『森禮子戯曲集』から『じゅすた遺文』へ


 森禮子氏は私の伯母にあたる人で、小説家であったが、一昨年(2014年)の三月に亡くなった。

 実家の書棚には、伯母から送られてきた本が並んでいたが、私はそれらの本をちゃんと読んだことはなかった。理由はいくつかあるが、一つには彼女の作品のなかに私たちの親族のことが赤裸々に描かれているのだろうと思って、そのことにある種の倫理的な違和感があったことがある。なかでも、「モッキングバードのいる街」は、私のもう一人の、渡米した伯母をモデルにしていると聞いて、かなり不安な気持ちになったものだった。この作品はテレビドラマになっていて、私は高校生の時にテレビで偶然ちらりとみたのだが、それは、主人公らしき中年の女性が思春期の息子に Jap!と罵られて激昂して彼を殴り殺してしまう場面で、見てはいけないものをみてしまったように感じて、テレビを切った。

 同じ頃、伯母は、彼女の親戚が家元をしている華道の流派がだしていた『花泉』という雑誌に随筆の連載をもっていた。そのなかに、最近の若者はロボットのように情がない、といった捨て鉢な言葉を読んで、理由はそれだけではないにしても、私はこの文学者に何かを期待してはいけないように思ってしまった。

 私は、しかし、亡くなってしばらくして、近所の駅裏の古本屋の書棚で彼女の小説集『モッキングバードのいる街』(新潮社、1980年)を偶然見かけて、追善の気持ちで、買って読んでみた。

 薄っぺらな倫理観やちょっとした不安を理由にしてこれまで彼女の作品をほとんど読んでこなかったことを私は悔やんだ。表題作「モッキングバードのいる街」も、たしかにその語り手が渡米した伯母をモデルに造形されていることは間違いないが、息子を殺すのはその知人であり、サイドストーリーにすぎないことを今回はじめて知った。私はもっと早くに彼女の作品を読んでつまらない誤解を解き、異郷で孤独を深めながら自分の毒に苦しむ繊細な心理描写にいくらかでも共感したことを伯母に伝えるべきであったのかもしれない。

 そこで、今更であるが、やはり追善の気持ちで、彼女がごく若かったころに書いた戯曲を収めた『森禮子戯曲集』(菁柿堂、2000年)を読んでみたので、これらの戯曲の感想を書いてみる。


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 この本には、1965年から1970年にかけて上演された、四つの戯曲が収められている。「海辺の伝説」「罠のなか」「われらの葡萄園」「通りゃんせ」である。互いによく似た話で、どれもが小さな家族が崩れていく様子を描いている。

 例えば、「通りゃんせ」では、72歳の未亡人の華子の家族を描く。この家には、華子のほかに、その長女と次女、そして長男の妻が暮らしている。長男は行方不明で、みな彼の生存を信じて、彼が残した温室を大切にしながら、帰ってくるのを待っているのであるが、老いた傭人が、長男はこの家族の醜い遺産争いのために殺されたのだと言い出し、みなを狼狽させる・・・といった展開である。

 「海辺の伝説」も、未亡人とその子どもたちの家が没落していく話で、「われらの葡萄園」も、未亡人とその子どもたちの不和を描いており、同じパータンのプロットである。「罠のなか」は、倦怠しきった夫婦を描き、やや異なるプロットではあるが、しかし四つの作品のいずれにおいても、小さな家族が、かつての栄光の日々を抱きしめながら、虚偽と諍いを重ねたあげくに、絶望と離散にまで到る劇が、繰り返されている。家族の泥沼を描きながらも、劇の全体構造は明快であり俯瞰的でもある。

 この崩落のドラマたちにおいて、とくに目立つのは「父の不在」である。石材店を舞台とする「われらの葡萄園」では、十三年前になくなった父が等身大より大きい胸像となって舞台の奥に鎮座している。「海辺の伝説」も、未亡人の夫は家屋敷だけ残してとうに死んでいる。「通りゃんせ」では未亡人の夫も長男もいない。そして不在の父を囲むかのように、なお女たちが家族を演じているが、実はもう気持ちはすっかりばらばらである。

 唯一、彼女たちをつなぎ止めるのは、父の「遺産」である。残された家族は、その遺産に頼りあてにして生きている。それは物質的に頼っているだけではなく、心の支えでもある。「われらが葡萄園」では、長男と次男の不和を描くが、長男の妻は、義父の残した葡萄園を心の支えにして、この家がバラバラになっていくことに耐えようとする。「通りゃんせ」では、父ではなく長男の遺したものなのだが、「温室」が同じ意味をもつ。

 だが、劇のなかで、その父の「遺産」などというものは実は存在しなかったということがわかってくる。ここが、彼女の戯曲の核心である、と思う。娘たちは父の豊かな「遺産」の実在を信じてそれにすがって生きてきたのだが、その遺産なるものは「からっぽ」なのだ。「海辺の伝説」における「手文庫」はその代表的象徴であって、すっかり貧乏になって今日の生活にも困るようになった女たちは、手文庫の中に父が残した財産が入っているとあてにしていたのであるが、いざ鍵をさして手文庫を明けてみると、そこには何も入っていなかったのである。

 あれほど期待し頼りにしていた父の遺産がからっぽであることの衝撃・・・・主人公たちは、そこで凍りついて動けなくなってしまう。そして、思うに、伯母の文学も、少なくとも若いころのそれは、この父の不在とその遺産の欠落に直面するところで終わっているように思われる。

 伯母の実人生においてもその父親は早世している。だが、この「父の不在」は実父の早世のためだけではない、と私には思える。むしろ、在世中から父としてあるべき何かが決定的に欠落していて、早世のためにそのあまりの欠落を受け入れることが難しくなってしまったのではないだろうか、と親族としての断片的な聞き伝えからも、そして彼女の作品を読んでみても、そう思う。伯母が終生独身であったのは、彼女が不在の父の娘であったことと無縁ではなかったのかもしれない。

 この中心がぱっくりと欠落したままという感覚から、「父なる神」への信仰は、伯母のなかではまっすぐにつながっているのではないかと、彼女の作品を読んで感じた。彼女の母親は、夫の死後プロテスタント系のキリスト教に入信しており、その後再婚せず、ずっと教会に通い続けた。伯母が入信した経緯は知らないが、直接にはその母親の影響であろう。そして伯母もプロテスタントであることを終生やめなかった。晩年には、長崎や五島列島にやってきた外国人宣教師たちと隠れキリシタンの足跡を探す旅を続けたという。その旅には、戯曲で示されたあの欠落を探し求める、という意味があったのではないだろうか。

 ともかくも、伯母の残した作品を読んでみて、この薄情であった甥にも伯母のさびしさが人ごとならぬほど骨身にこたえてわかった気がする。そう記すことが少しは追善になるだろうか。

 なお、伯母の死後、その友人たちの篤志によって遺稿集が編まれた。『じゅすた遺文』(弓町本郷協会、2015年、非売品)である。その表題作は、戦国時代末期の動乱を背景として、運命に翻弄されて孤独な晩年をすごすことになった、有馬晴信の妻じゅすた(洗礼名)の思いを書簡のかたちで一人称で綴る。私が読んだ範囲でいえば、伯母の最も優れた小説の一つであって、どうしうもない欠落に苦しみ続けたのであろう、伯母その人の晩年の諦念が、歴史絵巻のかすかな華やぎのなかに示されていると感じられる。



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 多くの人の好意によって遺稿がこのように美しい本になったことは、伯母の実人生が、少なくともその晩年においては、その作品から感じられるほどには、孤独ではなかったことを示しているように思われる。
# by kohkawata | 2016-07-18 18:04 | 現代日本の文化 | Comments(0)

台南の古廟


 2月の下旬に台南の古い廟をたくさん見て廻った。台南を訪れるのは二度目で、前回は駆け足でよくある観光をしただけだったが、今回は少しゆっくり見物できた。

 台南にはたくさんの古い廟がある。そのことは、1930年代に台南に暮らした前嶋信次の『〈華麗島〉台湾からの眺望』や四方田犬彦『台湾の歓び』(2015年)などを読んで、かねて知識としては知っていたが、実際に台南の古い市街を歩いてみると、想像をはるかに超えて、街のそこかしこで大小様々な廟に遭遇し続けた。細い路地のどんずまりにも、賑やかな市場のなかにも、ひっそりと静かな住宅街の一隅にも、古廟はあった。廟の密度は、京都市中における寺社の密度をはるかに上回るだろう。

 台南は、よく知られているように、台湾で最も古くから漢族が住みついた街である。中国本土が、とくに19世紀半ば以降何度も大規模な内乱と戦渦に巻き込まれたのとは対照的に、また本土の都市や台北が近代化・現代化のなかで急速に発展しその市街地の容貌を大きく変えてきたのとも異なり、台南では平和が続き都市化もゆるやかであった。大東和重氏の『台南の文学:日本統治期台湾・台南の日本人作家群像』(2015年)を読むと、日本統治時代も、台南を訪れた佐藤春夫が台南をノスタルジックに「廃市」としてその荒廃の美を描くほどに、台南の変化はゆるやかであったようだ。ちなみに、この本によれば、 「廃市」という魅惑的なイメージは、フランス語圏からの輸入品だが、廃市という漢語そのものは北原白秋がその故郷柳川をそう呼んだのが最初であろう、とのこと。

 むろん、今日の台南は「廃市」どころではなく、どのエリアも大いに賑わっている。しかしそれでも、その古い市街地を歩いていると、古い廟は大切に残され、今なお神々への信仰はしっかりと残っており、廃市ではないにしても、「古都」という名にはふさわしいと思われた。近年では、台湾の人たち自身もこの古都を大いに再評価しているらしく、『移民台南』(魚夫、2013年)という本が売れたりして、台南に「移住」するのが流行っているのだとか。実際、古い市街を再生したエリアである五條港には、お洒落なカフェや雑貨屋が多くみられた。

 さて、廟に祭られている神々は、廟によって異なりかなりの多様性をみせるが、最も人気のあるのは、やはり媽祖であるようだ。台南のなかでも早くに開けた地区である安平に、海に向かって建っている媽祖を祭る安平天后宮は、なかなか壮麗なもので、 遠慮しながら撮った下の写真ではあまり伝わらないかもしれないが、 内部の装飾の豪華さは、人々の篤い信仰ゆえのものであろう。台南には媽祖を祭る廟としては他にも大天后廟と開基天后宮が著名で、どちらも信仰を集めている様子だった。媽祖は様々な名で呼ばれるが、最も多く見かけたのは、「天上聖母」という表記だ。この名前に、人々の媽祖への篤い気持ちが表れていないだろうか。


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 また、関帝、観音菩薩、臨水夫人なども、なかなかりっぱな廟に祭られていた。全体に、台湾海峡を挟んだ海の向う、福建省近辺での信仰が移植されたものが多いようだ。他にも、孫悟空を「齊天大聖」とよんで祀っている廟もあったし、織姫とその姉妹たちを「七星娘娘」として祀っている廟もあった。台南市の北隣の嘉義市には、日本統治時代の警官が神となって祀られている廟もあるらしい。誰が神となるのか、その辺の事情なり気持ちというものを知りたく思うが、よくわからない。ただ、実在の人物が神となっていく場合、不幸な亡くなり方をした人、あるいは夭折した人が多いようだ(関羽、臨水夫人、廣澤尊王、五妃、森川清治郎など)

 このように、祭られている神は多様であるものの、実際に多くの廟の様子を見て廻ると、それぞれの廟による違いよりも、むしろどの廟も同じような雰囲気の佇まいであることが印象的であった。

 廟の前には、たいていは石畳の広場があって、老木が木陰をつくっていたりする。そこに古ぼけた木の椅子が置いてあって、お年寄りがのんびりと腰をかけていたりする。廟の外観は、たいていは凹型の曲線を描いて反り上がっていく屋根が目立つ。しばしば電光掲示板が目立つところにあって、イベントの告知をしていたりする。内部に入っていくと、正面手前には、日本のものよりずっと大振りの線香が香炉のなかにたくさん刺され燃えていて、落ち着く匂いがする。その左右には必ず大振りで派手な色の生花がたくさん供えられている。かなり熱心に信仰している人たちがいる証であろう。香炉と生花の手前には、跪いてお祈りする人たちのための膝置きがある。どこでみたのも、茶色いビニール風の生地で覆われたクッションであった。実際に、跪いて、あるいは立ったまま、お祈りしている人たちがたくさんいて、お年寄りばかりではなく、ごく若い人たちも熱心にお祈りをしていた。

 祈る先には、もちろん神様がいらっしゃる。どの神様であれ、必ず、たいへん派手は衣装をお召しになっている。刺繍で華やかに飾らた、たいていは黄色を主体に原色を多用したもので、決して古びてはおらず、真新しい。しかし、神像のお顔は、対照的に、長い年月を経たように黒光りをしている。表情の造形は、かなり繊細なもので、射奇峰『台湾神明図鑑』(2014年)によれば、清代より今日にいたるまで、台南には仏像を彫る職人たちがいてその高度な技術が継承されてきたらしい。とてもよいお顔の神様をたくさん拝見することができた。

 正面の神様の他に、ほとんどの廟には左右に神様が祭られている。またしばしば、奥に別の棟があって、そこにも神々が祭られている。また二階があってそこにまた別の神様が祭られていることもある。これらの、配祀(従祀というべきか)された、左右・奥・階上の神々は、いわば脇役になるわけだが、よく祭られていたのは、観世音菩薩と註生娘娘であった。 

 造形も色使いも派手な中国式の宗教建築と祭器の数々は、わびさびた渋いものをよしとする傾向のある日本人には落ち着かないように感じられるが、台南の街で廟を見慣れてくると、華やかな装飾でありながら、次第にそこに懐かしい落ち着きのようなものを感じるようになってきたのは、意外な体験であった。装飾と生花に彩られた、気配りの行き届いた静かな空間のなかで、男女の神々がこちらを斜め上からご覧になっていて、どこか懐かしい匂いにつつまれて、もはや存在しないはずの、自分が子どものころの家に帰ってきたよう安心感に包まれるような感じがした。あるいはそれが、台南の、あるいは漢民族の、廟の魅力の中心なのかもしれない。

 また、廟の内部の左右には、王爺とよばれる、大きな神像が一体ずつ置かれていることが多かった。この王爺は、瘟疫神として台湾全土で祀られているらしいが、他の神像とは異なって、内部が空洞の、いわゆる「はりぼて」でできている。前嶋信次の前掲書によれば、この王爺像は、船に乗せられて流される(これを「送瘟」といって、疫病を払う効果があったと信じられていた)ものなのだが、今でもそうした習俗は行われているのだろうか。お顔のつくりもごくおおざっぱで、ベロを出したりしておどけた顔をしているのは、災厄をもたらす疫神を戯画化しているのだろう。

 ちなみに、仏教系であるはずの観世音菩薩を祀る廟と道教系の神を祀る廟とのあいだにはとくに違いはない。日本の神仏習合よりもいっそう、儒・仏・道は混淆して区別がつかないが、仏教系で祀られているのは、私がみた範囲では他に地蔵菩薩のみで、儒教系は孔子廟だけで、この廟は、拝観料を徴収するせいか、生花も飾られておらず、地元の人に信仰されている様子があまりなかった。大ざっぱにいえば、すべて道教的な方向に収斂していったということだろうか。

 これらの廟には、どうやら専従の僧侶というものはいないようだ。僧侶なり道士といった、その廟に専従している人、あるいはその廟の所有者といった人みあたらず、その代わりに、たいていは「◯◯管理委員会」というところがそれぞれの廟の管理をやっていることになっている。◯◯には、「開隆宮」などといった具合に廟の名前が入る。この管理委員会がどういった法的な地位にあるのかわからないが、おそらくその実質的な運営の主体は、近所のお年寄りたちであろう。

 日本の小さな寺を訪れると、個人宅にお邪魔してしまような感じになることがあるが、台南の廟にはそういう感じはないし、また政府なり自治体が管理している様子もまったくなくて、どの廟もみな、地元の人たちの共有のもの、といった趣が強い。拝観料も、私が訪れた範囲でいえば孔子廟を除いて、まったくとらない。

 近所の人が大切に管理しているという点で日本の寺よりも神社に近いが、神社よりははるかに参拝する人が多く、よく手入れされている。 台南の廟は、宗派や国家権力ではなく、台南の人々の自立的な信仰によって育まれてきたということ、そして人々の生活のなかに今でもしっかりと根ざしているということだろう。

 今回の台南では、幸運にも元宵節の祭りをみることができた。元宵節の祭りは農歴の正月十五日に燈籠を灯して楽しむ祭りで、漢民族でははるか漢の時代にまで遡れるものである。

 

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 写真は、府城普濟殿という廟へと続く國華街の路上に飾られた燈籠。地元の小学生たちが描いたものらしい。とれくらい古態を留めているのか、わからない。台南の廟のなかには荒廃していたものを近年になって修復しなおしたものも多いらしいので、こうしたお祭りも、あるいは最近になって新たにはじめたものかもしれない。 





# by kohkawata | 2016-03-25 16:31 | 近世中国の文化 | Comments(2)

海街diary

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 去年、格別感銘を受けた本といえば、吉田秋生『海街diary』。

 仕事帰りに立寄ったイオンモールで、漫画の原画の複製(変な言い方だが、そんな表現だった)が展示してあって、そのなかに『海街diary』の絵があった。写真撮影していいとあったので撮って、それをここに載せてみた(それはダメかな?)。この二人の子どもの元気一杯な様子はとてもよくて、お母さんの深くやさしい眼差しを感じた。よく知らなかったけど、吉田秋生ってこんなやさしい絵を書く人だったんだと意外であった。

 そこで6巻まで刊行されている『海街diary』を読んでみた・・・これは本当に素晴らしい漫画だった。冒頭の第1話がすでに完璧なドラマだ。父の葬式の翌日、孤児同然になってしまった、まだ中学生のすずが会って日の浅い異母姉の幸に苦労をねぎらわれて号泣する場面、これは6巻全体のクライマックスでもあって、数十ページでここまでドラマを盛り上げていることに大いに驚かされた。そしてその後数頁で、もうすずは異母姉たちと暮らすことを決意してしまうのだが、こんなふうに瞬く間にゆるぎのない絆が生まれるドラマに感涙してしまった。幸姉の、強さと賢さをもった愛情、それは優柔不断なやさしさとはまったく別次元なんだと思い知らされる。

 第2話以降は、鎌倉での静かな美しい物語。そこで繰り返されているのは、大切なものを突然取り返しのつかないかたちで喪う痛みと、そこからゆっくりと回復していく願望充足的な時間である。 父に母にも去られた姉妹、右足を失うサッカー少年、初めての彼女が去っていく予感に慄く中学生・・・いくつもの取り返しのつかない喪失に遭遇しながらも、美しい鎌倉の風景と祖父母の残した家のなかでそっと慰めあい助けあいながら生きていく人たちの姿を静かに描いている。

 漫画を読んで分かったのだが、載せた「原画」は、海猫食堂ですずと風太があじフライ定食を食べているところであるに違いない。この食堂のおばちゃんは病気で店を閉じることになるのであって、ここでも取り返しのつかない喪失が描かれている。取り返しのつかないことばかりだけど、それでも、子どもたちにはうまいものをもりもりと食べてくれよと願う、素朴だけどゆるぎのない愛情がこの漫画を支えていると思う。

 原作を読んだ後、映画版を観るべきか、ちょっと迷った。原作の素晴らしさを壊されたくなかったからである。しかし、実際に観てみると、是枝監督がこの原作をとても大切に思って撮ったことがよくわかって安心した。すずが号泣するあの場面を二つにわけたのは、役者の力量に応じた、理解できる工夫だ。鎌倉の四季を背景に美しい情景を存分に映し出しているのは、漫画にはできない映画のわざである。

 それにしても、こんな境地に達するまで、吉田秋生という人はどんな修羅場をくぐってきたのだろう、と思う。ずいぶん前にこの作者の漫画は幾つか読んだはずで、もっと怖い作品であったように記憶するが、『海街diary』があまりにも素晴らしいので、今は再読しないでおこうと思う。



# by kohkawata | 2016-01-25 19:34 | 現代日本の文化 | Comments(2)

韓国の半跏思惟像



 
夏休みに、釜山とソウルを訪れる機会があった。釜山ははじめてで、ソウルは5年ぶりであった。


 釜山の港近くの、賑わっていながらどこかのんびりと気の抜けた雰囲気の釜山の古い市街もよかったし、ソウルの食堂でいただいたカンジャンケジャン(醤油味のタレに漬け込んだ生の蟹の料理)はとても美味しかったりして、いろいろと楽しかったのだけれど、一番感銘を受けたのは、ソウルの国立中央博物館で拝まさせていただいた、「金銅半跏思惟像」。


 「半跏思惟像」といえば、日本では中宮寺のものと広隆寺のものが著名で、私もどちらにも深い敬愛の念を抱いている。黒い光沢の微笑みをもつ中宮寺の半跏思惟像も、精緻な美しさのなかに素朴さをかいまみさせる広隆寺のそれも、どちらもをこのうえなく素晴らしいと思う。そして、おそらくは多くの日本人と同じように、私も、美しさということでいえば、日本の文化は、この二体の仏像がつくられたであろう時期、つまり飛鳥・天平期の文化の水準をついに超えることはなかったと思うのだが、この時期の文化の清華が、正倉院の宝物たちと並んで、あるいはそれ以上に、この二体だと思うのである。世界の仏像たちのなかでも、もっとも華奢なこの二体の仏像は、端的にいえば、我ら華奢な「倭人」の美意識にもっともかなうのだ、と思うのである。

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 しかし、今回はじめてみた、この韓国の半跏思惟像(国宝78号)は日本の二体に勝るとも劣らない美しいお姿であると感じいった(写真ではあまり伝わらないかもしれないが)。この博物館には、もう一つ美しい半跏思惟像があるそうだが(「金銅半跏思惟像」国宝83号)、今回はお出ましではなく見られなかった。


 半跏思惟像とは、元来はガンダーラ辺りで発生したものらしく、中国を経て、朝鮮に渡ってきた様式であるそうだ。今回拝見した半跏思惟像は、博物館のハンドブックによれば、6世紀後半のものとされており、その「華やかな縦長の宝冠は、太陽と三日月が結合した特殊な様式で、「日月飾宝冠」と呼ばれている。このようなスタイルはササン朝ペルシアに由来し、シルクロードを通じて伝わった」という。いろいろな写真でみるかぎり、数ある半跏思惟像のなかでも、この博物館の二体と中宮寺・広隆寺の二体が出色であるように私には思われる。後ろからも拝見できたのだが(これは中宮寺や広隆寺ではできないことだ)、後ろ姿もまた完璧に優美であった。


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 これらの半跏思惟像に共通するものは何だろうか。まず何よりも、華奢な身体の造形の美しさである。しかし、よくみれば、その美しさは不思議な美しさである。他の仏像と異なって、半跏思惟像たちは仏像的な仏像ではなくて、むしろより人間的であるように思われる。釈尊の像ともされる由縁の一つであろう。ところが、人間的でありながら同時に性別も年齢も超えたものにみえる。実在性を超えた美そのもの、いわばイデア的な美なのだ、とすらいいたくなってくるような美しさを、私のみた三体の日韓の半跏思惟像はみな持っているように感じられる。


 もう一つ、心惹かれる共通点がある。それはこれらの仏の表情である。この仏たちは「思惟」している、つまり大衆をいかにして救済するか思い悩んでいるのだ、などとされてはいるが、実際にこれらの像の表情をみてみれば、苦悩の跡はみじんもなく、深く考えているようにはみえず、むしろ、穏やかにこの世界を肯定し愛でているようにみえる。そして、その穏やかな表情は、解脱し悟り切った覚者のそれであるとともに、幼児の無垢にも通じるような、とても清らかなものだ、と感じられる。そのような精神性が古代の日韓において精緻に表現されている、というのは楽しい驚きであった。


 もっとも、違いはある。木造である日本の二体と異なって、こちらは金銅製であるそうで、また宝冠をはじめ衣装で飾られているせいもあって、より華やかである。頭部が大きくみえて子どもっぽいかわいさがあるが、表情はむしろ大人びていて読み取りにくい謎めいた印象が強く、それだけに魅力的である。全体の造形は、日本の二体ほど写実的ではなく、中宮寺の思惟像の体がどちらかといえばやや少年的(しかしお顔は少し女性的)、広隆寺の思惟像の体がかすかに少女的なところがある(でもお顔はどちらかといえば少年的)とすれば、こちらはより歴然と中性的で、それだけにいっそう美しくあるように思われる。

 

 こんな素晴らしい美しさを日本と韓国が分け合っている、いや、もっといえば、日本の歴史が有したもっとも美しいものたちは、古代中国と並んで、韓国・朝鮮からもたらされたものなのだ、ということはもっと心に刻んでおいていいはずだ・・・。


 そんなことを思いながら、飛行機の離陸時間に迫られて後ろ髪を惹かれる思いで、この仏様とお別れして韓国を後にしたのだが、ふと気がつくと、韓国という時空が自分にとって急に身近になったように感じた。韓国は、日本にとって、重なりきりはしないがかなりの程度重なる、兄であり姉のような国なのだ。


 これまでこの親しいはずの国を不当なほどに疎遠に感じていた自分にいくらか恥じながら、おそらくこれからずっと韓国は私には興味深く身近な時空であり続けるだろうと思った。


# by kohkawata | 2015-09-30 18:01 | 韓国の文化 | Comments(0)

衰亡しつつあるとしても


 日本社会は衰亡しつつある、どんどんひどいことになるのではないか、と心配になることが多い。

 ひどいなあ、つまらんなあ、と思っていた領域は、最近、ますますひどい。国政はその代表で、ごく一部の人たちの都合と思い込みで動いているようにみえる。むろん、政治のような目立つ領域だけではなく、たいていはどの領域もひどくて、人材不足は深刻なのだろう。端的に、日本社会の劣化、ということを言う評論家も多い。国の財政も経済全体も破綻目前と力説する人もいるし、憲法改正はもちろん、戦争の実行すらも既定路線に違いないと恐ろしいことを言う人もいる。

 その一方で、そうした劣化は社会の表層で起こっているだけ、という気もする。私が子どものころと比べても、日本社会はより抑圧が弱く自由で多様な社会になったと思う。むろん、まだ抑圧はあり、差別や偏見を蒸し返すような動きもある。けれども、それらは多くの場合、目立つけれどごく一部の動きであり、大抵はどうにもならないわけではない、と思う。

 幕末維新期に日本を訪れた欧米人たちが関心した昔から、日本は「普通の人」がちゃんとしていると言われてきた。今でも、経済規模は世界のトップクラスだが、それを下支えするのは中小零細の企業とされる。子どもたちの学力も、これでもなお世界一を争うレベルにあるらしい。PISAの15歳の学力調査では、上海、香港、シンガポールなど大都市には劣るが、国単位でいえば韓国・台湾にならんでトップクラスである。治安もすばらしくよく、若者の犯罪率の低さはおそらく類例がない。

 大学生たちなどをみていて思うのは、どうやらお母さんがしっかりしている人が多いらしい、ということだ。だいぶと問題があるいい年をした子でも、お母さんはまずめったに見すてない。河合隼雄などが言っていた「母性社会」は今でも日本のなかに生きているとに思う。

 しかし、「普通の人」がしっかりしている社会は、息苦しい社会でもあるだろう。母に甘やかされ続けて育った男の子たちは、幼稚さをどこかにもったままで、ちゃんとした大人の男にはなかなかなれないだろう。以前留学していたメルボルンでは、大人の男のイメージは窮屈なほどしっかりと共有されているように感じたが、ここ日本では「男らしさって何だっけ」(ミスチル)と、私も含めてみな惑っているのではないだろか。だから、日本はとくに政治家をはじめ、エリート的な資質を必要とする現場における人材不足にあえぐことになるのかもしれない。大人の男のいない小心な社会は風通しが悪い。

 だが、男の子ほど甘やかされないせいか、日本の女性はわりとしっかりとした大人が多いと思うし、家庭はもちろん、もろもろの職場も実は有能な女性に支えられていることは多いように感じる。文明化は男性的な強がりよりも女性的な繊細さを美徳とするように進む、とは歴史社会学の教えである。日本の底力である彼女たちが子どもを甘やかす頼れるお母さんとなって、同じようなサイクルがぐるぐるまわるわけだ。

 そう考えると、このまだ平和で豊かな社会を生きることはそんなに難しくない、ともいえる。周りの微妙に息苦しいせこい空気や上司の器の小ささにめげずに、勝手に生きる気概があればいい、ということではないだろうか。どうせどこも人材不足なのだし、そもそも労働力の絶対数も足りなくなってきたのだから、自分がまっとうで健康でさえあればどこかで働いて暮らしていくことはそんなに難しくない。田舎にいけば人手不足で土地も家もあまっている。結婚できなくて困っている異性も多いのだから、家族とともに生きていくことは本当は難しくないはずだ。

 自分次第、とは何ともありきたりな教訓だ。しかし昔は自分一人ではどうしようもない貧困や病気や戦争が多かった。国の財政や社会保障の近未来は絶望的だが、それでも人生の大筋は自分次第である、とは、衰亡しつつあるとしてもなお平和で豊かな社会の、この上なく素晴らしい恩恵ではないだろうか。

 そう思いたい。

# by kohkawata | 2015-04-30 17:55 | 現代日本の文化 | Comments(0)