らせるために、蛇の化身である白娘子が天上の貴重な薬草を勝手にむしり取って、成敗しにきた連中と戦って、やはり勝ってしまうという話。

   この時はいくつかの劇場を渡り歩いたが、いずれも観光客で賑わう、湖広会館や正乙祠戯楼、あるいは梨園劇場であって、今にして思えば、「閙天」も「盗仙草」もどちらもいかにも外国人にも分かりやすい、ベタで有名な演目である。私の記憶のなかでは白娘子は一方的に勝つのだが、今の私が知るかぎりでは、たいていの「白蛇伝」のこの段では最後には「南極仙翁」が白娘子の深情を汲んで助けてくれるというプロットになっているはずで、今書いたプロットの概略は正確でないかもしれない。

   それはともかく、当時の私はこの二つの演目にとくに強い印象をもった。どちらも、この世界のルールを平然と踏みにじって、結局は罰せられもしないし、反省もしない、というありえない展開なのである。命には限りがあり、死んだものは二度と蘇らない、という生き物の根本的な原理でさえ平然と突き抜けてしまっているかのようだ。むろん『西遊記』がとんでもなく型破りな話だということは前から知っていたが、『白蛇伝』の方は、以前に読んでいたものの、その大胆な秩序転覆性に今ひとつ気がついていなかった。しかし、このとき演劇でみて、天上の聖なる薬草を、女性の主人公がまんまと盗んでしまって少しも後ろめたくなさそうなのは、日本の伝統的な物語に親しんできたものにとってはちょっとした衝撃であった。私はそれまで、前近代における民衆向けの物語というのは、なんだかんだいって結局は、世の秩序を乱したりしないものだと思っていたのだ。

   そのあと、民話の類をいろいろと読んでみると、閻魔大王をだしぬいたり、ならず者が皇帝になるなど、中国にはどうもかなり秩序転覆的な志向をもった物語が多いことがわかってきた。そして、たまたま読んだ「神筆馬良」というタイトルのお話では、主人公の少年が皇帝を溺死させてしまって、私はそんな不敬な民話がありえるのかとかなり驚いた。あとになってこれは民話ではなくて、洪汛濤という人によって1952年に創作されたものだと知ったが、古くからの民話のなかにも、同じように皇帝を溺死させてしまう「十兄弟」と通称される系統のものがあって、広く伝わっていることがわかった(この「十兄弟」については、君島久子氏の『「王さまと九人の兄弟」の世界』(岩波書店、2009年)という本が詳しくて、とても楽しい)。

  調べてみたところ、皇帝を殺してしまう民話は他にもあって、日本にも伝播している、「百鳥衣」系統のものはとくに興味深いことがわかった。私は以前に近世日本における「父殺し」の物語の研究をしたこともあるので、その日中の異同はなかなか面白かった。簡単にいえば、中国では皇帝はあっさりと殺され、日本では、中国の皇帝と同じ役回りの殿様は決して殺されないのである。天皇や将軍はそもそも登場しない。

   そんなこんなで、中国における皇帝や王を殺してしまう話を数年かけていろいろと調べてみたのだった。まだもっと調べるべきなのだが、これは期待以上にいろいろな展開が可能なテーマだということがわかってきたし、それに科研費を頂いて研究をしてきたので、その成果を早めに公表するのが義務であるようにも思い、いったん論文としてまとめてみることになった次第である。

   論文としての完成度には自信があまりないが、「挑戦的萌芽研究」という科研費の名目にはふさわしい内容かなと自分では思っている。

   今後もこの周辺のテーマを探求したいと思っている。

 ネット上で読めます。

http://www.kyotogakuen.ac.jp/~o_econ/society/treatises/pdf/23-1-kawata.pdf

   どなたでも、ご一読いただき、ご意見を頂ければ幸いです。


 



# by kohkawata | 2014-01-14 15:31 | 近世中国の文化 | Comments(0)

おとぎの国の江國香織



 いまさらなことなのだろうが、江國香織に出会ってしまった。

 まだ少し暑かった初秋の東京で、日本の学会を総攬するかのような偉そうな組織が主催するシンポジウムに出席して、これまたとても偉そうな肩書きの先生の講演をききおえて、私は「なんだかなあ」とため息をついた。それは、半世紀ほど前に米日の社会科学者たちが熱心に論じていた古いテーマで、そこからたいして外に出ることができていないのに、ひどくもったいぶって自信満々で話している様子は、これが噂の「東大話法」なのか、日本の社会科学はいったいどうなってしまったのかと、がっくりつまらない気分になっていた。

 日が暮れかかって、新幹線で帰る前に、かねて少しだけ行ってみたかった谷中の町を散歩でもするかと鴬谷の駅を降りて山手へとつながる緩やかなと上り坂をとぼとぼと登ると、いかにも関東らしい深い緑の木々に彩られた空間が広がっていて、そのなかに瀟洒な洋館が建っていた。国際子ども図書館というものがあることは知っていたが、これがそうなのかと偶然の出会いを喜びながら、館内に入ってみると、天上が高くて革靴がよく響く、木造の美しい3階のホールに、子どもの本の歴史を振り返るという趣旨でたくさんの絵本が展示してあったのだが、その本たちがいかにも選りすぐりという感じの逸品ばかりであった。

 そのなかの一つが江國香織の『つめたいよるに』であった。私は何となくガラス越しにみた、長田弘と荒井良二による『森の絵本』という本とこの『つめたいよるに』に惹かれて、東京から帰ってから近所の書店で探して読んでみたのだった。

 『つめたいよるに』の冒頭の短編「デューク」を読んで、ひどく感動してしまった。愛犬が死んだ悲しみを描いている話で、私はこれを十数年前に、センター試験に出題されたさいに新聞で読んでいたことを思い出したが、そのときはそれほどには感動しなかった。冒頭の「びょうびょう泣きながら」などといった遠慮のない表現に少しひいたように記憶している。 多くの人がペットと死に別れた悲しみを胸に刻んでいると思うが、 今回読み直して、その悲しい痛みが蘇るとともに、ほんの少しかもしれないがその痛みが癒されるように感じた。そして、初読のときにはそう感じなかったと思うが、今回は、自分は飼い主の「私」であるばかりではなく、犬のデュークの方にも同一化していたように思えた。先立たれるのではなくて、先立つ方に自分の年齢がなってきたということなのだろうか。最後に二人はとても悲しい会話を交わすのだが、それは悲しいけれども本当にいい会話でもあって、これ以上いい別れは想像できないとすら思った。

 『つめたいよるに』のなかにある他の短編もいいものばかりで、「いつか、ずっと昔」も、「晴れた空の下で」も、胸を打つ悲しみがあって息苦しくなるほどだ。前者は、結婚をする直前の女の、他の男たちとの切ない別れを、後者は妻に先立たれた老人の茫漠とした境地を、いずれも巧みな寓話によって表現している。

 また『森の絵本』もよかったのだが、この絵本の絵を描いた荒井良二と江國香織がつくった絵本もみつけて、それは『モンテロッソのピンクの壁』というのだが、これまたいたく感心した。これは、モンテロッソという街のピンク色の壁にたどりたかなければならないという不思議な思いに取り憑かれた猫の話なのだが、言葉と絵が共振してとても華やかで軽妙な全体的な様子も素晴らしいが、何よりも大胆な結末に驚かされた。己の欲望を生ききることの深い喜びと、そしてその言い表しがたい悲しみとが、見事に表現されていると思う。「いつか、ずっと昔」はこの荒井良二によって絵本にもなっていて、いっそう味わい深い。

 さらに、彼女の絵本についてのエセー『絵本を抱えて 部屋のすみへ』も読んだが、これまた素晴らしい。読んだことのある絵本については「まさにその通り、よく言ってくれた」と思うし、読んだことのないものは、ぜひ読んでみたいと思わされた。例えば、『おさるのじょーじ』についての文章はこんなだ。

 「小さくて好奇心のつよい — そしてちっても学ばない — こざるの冒険に、みんな胸をどこどこさせて自分を重ねるのだろう。その徹底した天真爛漫さや怖いもの知らずのエネルギー、そして、最後にはすべて上手くいくという幸福な確信。その気分にふさわしく、どの頁も活気に溢れ、色とりどりの家や車やビルやひとでみちている。世界はそういう場所なのだ。事件のおこるべき場所」。

 ここまでくると、俄然、この作家の本を一つ残らず読んでしまいたい気持ちにかられたのだが、同時にもったいなような気もして、本屋で何冊か手に取りながら、これはと思ったものを買ってみた。それは、『すきまのおともだちたち』。新聞記者の「私」が出張の帰りに別世界(らしき所)に迷い込んで、そこで、「お皿」と二人で暮らす九才の女の子と出会う、というおとぎばなし。

 「小さなおんなのこっていうものはね、たいてのことはよく知っているものなのよ。でもやったことはないの。当然でしょう?」と宣うこの女の子(この世界にはなぜか固有名詞が存在せず、この子にも名前がない)は、ユーモアとペーソスに満ちていて、実に楽しい。彼女は、生意気にも、小心で平凡な大人である「私」にこう教え諭したりする。

 「さっきも言ったけど、旅はいつか終わるのよ。それはあしたかもしれないし、来年かもしれない。現実をありのままうけいれるの。そして、元気を出さなくちゃ」。

 どんな旅もいつか終わるという運命を噛み締めながら、希望や友情の可能性が探られているのは、やはり大人の童話というべきなのだろう。彼女は「私」とハーモニカで遊びながら、こうもいう。「ひと、りで、やるとき、より、ずーっと、おもし、ろいわ」。聡明で生意気で孤独な子がそう言ってくれるのは楽しいことだ。

 江國香織の本領は小説にあるのかもしれないが、まだほとんど読んでいない。ただ、今日までに読んだ彼女のおとぎばなし的なお話やエセーはどれも素晴らしいと思うし、私が共感できるのは彼女の小説ではないような気もする。音楽と愛犬についてのエセー『雨はコーラを飲めない』や、手近な品々についてのエセー『とるにたらないものもの』もしみじみよかった。タイトルからいいと思う。

 東京の偉そうな場所で偉そうな人が偉そうにつまらない話をしたからといって、いい年をしてため息をついたりしていては、『おともだちたち』の九才の女の子に、どうして懲りもせずにいつまでも他人をあてにして無いものねだりをしているんでしょうね、とそれこそため息をつかれてしまうかもな、と反省したりする。あるいは、江國香織は村上春樹と似ているがはるかにいい、とか言いたくなるが、そんないい草も鼻で笑われそうだ。この女の子の口癖はこうである。「そんなの、生まれたばかりのへびの赤ちゃんにだってわかることよ」。楽しくも見事な比喩ではないだろうか。
# by kohkawata | 2013-11-30 13:03 | 現代日本の文化 | Comments(2)

Kindle と消えゆくもの

 最近、Kindle を使いはじめた。使い心地のよさに嬉しい驚きを感じている。

 Kindle のpaper white を使っているのだが、画面に映し出される文字の塩梅がたいへんよく、上質の紙にインクで書かれた筆触のようなものすら感じる。また画面が僅かに光ることによって、文章が生き生きとしたものに感じられる。通常のパソコンの画面よりもずっと読みやすく、ほとんど本と見劣りしない水準にある。いや、本よりも、紙という介在なしに、より直接的にテクストに触れることができる感じすらする。

 そして、読みたい文章・本をすぐさま読めてしまう便利さには愕然とさせられる。20年ほど前にamazon で英語圏の本を取り寄せることのできる便利さにも愕然としたが、電子書籍によって取り寄せる時間が限りなく短くなったわけだ(海外の本をダウンロードするのはまだ簡単ではなさそうだが)。

 Kindle で最初に読んだのは堀辰雄であった。宮崎駿の『風立ちぬ』を楽しく観て、すぐに読み直したくなったのだが、研究室の書架に取りにいくよりも、早いし無料であった。そして、『風立ちぬ』のような古典的な作品を読むうえでも、Kindle の画面は少しも違和感がなかった。電源を切ったときに活字印刷をモチーフにした画像を浮かび上がらせるなど、明らかに本好きの取り込みを狙っており、薄く安っぽい文庫本よりだいぶいいとさえ感じさせられた。

 私は自分のことをかなり重傷の本好きだと思ってきたが、Kindle にふれて、自分が好きであったのは本という物体では必ずしもなく、文学作品そのもの、あるいはテクストを読むこと自体なのだということがわかった。Kindle一つさえあれば、どこでもいつでも素晴らしい作品を読むことができる、というのは安易だがとてつもなく楽しい。

 しかし、こんなにもKindle が便利で快適で、かえって少し不安なさびしい気持ちもなくはない。きっと、もはやいわゆる本を手に取って読むという行為も急速に廃れていくだろうし、自宅の書架に大量の本が並んでいるということも、本の置き場所に困るということも、すべてが多くの人にとっては過去のこととなっていくのだろう。街の本屋さんもますます姿を消していくだろう。そういえば、私が好きだった神戸の老舗海文堂も今日で店じまいだそうだ。さらにもっと情報のデジタル化が徹底していけば、まだ「書籍」というカテゴリーにしばられている「電子書籍」というものも消えていくのかもしれない。

 さらに、情報の徹底的なデジタル化が進み、情報へのアクセスの障壁がさらに低くなったとき、本屋や出版業など種々の知的産業はもちろんのこと、私たちの知性とか感性といったものさえもが大きく変わっていくのかもしれない。その内実がどのようなものになるのか、想像もできない。ただ、もしかすると、有象無象の情報がもっともっと溢れかえり、例えば宮崎駿や堀辰雄のように、たいへんな情熱を注ぎ込んで隅から隅まで行き届いた精緻な作品を生みだす、というような営為はこれまでのようには価値あるものとされないようになり、さらには気がつきさえもされないようになるのかもしれない。いや、そもそもすでに堀辰雄だって、その作品は文学としてすばらしいと思うが、すでにずいぶん忘れられていた。芸術や文学といったものの社会的なポジションや精神的な意義がまったく変わっていくのだろうと思われる。

 本も小説も童話も映画もテレビも、そうした近代の文化的産物は、情報環境のさらなるドラスティックな変化のなかですべていずれは消え去るに違いない、とまでいうとやはり何だかやはりにわかには信じられない。しかしどのみち、 もっぱら本を読んだり映画を観たりして学んできた私たち以上の世代のことは、後世の人にはもう本当には理解されないようになるのだろう。そう考えると、やはり少し悲しい。しかしまあ、近代化がはじまってここ数百年、時代はドラスティッックに変化し続けてきたし、世代間の理解なんてものはずっといたって貧しかったに違いないとは思う。
# by kohkawata | 2013-09-30 19:08 | 現代日本の文化 | Comments(0)

中国本土の不安な未来


 中国本土はこれからどうなっていくのだろうか。この13億人以上を擁する、人類の歴史上最大の国家の秩序はこれからどうなってしまうのだろうか。最近しきりと懸念されている中国の経済バブル崩壊よりも、国家的な秩序全体の混乱の方にもっと不安を覚える。

 長年独裁を続けてきた共産党支配の腐敗はもはや常規を逸しているようだ。例えば薄煕来一族の不正蓄財は5000億円近くに昇るという。どれほどの不正が積み重ねられたのか、想像を絶する。あるいは、公権力であるはずの地方政府は、紛争解決や利益誘導のために大小の暴力を秘かに行使しているという。近代国家にあるまじき事態である。中国の学会では論文の掲載に賄賂が必要だということを聞いたこともある。それが本当なら学会のすべてが茶番になってしまうが、その手の大小の腐敗・茶番は今や中国社会の隅々にまで及んでしまっているのかもしれない。

 歴史が教えてくれるのは、独裁は腐敗を生み腐敗の深刻化は体制の崩壊に帰結する、という一般的法則である。だとすれば、中国共産党の支配も早晩終わるはずである。

 もっとも現代中国についての専門家はだいたい、近いうちの体制の崩壊を予想しないようだし、体制の崩壊よりもバブルの崩壊を心配しているようである。私もまた次のようにも思う。中国共産党の政治権力の奪取・維持へのマキャベリズムぶりにはただならぬ伝統がある。また、共産党員だけではなく多くの中産階級が現在の経済発展の恩恵を受けているし、貧しい階層にも物質的な豊かさを求めるエネルギーが溢れている。そして、中国人は概して現実的で、決死の覚悟の政権打倒などという幼稚な幻想などは抱かずに、たとえ不当なものであったにしても、無秩序よりも秩序を選ぶだろう。だから、この体制は、バブル経済が多少弾けたとしても、まだしばらくは続く可能性は大いにある。

 しかし他方で、体制が末期的であることを示している兆候は他にもある。チベット族やウイグル族への弾圧、あるいは民主派への抑圧は、あまりに不当で道義を欠いており、もはや共産党の正当性など内外の人の誰も信じられないに違いない。実際、共産党の幹部たちはその資産の多くを海外に移転させており、親戚や子弟の多くがすでに海外移住しているともいう。彼らですら体制の未来を信じていないのであって、だとするならば、値上がりしすぎた株価と同じように、体制が崩壊する時は一気呵成ではないだろうか。そして、国民の全体が豊かになる前に経済成長は減速を始めてしまったようで、もし減速傾向が強まれば、格差が縮小する見通しは消え去り、大多数の国民は先進国並の豊かさを手に入れる夢も失うだろう。そうなれば、多くの人にとって茶番を続ける理由がなくなってしまう。

 仮に共産党の支配体制が崩壊するとしたら、その代わりに現れるのは何であろうか。これはきっと当事者たちにも専門家にも誰にも予言できないことだろう。しかし、ごく最近になって、欧米諸国が期待するような民主派ではなく、ある種の毛沢東主義の復活が報告されている。中国は、近代に至って、太平天国を生み毛沢東の共産党を生んだ。どちらも誰も予見しえなかったであろう、未曾有の得体のしれない集団だが、共通するのはユートピア的な万民平等の幻想と徹底した独裁体制である。そして、とてつもない災悪をもたらして、カリスマ的指導者とともに消えていった。その歴史が繰り返されるならば、今度現れるものも、今の政治体制よりもずっと幻想的で破壊的な性質をもつものかもしれない。

 だが、もうかつてのように中国は孤立していない。人と金と物と情報がかなりグローバル化している今日において、狂信が長く広く続くことは難しい。そもそも教育水準も格段に上がった。ならば、私の貧しい想像力では、多少いびつなものだとしていも、やはりある種の民主的な秩序が模索されるほかないのではないか、と思われる。毛沢東ではなく、むしろ孫文が民主化とナショナリズムを統合する象徴として復活しないだろうか。例えば香港系の映画では孫文は明らかに収まりにいい政治的かつ人間的な理想の象徴であり続けている。かつての台湾の民主化を秘かに促したという米国は、そして欧州も、間違いなく中国の安定的な民主化を望み支持するであろう。そしてもちろん、台湾も香港も韓国も中国本土の安定的な民主化を歓迎するに違いない。

 もっとも、なぜか現代の日本人は、戦前の日本人と異なって、中国の民主化に力を貸す用意がほとんどないようである。中国の民主化運動に関わっている人が来日したさいの、歓迎イベントのようなものに何度か参加してみたが、彼ら運動家たちの気骨ある情熱とは対照的に、歓迎するはずの日本人側の熱意はいつも奇妙なほど低いものしか感じられなかった。そういう私自身も、中国の古今の文化には多大な敬意と興味を抱きながらも、その政治的状況に何らかの形で貢献しようという熱意を持てないでいる(そもそも、私も含めて今の日本人には、自国の政治にたいしてすら貢献するつもりなど、ほとんどないのだろうが)。

 日本を含めた東アジアにとって、そして世界全体にとって、中国の支配体制の崩壊と刷新と民主化が、犠牲の少ない実り豊かなものなってくれたらよいのだが、そのような期待は甘すぎるような気がして心配である。現代の中国はあまりに大きく複雑で、もっと意外な、誰も予想しなかった顛末が待っているのかもしれない。
# by kohkawata | 2013-08-14 16:36 | 現代中国の映画 | Comments(0)