「海辺の伝説」の上演

  伯母の森禮子の戯曲が舞台にかかった。

 伯母がまだ37才であった1965年に初演された「海辺の伝説」(『森禮子戯曲集』所収)を、福岡を拠点とする「ゲキダン大河」が今回上演したのである。演出は佐藤順一氏。私は11月26日(土)の13時からの回を拝見した。

 異人館のダイニングルームのなかだけでドラマは進んで行く。こんな話だ。 

 夫亡き後、惚けたようにトランプ占いばかりしている未亡人白沢夫人と、父の残した異人館を守るべく一人で奮闘する長女綾子の二人が物語の中心にいる。他に、未亡人の弟で文学青年くずれで居候の宗吉と、銀行に勤める未亡人の長男信彦、亡き夫が愛人に生ませた次男勝彦とがいる。

 異人館に住むこの五人は、すでに気持ちがばらばらであることが、演劇の冒頭で示される。みな同じ部屋にいるのに、別々の場所で別々のことをしながら別々の方向に視線をむけている。家族にはすでに資産はなくアメリカ人の船長が建てたという古びた異人館と借金だけが残っていて、支払いが滞ってガスさえもとめられようとしている。

 それでも、この家族はバラバラなんかではなく今でも豊かで楽しい生活ができていると惚けた夫人は思い込んでいるし、綾子はがんばれば家族を立て直すことはできるはずだとまだ信じて必死に努力している。神様を信じている綾子にとって、事実はどうであれ信じることが救いなのだ。だが、男たちはみなもうばらばらになっていることを知っていて、信彦は自分さえうまくやっていければよいという態度で家族のためには一銭たりとも払おうとしない。勝彦は反抗的な態度でこの家族が欺瞞に満ちていることをみなに知らしめようとするし、宗吉は劇中で何度も家をでていこうとしている(だが、なぜか彼はその度に出立を延期する)。

 綾子はなんとか一家を救うべく、知人の金持ちのお嬢さんをハンサムな弟信彦に紹介して結婚させようとしている。銀子という名前のこのお嬢さんは異人館を訪れる約束をしていて、舞台の上でみなが、銀子さんこそが一家を救うかもしれないと期待して、その来訪を首を長くして待っているのだが、約束の時間を過ぎても銀子さんは来ない。たまりかねて信彦は駅に迎えに行くが、銀子さんは現れなかった。家族の全員が、とくに綾子は、ひどく落胆する。きっとこの家族にはもはや資産も何もないことがばれたのだろう、だから来てくれなかったのだ、とみなは諦める。

 信彦の結婚がだめならば、最後の望みは「手文庫」だということになる。手文庫とは、未亡人の夫が残したもので、この手文庫のなかには膨大な遺産が残されているはずだ、とみんな信じているのである。

 演劇のクライマックスは、これまで開けずにいたこの手文庫を開けるシーンである。そこにちゃんと期待通りに遺産が残されていれば、異人館を守ることができるし、家族は再出発できるはずだ。みなが固唾を呑んで見守るなか、鍵を管理していた綾子が手文庫をあける。だが、そこには無価値な古い証文の類があるだけであった。

 綾子は、実は、手文庫のなかにはめぼしい遺産は何もないことを最初から知っていたのだが、あえてそれを隠してきたのである。何かあると期待させることでみなをつなぎとめられると思ってきたからであろう。

 だが、何もないことがわかった今、家族はとうとう本当にバラバラになる。ずっと姉の家に居候してきた宗吉は、意を決して本を担いで出て行ってしまう。異人館に憧れてお手伝いをしていた、まだ若くて純朴な喜代は、一つの家族が崩れ落ちていくのを目の当たりにして、呆然とする。

 そんな話である。

 原作では、登場人物たちの個性がかなりくっきりと描かれているのだが、演劇においてはそれぞれの役者さんたちがかなりがんばってその個性をしっかり血肉化していると感じた。原作と演出と役者とが、時代や世代を超えて、ちゃんとうまく繋がっていて、演劇として十分に成立していて、なかなかの迫真の人間ドラマとなっていた。とくに、今風の人物ではない、真面目でヒステリックな綾子は共感しにくかったかもしれないが、熱演であったと思う。白沢夫人の惚けぶりも怖いほどであった。若い役者さんも多かったが、偉そうな言い方で恐縮だが、いい経験を積んでいるのではないかと思った。宗吉は、原作ではちょっと滑り気味の道化役であったので、演じるのはなかなか大変であったかもしれない。

 作品世界と作者の実生活とを重ねるのは邪道とする研究者もいるが、私は一般論として必ずしもそう思わないし、親族にしかわからない部分もあるかもしれないので、ちょっと書いておく。

 前にもこのブログで書いたが、伯母の戯曲作品では、この「海辺の伝説」と同じように、夫を亡くした夫人とその子どもたちという構成の家族が繰り返し描かれている。

 これは伯母自身の若いころの時代の家族構成とよく似ていてる。「海辺の伝説」では、未亡人の子どもは長女・長男・次男の三人だが、現実には、伯母からみれば、母と姉二人、弟一人(私の父親である)の家族であった。長姉は伯母が十七才のときに亡くなっており、次姉は米国人と結婚して渡米している。劇中の次男勝彦は、本当のことを率直にいう説明役ともいうべき存在で、その意味で実在性に乏しいことも考えあわせると、劇中の家族構成と、ある時期の伯母の実際の家族の構成とはほぼ正確に重なる。つまり、母と娘と息子の三人である。

 だが、劇にはもう一人の隠れた重要人物がいて、それは未亡人の夫、綾子の父親である。この人がどんな人であったか、異人館を買って交通事故で急死したこと以外語られていないが、伯母の父親は建築技師で福岡の県庁に勤めていた。伯母はこの父の三女として福岡で生まれ、父親の転勤にともない三才で大阪に転居したが、その地で父親は病をえて、福岡の元の家に一家で帰り、その年のうちに亡くなっている。1933(昭和8)年、伯母がまだ5才であった時のことである(以上は森禮子『じゅすた遺文』所収の年譜による)。

 この一家が異人館のようなりっぱな洋館に住んでいたという話はきかないが、父親が亡くなり終戦を迎えたのちの生活がかなり苦しく、この時期に「家作」を次々に手放したという。この境遇は、劇中の白沢家の状況によく重なる。また、綾子が建築としての家に拘っていることは、伯母の父親が建築技師であったこととも相通じる。また、居候のおじも実際にいたらしい。満州で鉱山を掘り当てて成功したもののわけあって郷里に出戻っていたこのおじには放蕩の傾向があったともきくので、劇中の宗吉の様子とも多少重なる。

 このように見ていくと、この「海辺の伝説」は伯母が自分の家族をベースにして創作したものだ、といって間違いないだろう。

 そして、伯母自身がもっともよく投影されているのは、当然ながら綾子であろう。長姉が亡くなり、次姉が渡米し、弟が就職をして関東に転居するなかで、最後まで母親と暮らしていたのが、伯母である。私の知る中年以降の伯母は綾子のように一家を守るために懸命であったとか真面目な人という印象はないが、当時の彼女の置かれた状況を考えれば、そうなるのは仕方ないことであったろう。三人続けての女の子の三番目であった伯母と最初の男の子であったその弟との間が生易しものではなことは簡単に想像できるし知らないわけでもないが、綾子と信彦のあいだの不信と諍いも深刻なものとして表現されている。

 綾子は神様を信じており、伯母はクリスチャンであった。年譜をみると、19才のときに西南学院バプティスト教会で受洗している。母親が夫の死後に入信しているので、母親の影響であろう。それ以降伯母は終生クリスチャンだった。

 この劇のなかにははっとするセリフがあって、それは勝彦がお手伝いの喜与にむかって綾子への不満をいう文脈で言う「世の中にゃ神様を信じているつもりで、信じていると思っている自分を信じているやつが多いんだ」というところである。これは、信仰というあり方そのものへの批判だし、また「家」を信じている綾子への当てつけでもあって、この批判は劇中で反論されることはない。

 つまり、この劇は、一家の崩壊を描くとともに、綾子の信念が崩れ去っていくことを描いてもいる。もしも、伯母=綾子なのだとすれば、「海辺の伝説」はかなり深刻な自己批判・自己崩壊の劇なのだともいえる。劇が終わったとき、綾子にも白沢夫人にも、もう何の未来も希望も残されていないかのようである。

 現実の伯母は、しかし、28才のときに福岡を離れて上京している。遅い上京であるが、すでに地元の文芸誌に多くの作品を発表し福岡の局のラジオドラマの脚本なども書いていた彼女は、東京で文学者として本格的に身を立てる覚悟であったのだろう。したがって、伯母は、家を懸命に守ろうとした綾子でもあったのだが、結局は姉を捨てて旅立った、文学好きの宗吉でもあるわけだ。

 ちなみにいえば、白沢夫人のモデルにあたるのかもしれない伯母の母は、伯母が上京してから半世紀近く生きた。その大部分の年月を、結婚し子供を生み育てた同じ家で一人で暮らした。その間、惚けたりはしておらず、せっせと家事をし近隣の道の掃除までして、きちっと教会に通っていたようだ。白沢夫人のイメージとかなり異なるが、孫の私からみてあったかいやさしいおばあちゃん、といった感じはほとんどなくて、その点で子どもたちに興味がなさそうな夫人と似ているかもしれない。

 伯母は、実家から去ったがその母と同様に信仰は捨てなかった。だとすると、勝彦の信仰批判は、伯母自身のなかではどう受け止められたのか、私のような信仰のない人間にはよくわからない。ただ、私は、前にもブログで書いたが、父を欠いたまま家族が崩れていくことと神への信仰とは、伯母のなかではまっすぐに繋がっているのではないかと思う。そして、伯母には、自分のことも突き放してみるような、俯瞰的で冷徹なところがあるように感じられる。

 いずれにせよ、「海辺の伝説」は、ある時期の伯母の家族が終わっていった現実をドラマにしたものだと考えていいと思う。そして、どんな家族もいずれは終わっていくのであって、その意味で、今回拝見したゲキダン大河の「海辺の伝説」は、私にとっては親族のドラマなのであるが、同時に、家族の終末という重たい普遍的なテーマにも連なったものを表現していたといえるだろう。

 伯母はずっと独身で、半世紀にわたり東京で一人で暮らしていたが、最晩年には福岡に帰り、2014年の春に亡くなった。


# by kohkawata | 2016-12-01 18:36 | 現代日本の文化 | Comments(0)

七夕あれこれ



 去年の秋頃から中国の七夕伝説について調べはじめて、最近になって一通り論文を書き終わった。この二千年を超えて語り継がれてきた物語を追いかける作業はこれまでにないほど楽しい作業であった。もう少ししたら紀要かどこかに発表したいと思っている。

 私は5歳のころまで平塚に住んでいたのだが、この街で盛んな七夕の祭りの記憶はかすかにしかない。それでも、七夕関係のことを調べるとどんなことであれとても懐かしく床しく思えるのは、記憶の底に華やいだ七夕の祭りのがあるからだと感じられる。無意識的な記憶というのは人の感情を深いところで支えているもののようだ。

 それはともかく、日本の七夕についても少し調べたので、そのことを記しておく。

 学生たちにきくと、短冊に願い事を書いて笹につるす、という習慣は今日全国的なもののようで、たいていの人が小学生のころに経験している。この習慣は江戸期にまで遡れるようだ。天の川にさかれた織姫と彦星が七夕の夜に再会するというお話もたいていの人には周知のものだろう。

 日本に織女と牽牛の話が最初に伝わったのはおそらく万葉集の時代で、二人を詠った詩が万葉集に多くある。乞巧奠という七夕の祭りは、聖武天皇の時代には宮中で行われていて、正倉院にその品々が残っていて、私も去年の正倉院展で乞巧奠用のひどくおおぶりな針と糸をみたことがある。こうした王族・貴族層における七夕に関わる習俗は朝鮮半島経由で伝わったようで、百済の王家の末である百済王氏がかつて支配した枚方から交野にかけての一帯には、天野川や星田、織物神社など七夕にまつわる地名が今も残る。

 しかし、日本における七夕の習俗は、こうした大陸系のものだけではなく、日本在来の習俗にも起源がある、とされる。

 折口信夫によれば、七夕の「たな」とは、本来「棚」で、これは神の宿るところと観念されていたという(だから、神棚は棚にしてしつらえられるのである)。この神がやってくる場所である棚で、選ばれた乙女が機(はた)を織りながら神がやってくるのを待って結婚をする、という「たなばたつめ(棚機つ女)」についての古い信仰があって、それが七月七日に牽牛織女が再会するという外来の話とむすびついて、七夕のことを「たなばた」と呼ぶようになったのだ、という(「七夕祭りの話」『折口信夫全集』第17巻、1996年、中央公論社)。

 折口の時代の民俗学全体がそうなのだが、この折口の説も検証ができるようには書かれていないので、どこまで本当かわからない。しかし、ともかくもこの、在来の「たなばたつめ」の信仰と中国系の七夕の説話とが合流して、日本における七夕の習俗が生まれた、というのが今日でも定説となってる(本居宣長も同様の説を述べている)。

 その後、日本各地で展開した七夕に関わる習俗は、今日の短冊に願い事を書く習慣が一様なのと対照的に、地域と時代によってずいぶんと多様性がある。

 津軽地方では「ねぶた」の祭りが盛んだが、かつてはこれは七夕の行事という側面が強かったようである。津軽のねぶたを描いた古い絵には、燈籠のようなものに「七夕」と「織女」の文字が書き込まれているのをみたことがある。秋田能代の夏祭りは、能代役七夕というが、能代ねぶながしともいうらしい。「ねぶた」は眠りを醒ますという意味が元来はあって、この「ねぶた流し」の祭りが七夕と重なることは、柳田國男によれば、越後や越中にもみられるそうだ(『年中行事覚書』)。

 京都では、西陣織が盛んであった地域にある今宮神社に織姫社という社があって、織女信仰があった痕跡をとどめているが、どんな信仰であったか、よくわからない。今年の8月5日に訪れてみたところ、境内では祭りの準備をしていて、織姫役と思われる女性が舞いの練習をしていた。京都新聞の今月2日の記事に「10年以上前に途絶えた今宮神社末社の織姫社(京都市北区)の七夕祭が今月、同志社大の学生有志や地域にゆかりのある人たちの手によって再興される」とあるが、おそらくこれのことだろう。

 また、石沢誠司氏の『七夕の紙衣と人形』(ナカニシヤ出版、2004年)によれば、七夕に紙で作った衣を飾るという習俗は、全国的といってよいほど広がっていたらしく、江戸時代以降の文献にその記録が散見されるようである。例えば、京都の街中でも、七夕の時期に、女の子が紙で衣を織って飾るという習俗が江戸時代以降にあったようだが、今日では廃れている。

 同書によれば、松本や糸魚川、黒部などには、七夕に紙衣ないし紙の人形をつくる習慣が今日も残り、 有名な仙台の七夕祭りでも、よくみれば紙衣が今日でも飾られている。砺波の呉服屋の娘として生まれ小矢部に暮らしていた人も七夕になるといつも紙衣をつくって笹につって飾っていたともいう。

  姫路市の東南の海岸部一帯(姫路市の妻鹿から高砂市の曾根あたり)でも、七夕の日、すなわち8月6日に、自宅の軒先などに、野菜や果物を供え、七夕人形(紙衣)や提灯あるいは短冊などを細い竹竿にぶらさげて飾って、翌朝には海に流すという習俗が盛んであったらしい。

 私も今年の8月6日の夕刻に、この本を頼りにこの姫路の一帯を歩いてみて、大塩にお住まいの方々からお話を伺い七夕飾りを拝見することができた。

 子ども(あるいは孫)が生まれて初めて七夕の日を迎えると、その家では8月6日に飾りつけをして、翌朝には川や海に流していたそうで、近年ではゴミになるので細かくきって捨てるそうである。ただし提灯と人形は取っておいて翌年以降も使う。子どもが小さいうちは毎年「七夕さん」を各家庭でしていたが、今では子どもがすくなくなったので七夕さんをする家庭はずいぶん少なくなったそうだ。また、この日には、親から子どもに、あるいは親族から提灯が贈られて、それをたくさん家に飾る、ということも行われていたが、今ではすっかりやらなくなった、ともきいた。この親とは誰のことかちゃんと伺わなかったが、おそらく、生まれた子どもからみれば祖父母のことであろう。


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 上の写真は、大塩の「柴田提灯店」さんで売っていたもので、織姫と彦星である。店の方の手作りだそうである。拝見した七夕飾りでもこの店の紙の着物や提灯が使われていた。

 大塩や白浜の宮の街角には、自治会の連絡用のボードがたくさんたっていて、「初七夕」「七夕初め」といった表現で、誰々さんのところに誰々という名前の子どもが初めての七夕を迎えたことを告知する紙が貼ってあったりした。全体的な印象でいえば、この姫路の「七夕さん」は、少なくとも今日では、子どもが生まれ育っていくことを祝う行事であるように感じられた。

 なぜ七夕で紙衣を飾るのかといえば、折口の面白い説がある。棚にやってくる神は、「幼少な上に、身体が不自由で、恐らくは裸であったろうと思われます。此神に「みそぎ」をさせると、俄に成長いたして、大抵は弟姫と結婚いたす事になります。つまり、「たな」の中で、女性が機を織つて居るのは、神の様な尊い人が来て、結婚するのを待つて居るのだとも、考へられるのであります」。そこで、「この七夕で、「たなばたつめ」が、男に貸して上げる着物がなくて、困るであろうといつて、女性が着物を七夕さんに貸して上げます」(『折口信夫全集』第17巻、1996年、中央公論社、264、266頁)。織女に着物を貸すというこのストーリーは、今日の京都や姫路にはないようだが、以前には各地に残っていたようである。

 また、高槻で子ども時代をすごした知人によれば、女の子たちが千代紙で衣を折って七夕に飾るという遊びが流行っていたそうだ。織姫の紙衣のことは、「お姫さん」と呼んでいたとか(お雛様のときにも雛人形を千代紙で折っていたそうだ)。1970年代初めの話である。

 といった具合に、日本では七夕に関わる習俗は盆や正月ほど盛んではないにしても、時代を超えて様々なかたちで脈々と受け継がれてきたことがわかる。子どもが紙で着物をつくったり、短冊に願い事を書いたりと、全体に可愛らしい習俗で、これは元来の織女と牽牛が年に一度だけ再会するという話の健気さに通じるものだと思う。

 各地の習俗の変遷や、竹笹に願い事を書いた短冊を吊すというスタイルの全国化の過程などはまだ不明なところが多く、研究者にとっては格好のテーマがまだ残されているといえるだろう。

# by kohkawata | 2016-08-09 16:15 | 近代日本の文化 | Comments(0)

『森禮子戯曲集』から『じゅすた遺文』へ


 森禮子氏は私の伯母にあたる人で、小説家であったが、一昨年(2014年)の三月に亡くなった。

 実家の書棚には、伯母から送られてきた本が並んでいたが、私はそれらの本をちゃんと読んだことはなかった。理由はいくつかあるが、一つには彼女の作品のなかに私たちの親族のことが赤裸々に描かれているのだろうと思って、そのことにある種の倫理的な違和感があったことがある。なかでも、「モッキングバードのいる街」は、私のもう一人の、渡米した伯母をモデルにしていると聞いて、かなり不安な気持ちになったものだった。この作品はテレビドラマになっていて、私は高校生の時にテレビで偶然ちらりとみたのだが、それは、主人公らしき中年の女性が思春期の息子に Jap!と罵られて激昂して彼を殴り殺してしまう場面で、見てはいけないものをみてしまったように感じて、テレビを切った。

 同じ頃、伯母は、彼女の親戚が家元をしている華道の流派がだしていた『花泉』という雑誌に随筆の連載をもっていた。そのなかに、最近の若者はロボットのように情がない、といった捨て鉢な言葉を読んで、理由はそれだけではないにしても、私はこの文学者に何かを期待してはいけないように思ってしまった。

 私は、しかし、亡くなってしばらくして、近所の駅裏の古本屋の書棚で彼女の小説集『モッキングバードのいる街』(新潮社、1980年)を偶然見かけて、追善の気持ちで、買って読んでみた。

 薄っぺらな倫理観やちょっとした不安を理由にしてこれまで彼女の作品をほとんど読んでこなかったことを私は悔やんだ。表題作「モッキングバードのいる街」も、たしかにその語り手が渡米した伯母をモデルに造形されていることは間違いないが、息子を殺すのはその知人であり、サイドストーリーにすぎないことを今回はじめて知った。私はもっと早くに彼女の作品を読んでつまらない誤解を解き、異郷で孤独を深めながら自分の毒に苦しむ繊細な心理描写にいくらかでも共感したことを伯母に伝えるべきであったのかもしれない。

 そこで、今更であるが、やはり追善の気持ちで、彼女がごく若かったころに書いた戯曲を収めた『森禮子戯曲集』(菁柿堂、2000年)を読んでみたので、これらの戯曲の感想を書いてみる。


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 この本には、1965年から1970年にかけて上演された、四つの戯曲が収められている。「海辺の伝説」「罠のなか」「われらの葡萄園」「通りゃんせ」である。互いによく似た話で、どれもが小さな家族が崩れていく様子を描いている。

 例えば、「通りゃんせ」では、72歳の未亡人の華子の家族を描く。この家には、華子のほかに、その長女と次女、そして長男の妻が暮らしている。長男は行方不明で、みな彼の生存を信じて、彼が残した温室を大切にしながら、帰ってくるのを待っているのであるが、老いた傭人が、長男はこの家族の醜い遺産争いのために殺されたのだと言い出し、みなを狼狽させる・・・といった展開である。

 「海辺の伝説」も、未亡人とその子どもたちの家が没落していく話で、「われらの葡萄園」も、未亡人とその子どもたちの不和を描いており、同じパータンのプロットである。「罠のなか」は、倦怠しきった夫婦を描き、やや異なるプロットではあるが、しかし四つの作品のいずれにおいても、小さな家族が、かつての栄光の日々を抱きしめながら、虚偽と諍いを重ねたあげくに、絶望と離散にまで到る劇が、繰り返されている。家族の泥沼を描きながらも、劇の全体構造は明快であり俯瞰的でもある。

 この崩落のドラマたちにおいて、とくに目立つのは「父の不在」である。石材店を舞台とする「われらの葡萄園」では、十三年前になくなった父が等身大より大きい胸像となって舞台の奥に鎮座している。「海辺の伝説」も、未亡人の夫は家屋敷だけ残してとうに死んでいる。「通りゃんせ」では未亡人の夫も長男もいない。そして不在の父を囲むかのように、なお女たちが家族を演じているが、実はもう気持ちはすっかりばらばらである。

 唯一、彼女たちをつなぎ止めるのは、父の「遺産」である。残された家族は、その遺産に頼りあてにして生きている。それは物質的に頼っているだけではなく、心の支えでもある。「われらが葡萄園」では、長男と次男の不和を描くが、長男の妻は、義父の残した葡萄園を心の支えにして、この家がバラバラになっていくことに耐えようとする。「通りゃんせ」では、父ではなく長男の遺したものなのだが、「温室」が同じ意味をもつ。

 だが、劇のなかで、その父の「遺産」などというものは実は存在しなかったということがわかってくる。ここが、彼女の戯曲の核心である、と思う。娘たちは父の豊かな「遺産」の実在を信じてそれにすがって生きてきたのだが、その遺産なるものは「からっぽ」なのだ。「海辺の伝説」における「手文庫」はその代表的象徴であって、すっかり貧乏になって今日の生活にも困るようになった女たちは、手文庫の中に父が残した財産が入っているとあてにしていたのであるが、いざ鍵をさして手文庫を明けてみると、そこには何も入っていなかったのである。

 あれほど期待し頼りにしていた父の遺産がからっぽであることの衝撃・・・・主人公たちは、そこで凍りついて動けなくなってしまう。そして、思うに、伯母の文学も、少なくとも若いころのそれは、この父の不在とその遺産の欠落に直面するところで終わっているように思われる。

 伯母の実人生においてもその父親は早世している。だが、この「父の不在」は実父の早世のためだけではない、と私には思える。むしろ、在世中から父としてあるべき何かが決定的に欠落していて、早世のためにそのあまりの欠落を受け入れることが難しくなってしまったのではないだろうか、と親族としての断片的な聞き伝えからも、そして彼女の作品を読んでみても、そう思う。伯母が終生独身であったのは、彼女が不在の父の娘であったことと無縁ではなかったのかもしれない。

 この中心がぱっくりと欠落したままという感覚から、「父なる神」への信仰は、伯母のなかではまっすぐにつながっているのではないかと、彼女の作品を読んで感じた。彼女の母親は、夫の死後プロテスタント系のキリスト教に入信しており、その後再婚せず、ずっと教会に通い続けた。伯母が入信した経緯は知らないが、直接にはその母親の影響であろう。そして伯母もプロテスタントであることを終生やめなかった。晩年には、長崎や五島列島にやってきた外国人宣教師たちと隠れキリシタンの足跡を探す旅を続けたという。その旅には、戯曲で示されたあの欠落を探し求める、という意味があったのではないだろうか。

 ともかくも、伯母の残した作品を読んでみて、この薄情であった甥にも伯母のさびしさが人ごとならぬほど骨身にこたえてわかった気がする。そう記すことが少しは追善になるだろうか。

 なお、伯母の死後、その友人たちの篤志によって遺稿集が編まれた。『じゅすた遺文』(弓町本郷協会、2015年、非売品)である。その表題作は、戦国時代末期の動乱を背景として、運命に翻弄されて孤独な晩年をすごすことになった、有馬晴信の妻じゅすた(洗礼名)の思いを書簡のかたちで一人称で綴る。私が読んだ範囲でいえば、伯母の最も優れた小説の一つであって、どうしうもない欠落に苦しみ続けたのであろう、伯母その人の晩年の諦念が、歴史絵巻のかすかな華やぎのなかに示されていると感じられる。



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 多くの人の好意によって遺稿がこのように美しい本になったことは、伯母の実人生が、少なくともその晩年においては、その作品から感じられるほどには、孤独ではなかったことを示しているように思われる。
# by kohkawata | 2016-07-18 18:04 | 現代日本の文化 | Comments(0)

台南の古廟


 2月の下旬に台南の古い廟をたくさん見て廻った。台南を訪れるのは二度目で、前回は駆け足でよくある観光をしただけだったが、今回は少しゆっくり見物できた。

 台南にはたくさんの古い廟がある。そのことは、1930年代に台南に暮らした前嶋信次の『〈華麗島〉台湾からの眺望』や四方田犬彦『台湾の歓び』(2015年)などを読んで、かねて知識としては知っていたが、実際に台南の古い市街を歩いてみると、想像をはるかに超えて、街のそこかしこで大小様々な廟に遭遇し続けた。細い路地のどんずまりにも、賑やかな市場のなかにも、ひっそりと静かな住宅街の一隅にも、古廟はあった。廟の密度は、京都市中における寺社の密度をはるかに上回るだろう。

 台南は、よく知られているように、台湾で最も古くから漢族が住みついた街である。中国本土が、とくに19世紀半ば以降何度も大規模な内乱と戦渦に巻き込まれたのとは対照的に、また本土の都市や台北が近代化・現代化のなかで急速に発展しその市街地の容貌を大きく変えてきたのとも異なり、台南では平和が続き都市化もゆるやかであった。大東和重氏の『台南の文学:日本統治期台湾・台南の日本人作家群像』(2015年)を読むと、日本統治時代も、台南を訪れた佐藤春夫が台南をノスタルジックに「廃市」としてその荒廃の美を描くほどに、台南の変化はゆるやかであったようだ。ちなみに、この本によれば、 「廃市」という魅惑的なイメージは、フランス語圏からの輸入品だが、廃市という漢語そのものは北原白秋がその故郷柳川をそう呼んだのが最初であろう、とのこと。

 むろん、今日の台南は「廃市」どころではなく、どのエリアも大いに賑わっている。しかしそれでも、その古い市街地を歩いていると、古い廟は大切に残され、今なお神々への信仰はしっかりと残っており、廃市ではないにしても、「古都」という名にはふさわしいと思われた。近年では、台湾の人たち自身もこの古都を大いに再評価しているらしく、『移民台南』(魚夫、2013年)という本が売れたりして、台南に「移住」するのが流行っているのだとか。実際、古い市街を再生したエリアである五條港には、お洒落なカフェや雑貨屋が多くみられた。

 さて、廟に祭られている神々は、廟によって異なりかなりの多様性をみせるが、最も人気のあるのは、やはり媽祖であるようだ。台南のなかでも早くに開けた地区である安平に、海に向かって建っている媽祖を祭る安平天后宮は、なかなか壮麗なもので、 遠慮しながら撮った下の写真ではあまり伝わらないかもしれないが、 内部の装飾の豪華さは、人々の篤い信仰ゆえのものであろう。台南には媽祖を祭る廟としては他にも大天后廟と開基天后宮が著名で、どちらも信仰を集めている様子だった。媽祖は様々な名で呼ばれるが、最も多く見かけたのは、「天上聖母」という表記だ。この名前に、人々の媽祖への篤い気持ちが表れていないだろうか。


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 また、関帝、観音菩薩、臨水夫人なども、なかなかりっぱな廟に祭られていた。全体に、台湾海峡を挟んだ海の向う、福建省近辺での信仰が移植されたものが多いようだ。他にも、孫悟空を「齊天大聖」とよんで祀っている廟もあったし、織姫とその姉妹たちを「七星娘娘」として祀っている廟もあった。台南市の北隣の嘉義市には、日本統治時代の警官が神となって祀られている廟もあるらしい。誰が神となるのか、その辺の事情なり気持ちというものを知りたく思うが、よくわからない。ただ、実在の人物が神となっていく場合、不幸な亡くなり方をした人、あるいは夭折した人が多いようだ(関羽、臨水夫人、廣澤尊王、五妃、森川清治郎など)

 このように、祭られている神は多様であるものの、実際に多くの廟の様子を見て廻ると、それぞれの廟による違いよりも、むしろどの廟も同じような雰囲気の佇まいであることが印象的であった。

 廟の前には、たいていは石畳の広場があって、老木が木陰をつくっていたりする。そこに古ぼけた木の椅子が置いてあって、お年寄りがのんびりと腰をかけていたりする。廟の外観は、たいていは凹型の曲線を描いて反り上がっていく屋根が目立つ。しばしば電光掲示板が目立つところにあって、イベントの告知をしていたりする。内部に入っていくと、正面手前には、日本のものよりずっと大振りの線香が香炉のなかにたくさん刺され燃えていて、落ち着く匂いがする。その左右には必ず大振りで派手な色の生花がたくさん供えられている。かなり熱心に信仰している人たちがいる証であろう。香炉と生花の手前には、跪いてお祈りする人たちのための膝置きがある。どこでみたのも、茶色いビニール風の生地で覆われたクッションであった。実際に、跪いて、あるいは立ったまま、お祈りしている人たちがたくさんいて、お年寄りばかりではなく、ごく若い人たちも熱心にお祈りをしていた。

 祈る先には、もちろん神様がいらっしゃる。どの神様であれ、必ず、たいへん派手は衣装をお召しになっている。刺繍で華やかに飾らた、たいていは黄色を主体に原色を多用したもので、決して古びてはおらず、真新しい。しかし、神像のお顔は、対照的に、長い年月を経たように黒光りをしている。表情の造形は、かなり繊細なもので、射奇峰『台湾神明図鑑』(2014年)によれば、清代より今日にいたるまで、台南には仏像を彫る職人たちがいてその高度な技術が継承されてきたらしい。とてもよいお顔の神様をたくさん拝見することができた。

 正面の神様の他に、ほとんどの廟には左右に神様が祭られている。またしばしば、奥に別の棟があって、そこにも神々が祭られている。また二階があってそこにまた別の神様が祭られていることもある。これらの、配祀(従祀というべきか)された、左右・奥・階上の神々は、いわば脇役になるわけだが、よく祭られていたのは、観世音菩薩と註生娘娘であった。 

 造形も色使いも派手な中国式の宗教建築と祭器の数々は、わびさびた渋いものをよしとする傾向のある日本人には落ち着かないように感じられるが、台南の街で廟を見慣れてくると、華やかな装飾でありながら、次第にそこに懐かしい落ち着きのようなものを感じるようになってきたのは、意外な体験であった。装飾と生花に彩られた、気配りの行き届いた静かな空間のなかで、男女の神々がこちらを斜め上からご覧になっていて、どこか懐かしい匂いにつつまれて、もはや存在しないはずの、自分が子どものころの家に帰ってきたよう安心感に包まれるような感じがした。あるいはそれが、台南の、あるいは漢民族の、廟の魅力の中心なのかもしれない。

 また、廟の内部の左右には、王爺とよばれる、大きな神像が一体ずつ置かれていることが多かった。この王爺は、瘟疫神として台湾全土で祀られているらしいが、他の神像とは異なって、内部が空洞の、いわゆる「はりぼて」でできている。前嶋信次の前掲書によれば、この王爺像は、船に乗せられて流される(これを「送瘟」といって、疫病を払う効果があったと信じられていた)ものなのだが、今でもそうした習俗は行われているのだろうか。お顔のつくりもごくおおざっぱで、ベロを出したりしておどけた顔をしているのは、災厄をもたらす疫神を戯画化しているのだろう。

 ちなみに、仏教系であるはずの観世音菩薩を祀る廟と道教系の神を祀る廟とのあいだにはとくに違いはない。日本の神仏習合よりもいっそう、儒・仏・道は混淆して区別がつかないが、仏教系で祀られているのは、私がみた範囲では他に地蔵菩薩のみで、儒教系は孔子廟だけで、この廟は、拝観料を徴収するせいか、生花も飾られておらず、地元の人に信仰されている様子があまりなかった。大ざっぱにいえば、すべて道教的な方向に収斂していったということだろうか。

 これらの廟には、どうやら専従の僧侶というものはいないようだ。僧侶なり道士といった、その廟に専従している人、あるいはその廟の所有者といった人みあたらず、その代わりに、たいていは「◯◯管理委員会」というところがそれぞれの廟の管理をやっていることになっている。◯◯には、「開隆宮」などといった具合に廟の名前が入る。この管理委員会がどういった法的な地位にあるのかわからないが、おそらくその実質的な運営の主体は、近所のお年寄りたちであろう。

 日本の小さな寺を訪れると、個人宅にお邪魔してしまような感じになることがあるが、台南の廟にはそういう感じはないし、また政府なり自治体が管理している様子もまったくなくて、どの廟もみな、地元の人たちの共有のもの、といった趣が強い。拝観料も、私が訪れた範囲でいえば孔子廟を除いて、まったくとらない。

 近所の人が大切に管理しているという点で日本の寺よりも神社に近いが、神社よりははるかに参拝する人が多く、よく手入れされている。 台南の廟は、宗派や国家権力ではなく、台南の人々の自立的な信仰によって育まれてきたということ、そして人々の生活のなかに今でもしっかりと根ざしているということだろう。

 今回の台南では、幸運にも元宵節の祭りをみることができた。元宵節の祭りは農歴の正月十五日に燈籠を灯して楽しむ祭りで、漢民族でははるか漢の時代にまで遡れるものである。

 

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 写真は、府城普濟殿という廟へと続く國華街の路上に飾られた燈籠。地元の小学生たちが描いたものらしい。とれくらい古態を留めているのか、わからない。台南の廟のなかには荒廃していたものを近年になって修復しなおしたものも多いらしいので、こうしたお祭りも、あるいは最近になって新たにはじめたものかもしれない。 





# by kohkawata | 2016-03-25 16:31 | 近世中国の文化 | Comments(2)

海街diary

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 去年、格別感銘を受けた本といえば、吉田秋生『海街diary』。

 仕事帰りに立寄ったイオンモールで、漫画の原画の複製(変な言い方だが、そんな表現だった)が展示してあって、そのなかに『海街diary』の絵があった。写真撮影していいとあったので撮って、それをここに載せてみた(それはダメかな?)。この二人の子どもの元気一杯な様子はとてもよくて、お母さんの深くやさしい眼差しを感じた。よく知らなかったけど、吉田秋生ってこんなやさしい絵を書く人だったんだと意外であった。

 そこで6巻まで刊行されている『海街diary』を読んでみた・・・これは本当に素晴らしい漫画だった。冒頭の第1話がすでに完璧なドラマだ。父の葬式の翌日、孤児同然になってしまった、まだ中学生のすずが会って日の浅い異母姉の幸に苦労をねぎらわれて号泣する場面、これは6巻全体のクライマックスでもあって、数十ページでここまでドラマを盛り上げていることに大いに驚かされた。そしてその後数頁で、もうすずは異母姉たちと暮らすことを決意してしまうのだが、こんなふうに瞬く間にゆるぎのない絆が生まれるドラマに感涙してしまった。幸姉の、強さと賢さをもった愛情、それは優柔不断なやさしさとはまったく別次元なんだと思い知らされる。

 第2話以降は、鎌倉での静かな美しい物語。そこで繰り返されているのは、大切なものを突然取り返しのつかないかたちで喪う痛みと、そこからゆっくりと回復していく願望充足的な時間である。 父に母にも去られた姉妹、右足を失うサッカー少年、初めての彼女が去っていく予感に慄く中学生・・・いくつもの取り返しのつかない喪失に遭遇しながらも、美しい鎌倉の風景と祖父母の残した家のなかでそっと慰めあい助けあいながら生きていく人たちの姿を静かに描いている。

 漫画を読んで分かったのだが、載せた「原画」は、海猫食堂ですずと風太があじフライ定食を食べているところであるに違いない。この食堂のおばちゃんは病気で店を閉じることになるのであって、ここでも取り返しのつかない喪失が描かれている。取り返しのつかないことばかりだけど、それでも、子どもたちにはうまいものをもりもりと食べてくれよと願う、素朴だけどゆるぎのない愛情がこの漫画を支えていると思う。

 原作を読んだ後、映画版を観るべきか、ちょっと迷った。原作の素晴らしさを壊されたくなかったからである。しかし、実際に観てみると、是枝監督がこの原作をとても大切に思って撮ったことがよくわかって安心した。すずが号泣するあの場面を二つにわけたのは、役者の力量に応じた、理解できる工夫だ。鎌倉の四季を背景に美しい情景を存分に映し出しているのは、漫画にはできない映画のわざである。

 それにしても、こんな境地に達するまで、吉田秋生という人はどんな修羅場をくぐってきたのだろう、と思う。ずいぶん前にこの作者の漫画は幾つか読んだはずで、もっと怖い作品であったように記憶するが、『海街diary』があまりにも素晴らしいので、今は再読しないでおこうと思う。



# by kohkawata | 2016-01-25 19:34 | 現代日本の文化 | Comments(2)