最近おもしろかった映画関連、3本


『白銀帝国』(桃樹華監督、中国・香港、2009年)

 これは傑作の予感のある映画。19世紀から20世紀への世紀の転換期前後、山西で代々金融業を営んできた古い家の物語。
 まず、中国の近代化のなかで金融システムが揺らぎ治安も悪化して、金融業の旧家が時代の荒波にもまれる、という状況設定が興味深い(なぜ山西のような辺鄙な地域に金融業が栄えたのか、私には謎である)。そして、物語の主筋もかなりいい。この揺れる旧家の三男が西洋的な教養を身についた家庭教師の女性に惹かれ結婚を願うが、その彼女を三男の父親が自分の後妻にしてしまう。そのために三男は酒色に溺れるようになるが、彼女が巧に夫を欺き家を抜け出して・・・というものだ。あるいは、金融業が危機に陥ったが、実家の庭に実は先祖が埋めた銀が大量に埋まっていて・・・といったモチーフも楽しい。
 しかし残念なことに、主役たちの配役がよくなかった。三男を演じる郭冨城は、『父子』(譚家明監督、2006年)で迫真の演技をみせたのが忘れがたい香港出身の役者だが、この映画では不調。初恋を忘れられないこの青年はどう考えてももっと若い役者が演じなければ、文字通り「話にならない」。継母役の郝蕾も、「レッド・クリフ」の林志玲など最近の本土の女優によくあるタイプ、つまりモデル的にきれいだけれども演技は大根、という感じだった。もっとも、千両役者がいない、というのは現代の本土の中国映画全体が共有する問題でもあり、香港のベテラン俳優に頼っている点でもこの映画は典型的である。
 とはいえ、物語世界は、最近の中国映画によくみられることだが、実に豊かである。加えて、中国には成長する市場があり、撮影所を含めた撮影環境も充実しているようで、さらに香港や台湾など近隣地域の映画の人的・文化的伝統を活かすこともできているので ― ちなみにこの『白銀帝国』は『悲情城市』(侯孝賢監督、台湾、1989年)をかなり意識して構想したのではないだろうか ― 、中国本土のこうした流れのなかからいい映画が生まれてくることは大いに期待できるだろう。あとは、才能と魅力のある役者が新たに出てくれば、そして収益の短期的獲得の最大化を最優先にするような極端な「ハリウッド化」に多少は歯止めがかかれば、傑作が出現するのは時間の問題だと思う、というか、そうなればいいなと思う。


『映画でたのしく中国語 ― アン・リーの〈飲食男女〉』(信世昌主編・LiveABC製作東方書店、2009年)

 李安の『飲食男女』(1994年、台湾、邦題『恋人たちの食卓』)は何度見ても楽しい。細部まで配慮の行き渡った、高度な文学的エンターテイメントである。
 例えば、この映画は朱さんという中華料理の名コックが主人公なのだが、その三女の彼氏という脇役でさえも実に上手に描かれている。両親が金儲けのために海外を飛び回っているのでがらんとしたマンションに一人暮らしをしているという国倫という名の彼は、寝たきりになって意識のない祖母を病院に毎週見舞いにいき、祖母がカメラのフラッシュにだけは反応するようなので、いつも写真を撮って帰ってくる。その写真を現像して、人間的な表情を欠いた老いた老女の顔が浮かび上がってくるシーンは、この若い男の孤独と愛情を巧に示していると思う。
 この本はこの李安の傑作の正確なスクリプトとDVDの映像を使っての語学教材で、台湾師範大学の人たちと台北の会社が共同開発したもの日本語版である。セリフの細部もまた行き届いたものなので、中級の教材としてもとてもよいものであろう。もっとも、映画は台北が舞台で、登場人物たちの発音は普通話と少し違って、「国語」(台湾の標準語)ふうである。北京出身という設定の朱さんも、この教材には「北京なまりがある」と書いてあるが、北京出身の知人によれば「残念なことに発音がへん」だそうで、やはり国語的であるようだ。けれども普通話偏重の時代にそれはそれで貴重なことだと思う。
 ちなみに、『飲食男女』の続編が予定されているらしい。出演に帰亜蕾や周迅の名が伝えられている。李安はどうやら関わっていないようだが、少し楽しみ。とはいえ、あまり知られていないがこの映画の続編的な映画はすでに存在していて、『今天不回家』(張艾嘉監督、台湾、1996年)がある。これは『飲食男女』のフェミニズム的な批判にもなっていて、おもしろい。


『コロンビアのオイディプス』(原題Edipo Alcalde、ホルヘ・アリ・トリアーナ監督、コロンビア=スペイン=キューバ=メキシコ、1996年)

 これは「キューバ映画祭2009」の一本として東京と大阪で、日本では初公開されたもので、最後の公開になるかもしれない。私は先週の日曜日に十三の第七芸術劇場でみた。脚本は、ガルシア=マルケスで、ソフォクレスの『オイディプス王』を、現代のコロンビアに舞台を代えて再現したもの。たいへんおもしろかった。
 日本語による情報はあまりなさそうなので、話の大筋を書いておこう。
 三十才になる男が村長に任命されて、反政府ゲリラの活動などのために極度に治安が悪化している山間の村に入ろうとする。途中、橋の上で正体不明の一団に襲撃されるが、村長は同行の警官らとともに応戦し撃退する。村に入ると、村の有力者ラヨが何者かに殺される事件がおこったところで、村に和平をもたらそうと意気込む新任の村長は早速犯人探しに乗り出す。手がかりはなかなか見つからないが、村長はラヨの未亡人ヨカスタに、だいぶ年上ではあったが、誘惑され惹かれ、性関係をもつようになる。村長の勇敢な努力にも関わらず治安がますます悪化していくなか、ヨカスタの弟は、村長は実はラヨの息子なのだと仄めかす。そして、ラヨはかつて息子に橋の上で殺される夢をみて、生まれてきた息子を殺害するように配下の者に命じたのだ、とその妻であったヨカスタから知らされる。それは三十年前の話で、村長はちょうど三十才なのである。そして、ラヨの遺骸を調べてみると、そのこめかみに埋まっていた銃弾は、あの橋の上での応戦のさいに村長が放った銃弾であることが判明する。自分が殺したのは本当に父親なのか、そして自分の子を妊娠しているヨカスタは自分の母親なのか ― 村長は戦慄しつつ、ラヨの生まれたばかりの息子を殺したはずの老女を探しだして、事の真相を問いただす。老女は、ラヨの息子を秘かに他の夫婦に預けたことを告げ、その夫婦とはたしかに村長が自分の両親と思っていた夫婦なのであった。ヨカスタは、愛人=息子が真相を知ったことを知り、自殺する。村長は盲目の乞食となってコロンビアの都会を放浪する。
 この映画をみて思ったことの一つは、映画の感想としては的はずれなことかもしれないが、この映画はたしかに『オイディプス王』のかなり忠実な翻案ではあるものの、しかしフロイトたちのいうようないわゆる「エディプス・コンプレックス」の物語としては感じられなかった、ということである。例えば、魅惑的な未亡人として登場するヨカスタが実は生みの親であった、という設定には十分な迫真性がない。この映画でも再演されている、『オイディプス王』における、王国の秩序を揺るがせた殺人事件の犯人を探したらそれが実は自分自身であることがわかったとか、亡き王の妃と結婚したらそれが実は自分の母親であることがわかったといったモチーフは、たしかに信じがたいほど独創的である。しかし、こういった独創的で特異でもあるモチーフは、「エディプス・コンプレックス」という、単純にいえば、邪魔者をどかしてママを独占したいという幼い男の子の素朴な心理的現象とは、基本的に別の次元のものとして考えるべきなのではないだろうか。ただ、ソフォクレスの戯曲があまりに天才的で、読者のさまざまな感情を受けとめることができる大きなうつわなので、そこにエディプス・コンプレックス的なものや、禁忌ないし規範の侵犯といった人類学的・社会学的なテーマを感じとることもできる、ということなのだと思われる。しかし、この辺の問題はちゃんと論じようとすると、かなり長い話になりそうだ。
# by kohkawata | 2010-01-18 14:44 | 現代中国の映画 | Comments(0)

詞のアンソロジー


 詞についてのよい本をようやくみつけた。村上哲見注『李煜』(岩波書店、1959年)である。

 この本は、吉川幸次郎・小川環樹編集校閲『中国詩人選集』全32巻の一冊である。この選集ははるか半世紀も前のものだが、白いカバーの装幀はたいへん美しく、内容もいまだに古びていないよいもので、長く私の愛読のシリーズであり、その一冊『宋詩概説』を初め何度も読んでいる卷もある。

 しかしこの中の『李煜』は読んでおらず、選集中唯一の、「詩」ではない「詞」の本であるとは、うかつにも気がつかなかった。前半は李煜の詞の紹介・注釈が中心だが詞一般の解説も含まれており、後半は李白にはじまり李煜の父李璟にいたる詞 ― それは『花間集』という現存する詞の最古のアンソロジーとほぼ重なるものである ― とその注釈からなる。この本は日本で最初のある程度本格的な詞の本のようで、また今日でも最もよい詞の入門書であると思う(同じ村上氏に『宋詞の世界 ― 中国近世の抒情歌曲』大修館書店、2002年、という一般の人を対象にした本もあるけれども、ちょっとわかりにくい)。

 以前から、私は宋詞のことが気になっていた。

 中国語圏の大きな書店にいくと、唐詩・宋詞・元曲はそれぞれたくさんのアンソロジーが並んでいる。あるいは、漢文・唐詩・宋詞・元曲と四つが並び称されることも多い。だが、日本で広く知られているのは漢文と唐詩であり、宋詞と元曲はほとんど紹介されていない。私は、宋詞や元曲のアンソロジーを何冊か買って帰って読んでみたが、貧しい語学力のせいか、その味わいはよくわかなかった。

 なるほど詞とはこういうものか、と生半可ながらも理解できるような気になったのは、詞の朗読をはじめて聞いた時である。「パンダと学ぶ中国語」というサイトで詞の朗読を聞くことができて(i-tuneでも同じ朗読を拾える)、かなり美しい響きであることがわかる。もっともこの朗読が詞の朗読として標準的なものなのかどうかわからないし、そもそも詞には、中国でも早くに喪われたのだが、元来メロディーがあったという。それでも、韻文は音をもって楽しむものであり、ごく僅かとはいえ詞の朗読を聞くことができるのはありがたかった。

 この「パンダと学ぶ中国語」にもあるが、私の好きな詞には例えば、宋代の李清照(1084年生まれ)の「如夢令」というのがある。訳は試訳である。

昨夜雨疎風驟   昨夜、雨はさほどではなかったが、風はひどく強かった
濃睡不消残酒   深く眠ったつもりだったが、昨夜の酒はまだ残っているようだ
試問捲簾人     御簾をあげにきた侍女に聞いてみると
却道海棠依旧   庭の海棠の花は散らずにまだきれいに咲いていますよ、という
是否、是否      そうだろうか、そうだろうか
応是緑肥紅痩   きのうよりも緑が濃くなり、花はしぼんでいるはずだ

 『李煜』を読むと、この李清照らの宋詞へと展開していく詞の流れがよくわかる。この本のなかでとくに印象的であったのは、李煜の次の「虞美人」という詞である(なお、詞のタイトルは元々存在したメロディーに対応しているので、内容とは基本的に無関係)。訳はこの本にあるもの。

春花秋月何時了      春の花、秋の月、それらは昔も今も変わることなく、尽きること
               を知らずめぐりきて季節をいろどる。
往事知多少         それにひきかえ変わりはてたこの身、花をみるにつけ、月を見
               るにつけ、過ぎし日の思い出のみは数限りない。
小楼昨夜又東風      このわびしき高殿に、昨夜またしてもそよぎくる春風。

故国不堪回首 月明中  はるかなる故郷、眺めやりてものおもう悲しみにどうして堪えら
               れよう、さえわたる月明かりの下に。
雕闌玉砌依然在      雕(えり)せし欄干、玉の砌(みぎり)、豪奢な宮殿は今もその
               ままに在るだろうに、
只是朱顔改         ただこの身だけは、若き日の輝やかしい容姿はどこへやら、み
               じめに変わりはててしまった。
問君都有幾多愁      わが胸に満ちる悲しみはいったいどれほどといえばよかろう
               か。
恰似一江春水 向東流  長江の満ち溢れる春の水が、東を指して流れてゆくさまをその
               ままに、こんこんと流れて尽きるときを知らないのだ。

 李煜は、皇帝になる人の息子として937年に生まれ、25才で皇帝となり、在位の14年間、豪奢な歓楽を尽くした人である、という。だが、南唐という彼の帝国が宋によって滅ぼされ、その虜囚となっていた2年ほどの晩年に、彼はその生涯でもっとも優れた詞を残すことになる。そのなかでも、この「虞美人」は李煜の詞を代表する名作とされてきたそうだ。

 私もまた『李煜』を通読した限りでいえばやはりこの詞がもっともいいと思うし、深い嘆きと諦念のなかに不思議な華やぎがあると思う。遙か後に映画のタイトルともなった最後の行がなかでも忘れがたい。この詞が42才で亡くなる彼の最後の詞だという説が本当であるならば、李煜は、最後に最高の詞を創造した、ということになる。

 私が読んだ範囲だけでも、李清照や李煜のほかにも、晩唐の温庭筠や李煜の父親李璟、宋代の柳永などよさそうな詞人は数多い。と同時に、詞の世界には、詞人の個性を超えて、ある一つの小宇宙的なまとまり ― それを簡単に表現することは難しいが ― が感じられる。日本語の詩的な才能にも恵まれた人が、詞のアンソロジーを編んで、この美しい小宇宙を世に贈り届けてくれたら、と思う。
# by kohkawata | 2010-01-12 18:52 | 近世中国の文化 | Comments(0)

絵師金蔵

 先月末、高知県香南市の赤岡町にある、「絵金蔵」を見学した。研究者の知人(どなただったか忘れてしまった・・・)がここはおもしろいと教えてくれたのが一つの動機であった。絵師金蔵、略して絵金は、幕末前後に土佐で活躍した絵師で、彼の描いた「芝居絵屏風」がこの絵金蔵という古い米蔵を改装した小さな美術館に収められている。

 高知城下の髪結いの家に1812(文化9)年に生まれた絵金は、若くして江戸にでて狩野派に学び、土佐藩家老の御用絵師になったのだが、陰謀めいたもののために追放となり、民間の絵描きとなる。放浪ののち、赤岡のおばの許に身を寄せて、浄瑠璃・歌舞伎の物語を一幅の絵に凝集させた芝居絵屏風を数多く生み出し、土佐で広く好まれたようだ。

 Googleなどで検索しても見ることができるが、絵金の絵は、少し後の月岡芳年にも通じる、かなり露悪的なもので、私は元々あまり好きではなかった。どの絵も、浄瑠璃・歌舞伎の、もっとも残忍な場面を中心にすえて大げさに描いており(細部で物語の他の部分を再現していておかしみがあるのだが)、お約束のように真っ赤な流血がある。そもそも私は江戸時代も下った時期の芝居一般に十分な共感ができないのだから、絵金が好きになれなかったのも当然である。

 けれども今回絵金の絵を直に見て、また彼の来歴も知って、少し共感できるように思えた。一端をふれただけの印象だが、絵金は非凡な絵の才能をもっている人で、本当はどんな画材でも描けるのだが ― ちょっとしたスケッチなどにも彼の並々ならぬ才能があふれている ― 、時代の要求に従って、芝居絵をものした、ということではないだろうか。彼は土佐藩の御用絵師の地位を失わなくても、十分に優れた作品を生みだし続けたであろう。しかし同時に、おそらくはかなりの失意のなかで上方で歌舞伎・浄瑠璃をたっぷりと楽しみ学んだことのある絵金(これは近森敏夫『絵金読本』改訂版(香南市商工水産課刊行、2006年)にある説。この本は絵もきれいで、解説もわかりやすい)は、同時代の露悪的な歌舞伎・浄瑠璃の世界をかなり深く自分のものにしていたのだと思う。だからこそ、その芝居絵には、人形や役者による浄瑠璃・歌舞伎よりもいっそう生々しい迫真性が備わっているのだと思う。絵金の絵も江戸の終わり頃の歌舞伎も、人がいとも簡単に自害したり人を殺害するという露悪的なものであり、いかにも趣味の悪い作者と退屈しきった観衆との不毛な共犯の揚げ句、といった感じはある。けれども、そのようにして徹底して人間の悪を描くことの裏にはやはりそれなりの情念があるのだ。社会のまともな一員でなければならない、人を裏切ってはならない、人を殺してはいけない、といった普遍的な掟を侵犯してしまう、どうしようもない人間の性(さが)への共感が絵金の絵の迫真性を支えているように思う。

 私にはなかでも「浮世柄比翼稲妻」が印象的であった。わけあって脱藩して江戸に向かう途中に追っ手を見事に惨殺した美青年と、その美青年に同性愛的に惚れ込む侠客、という極めて頽廃したモチーフなのであるが、その頽廃がなお様式を保ちながら見事に描かれていると思う。

 ところで、この「絵金蔵」という絵金専門の美術館は、2005年に開館したもので、小さいながらもいろいろな工夫がこらしてあってとても楽しい所であった。また同館が発行を続けている「蔵通信」という小冊子も、おしゃれで楽しい冊子である(その一部はネット上でみられる)。私は少し前にある自治体の文化振興関係の委員をやっていたこともあって、地域の文化振興というのはともすると空疎なものになりかねない事情(官僚制と文化とは原理的に相性が悪いのだ、もちろん)を多少は知っているのだが、赤岡町のこの取り組みはたいへん優れた、模範的なものであるように思う。「旧長宗我部遺臣団の反山内体制の気風をうちに秘め、廻船問屋、商工業者の財力」(前掲『絵金読本』5頁)をもって栄えたこの町の歴史が、絵金を通じて立ちあがってくる。
# by kohkawata | 2010-01-03 18:23 | 近世日本の文化 | Comments(0)

ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』


 「51年9ヶ月と4日、君に飢えて眠り、君を求めて目覚める」というDVDのケースに記された宣伝文句に若干の知的好奇心を覚えて ― どうやってそんなお話を成り立たせるのだろうか? ― 、たいして期待もせずに映画『コレラの時代の愛』(マイク・ニューウェル監督、2007年)を見た。思いがけずおもしろい映画で、それでは、とガルシア=マルケスの同名原作(木村榮一訳、新潮社、2006年)も読んでみると・・・

 本当に素晴らしい小説であった。半世紀以上に渡って一人の女性に恋をしつづけるという大胆な物語の大枠があって、そのうえで小説の細部がすべて素晴らしい。

 主要な登場人物は三人。恋する男にして詩人であり実業家であり漁色家でもあるフロレンティーノ・アリーサと、彼が恋する美しい女性フェルミーナ・ダーサ、フェルミーナの夫でコレラの災厄から街を救った医学博士のフベナル・ウルビーノである。この三人の人物がそれぞれの愛憎を抱えながら年をとっていくのであるが、その描写が一々素晴らしい。例えば、フェルミーナとフベナルが老いていく描写。

 「あの夜、映画場で見かけたフベナル・ウルビーノ博士くらいの年齢になると、初老の男性は二度目の青春を迎えて男盛りになる。白髪が顔をのぞかせてどっしり落ち着いた感じがし、とりわけ若い女性には知的で魅力的に見える。一方、妻の方はすっかり老い込み、自分の影にもつまずきかねず、夫の腕につかまって歩かなければならなくなる。ところが何年か経つと、惨めにも夫の方が肉体的にも精神的にも老いの坂を転げ落ちていくことになる。その頃になると妻はすっかり元気になり、ボランティアで盲人の世話をするように夫の腕をとり、階段は二段じゃなくて三段ですから気をつけて、通りの真ん中に水溜りがありますよ、歩道にあるのは乞食の死体ですからね、と男としての誇りを傷つけないよう耳もとでそっとささやくことになる。」(371頁)

 報われない愛への忠誠を守りながら老いていくフロレンティーノ・アリーサの造形はなかでも独創的なものだと思うが、その一端をここに再現してみるのは難しい。ただ、たまたま印象に残った箇所を抜き書きしてみるならば、次のような箇所。「暗記するほど何度も読み返した七十枚の便箋を持っていくつもりでいたが、結局便箋半葉に完璧な貞節と永遠の愛を誓うと書いた明瞭、簡潔な手紙を持っていくことにした」(95頁)。「船から降りる前に、彼は象徴的な行為を行った。寝具一式の入った包みを海に投げ捨てたのだ。包みが、姿の見えない漁師たちが使っている松明の間を抜けて、礁湖から外洋へと姿を消すのを目で追いながら、もう使うことはないだろう、フェルミーナ・ダーサのいる町から二度と出ていくことはないのだから、あの包みの世話にはならないはずだと考えた」(216頁)。「出口のない状況から抜け出す道を指し示してくれるような隠れた印はないかと必死になって捜した」(401頁)。

 主役三人のほかにも、アリーサの母親やダーサの父親といった脇役もそれぞれに生彩がある。例えば、未婚の母として一人息子を育ててきた、アリーサの母親は、息子が初めての恋に苦しんでいることを知った時、こう描写されている。

 「四十代で、誰の世話にもならずに暮らしてきたトランシト・アリーサは、長年貧しさに虐げられてきたせいで、どうすれば幸せをつかむことができるのか分からなくなっていた。彼女は息子の苦悩を自分の苦しみのように感じ、心の底でそれを楽しんでいた。」(97頁)

 また、社会学を専門としている私には、十九世紀から二十世紀の世紀の転換点前後の、コロンビアの植民地社会の様子も興味深い。フェルミーナ・ダーサとその父親が生まれ育った田舎の、貧しいながらも相互扶助的で性的に比較的自由な共同体と、ウルビーノ博士を育んだ、ヨーロッパへの文化的劣等感に苛まれる、カトリック的かつブルジョワ的に厳格な都市部の社会との対比が鮮やかに描かれている。次の引用は、成り上がり者の娘であるフェルミーナ・ダーサが名門のおぼっちゃんであるウルビーノと結婚した後の感慨である。

 「世俗的な生活がどういうものか分かるまで不安で仕方なかった。結局のところそれは昔からの約束事や無意味な儀礼、決まりきった言葉で作り上げられたシステムでしかなく、人々は社会の中で互いに殺しあうことがないように、そのシステムをもてあそんでいたにすぎないのだ。田舎くさい軽薄さが支配するあの楽園を支配していたのは、未知のものに対する恐怖だった」(306-7頁)

 『コレラの時代の愛』の、大胆な全体の構図と細部の冴えは、少し大げさにいえば、『失われた時を求めて』にさえ匹敵しえるものだと私には思われる。しかも、後者に暗く病的な部分がつきまとうのとは対照的に、ガルシア=マルケスのこの小説にはユーモアと明るさが根本的にあるように思われる。とりわけ、フべナル・ウルビーノの死後、フロレンティーノ・アリーサはフェルミーナ・ダーサと同様に十分に老いたが、それでも大胆に希望を持とうとするところ。

 「フロレンティーノ・アリーサは、彼女は愛する対象を失ったが、それでも強い意欲を持ち、堂々と威厳を失わずに生き続けていくにはどうすればいいのかを自分に問いかける時が来たのだと考えた」(474頁)

 「二人はともに長い人生を生き抜いてきて、愛はいつ、どこにあっても愛であり、死に近づけば近づくほどより深まるものだということにようやく思い当たった」(498頁)

 こうしたフロレンティーノ・アリ-サの描写にもその一端が現れている、途方もない情熱がこの小説に類例のない大きな魅力を与えている。映画にはない小説のエンディングは、この情熱の高揚を信じられないほど見事に結実させていると思う。
# by kohkawata | 2009-12-28 15:51 | 欧米の文学 | Comments(0)

元雑劇を読む


 最近は中国の元の時代の演劇(元雑劇)の脚本をいろいろ読んでいる。全部で百数十種が伝わっており、私の知るかぎり十種ほどは邦訳されている。

 いろいろなテーマのものがあるが、私におもしろかったのは恋愛譚の部類で、著名な「西廂記」はユーモアたっぷりでさすがにかなりおもしろいが、「金銭記」というのも楽しかった。

 これは、科挙の受験生で色好みの青年韓飛卿が、帝の御意による花見の宴で、都長安の長官の一人娘柳眉児家を見初め、柳眉児もまんざらでもない様子で、彼がなんとかしてこの深窓の令嬢にお近づきになろうとする話。この主人公はちょっと軽率な酒飲みでもあって、酔って失敗をやらかしてお嬢さんの父親に叱られたりするのだが、その窮状を賢い友人賀知章が機転をきかせてうまいこと救ってやる所が見所であろう。結局、韓は状元(科挙の主席合格)となり、父親も状元殿を婿に迎えられると大喜びで二人の結婚を許し、最後には韓飛卿と賀知章二人の親友である李白が登場し、帝からの祝意を伝え二人の結婚と出世を言祝いで終わる。

 帝主催の花見、才子佳人のなれそめ、さわやかな友情、見事な出世、そして最後に祝福されての結婚、と実にお目出度い話であり、この話が朗々と歌い上げられながら演じられていくのであるから、実際の劇はさぞ楽しく華やかなものであっただろうと想像される。あの明るい天才李白の登場も効果的であったであろう。

 この戯曲の翻訳は『戯曲集(上)』(中国古典文学大系第52巻、平凡社、1970年)にあり、詳細な注釈が『吉川幸次郎全集』第14巻(筑摩書房、1968年)にある。
# by kohkawata | 2009-12-20 19:44 | 近世中国の文化 | Comments(0)