米国の新しい時代に思うこと



 もうすぐトランプの時代になる。思うことを雑然と書いておきたい。後でふりかえれば、ピント外れの心配だったということになるかもしれないが。

 次期大統領ドナルド・トランプは、愚かな人である。世界中の大多数の人がそう感じているだろうし、私もほぼ確信をもってそう思う。

 社会学者のテオドール・アドルノという人が、第二次世界大戦終了後の米国で「権威主義的パーソナリティ」の研究をしている(田中義久・矢沢修次郎『権威主義的パーソナリティ』青木書店)。

 ユダヤ系ドイツ人であった彼は、母国でナチズムの吹き荒れるのを体験して、偏見にまみれやすく差別に走る恐れの強い、「潜在的にファシスト的な個人」というのがどの社会にも一定数いるとして、そうした人の人格を「権威主義的パーソナリティ」と名付けた。

 どんな人格傾向があるのか。簡単にいえば、権威あるものには簡単にひれ伏しやすく、弱いものには笠にきて攻撃的になりやすい。複雑な現実をしっかり理解し受け入れようとする知性に乏しく、自分の都合にいいステレオタイプなストーリーにとびつきがち。また、男性であれば、自分が男であることを誇り、異性をもののように扱い差別的である。総じて言えば、反民主主義的で偏見にまみれやすく差別的である。

 トランプの伝記を2冊読み、また彼のtwitterを覗いてみたが、そこから判断するかぎり、トランプは、この権威主義的パーソナリティの特質にほぼぴったり当てはまる。つけくわえるならば、トランプは自分の力を誇大視する傾向が普通の権威主義者よりも強いと思われる。

 もちろん、わざわざアドルノの古い研究を持ち出さなくても、トランプという人が、そういうだいぶ困った人だというのは、ちょっと彼の言動に接すれば誰にでもわかるはずだ。あんなに分かりやすい悪役というのは珍しいほどで、ちょっとアホなコメディ的な悪役がぴったりだと思う。大統領になるのではなくて、何らかの人的な支援が必要な人にみえる。

 そんな困った人が、世界の「主権者」になる、ということだ。米軍は世界最強の軍隊であって、米国大統領はその総指令官なのだから、一定の局面では誰も彼にかなわないし止められない。もちろん、大統領も国内法の拘束を受けその力は限定的だが、対外戦争にあってはある種の超法規的主体としてかなり恣意的な暴力を行使しうることを、アフガニスタンやイラクでの戦争で、私たちは思い知らされてきた。

 そして、我が日本国は、国内にかなりの規模の米軍の駐留を余儀なくされている。核兵器の持ち込みさえも行われているらしい。他の地域以上に、強く深く、あのトランプの力のもとにある、ということだ。

 最悪のリナリオは、トランプが後先を考えずにその軍事力を大規模に行使することだろう。政治的にも、経済的にも、心理的にも、戦争を起こしたい人たちはいる。戦争は人道にもマクロな利益にも反するはずだが、局所的な利益の誘惑を排してマクロな判断をするべき人が、トランプになってしまったということだ。

 東アジアにはいくつかの政治的・領土的火種があるが、トランプが焚きつけたりしないか心配である。すでに、台湾政府関係者がトランプ周辺に接触して影響を与えているようだ。中国政府の言動の多くが理にかなわないのはもちろんだが、だからといって米国大統領が軽々しく方針を転換するのは危険だ。

 絶望的だろうか。たぶん、まだ絶望するほどのことではない。これほどわかりやすい、したたかさもない「悪」は、米国内でも国外でも絶えず反発と抵抗を生むに違いない。最善のシナリオは、総スカンを喰ったトランプがさっさと大統領職を投げ出すことだ。

 もしもトランプが4年間大統領であったとしても、それでも絶望的ではないかもしれない。トランプのように世界全体や将来世代のことではなく、目の前の利益を追い求める態度は、情けなく有害であっても、資本主義と相性がよい。恐ろしいことだが、戦争もまた資本主義と相反するわけではない。誰が犠牲者になるかは、ルーレットのような偶然性がある。その時まで、絶望するべきではない。

 それに、論理が飛躍するようだが、世界の「主権者」たる人物が無責任なアホだと見切ることは、必ずしも悪いことではないと思う。主権者がアホで世界は無責任でも、私たちは生きていかなければならない。個人的な信頼関係があるわけではない人をあてにするのは愚かだ。それはトランプ前もトランプ後も変わらない。





# by kohkawata | 2017-01-18 19:57 | 雑談 | Comments(0)

『この世界の片隅に』


尼崎の映画館で、『この世界の片隅に』を観ました。

感動しました。
できの悪い小学生の感想のようですが、とっても感動しました。

ぜひとも劇場で観るべき映画だと思います。

# by kohkawata | 2016-12-06 20:17 | 現代日本の文化 | Comments(0)

「海辺の伝説」の上演

  伯母の森禮子の戯曲が舞台にかかった。

 伯母がまだ37才であった1965年に初演された「海辺の伝説」(『森禮子戯曲集』所収)を、福岡を拠点とする「ゲキダン大河」が今回上演したのである。演出は佐藤順一氏。私は11月26日(土)の13時からの回を拝見した。

 異人館のダイニングルームのなかだけでドラマは進んで行く。こんな話だ。 

 夫亡き後、惚けたようにトランプ占いばかりしている未亡人白沢夫人と、父の残した異人館を守るべく一人で奮闘する長女綾子の二人が物語の中心にいる。他に、未亡人の弟で文学青年くずれで居候の宗吉と、銀行に勤める未亡人の長男信彦、亡き夫が愛人に生ませた次男勝彦とがいる。

 異人館に住むこの五人は、すでに気持ちがばらばらであることが、演劇の冒頭で示される。みな同じ部屋にいるのに、別々の場所で別々のことをしながら別々の方向に視線をむけている。家族にはすでに資産はなくアメリカ人の船長が建てたという古びた異人館と借金だけが残っていて、支払いが滞ってガスさえもとめられようとしている。

 それでも、この家族はバラバラなんかではなく今でも豊かで楽しい生活ができていると惚けた夫人は思い込んでいるし、綾子はがんばれば家族を立て直すことはできるはずだとまだ信じて必死に努力している。神様を信じている綾子にとって、事実はどうであれ信じることが救いなのだ。だが、男たちはみなもうばらばらになっていることを知っていて、信彦は自分さえうまくやっていければよいという態度で家族のためには一銭たりとも払おうとしない。勝彦は反抗的な態度でこの家族が欺瞞に満ちていることをみなに知らしめようとするし、宗吉は劇中で何度も家をでていこうとしている(だが、なぜか彼はその度に出立を延期する)。

 綾子はなんとか一家を救うべく、知人の金持ちのお嬢さんをハンサムな弟信彦に紹介して結婚させようとしている。銀子という名前のこのお嬢さんは異人館を訪れる約束をしていて、舞台の上でみなが、銀子さんこそが一家を救うかもしれないと期待して、その来訪を首を長くして待っているのだが、約束の時間を過ぎても銀子さんは来ない。たまりかねて信彦は駅に迎えに行くが、銀子さんは現れなかった。家族の全員が、とくに綾子は、ひどく落胆する。きっとこの家族にはもはや資産も何もないことがばれたのだろう、だから来てくれなかったのだ、とみなは諦める。

 信彦の結婚がだめならば、最後の望みは「手文庫」だということになる。手文庫とは、未亡人の夫が残したもので、この手文庫のなかには膨大な遺産が残されているはずだ、とみんな信じているのである。

 演劇のクライマックスは、これまで開けずにいたこの手文庫を開けるシーンである。そこにちゃんと期待通りに遺産が残されていれば、異人館を守ることができるし、家族は再出発できるはずだ。みなが固唾を呑んで見守るなか、鍵を管理していた綾子が手文庫をあける。だが、そこには無価値な古い証文の類があるだけであった。

 綾子は、実は、手文庫のなかにはめぼしい遺産は何もないことを最初から知っていたのだが、あえてそれを隠してきたのである。何かあると期待させることでみなをつなぎとめられると思ってきたからであろう。

 だが、何もないことがわかった今、家族はとうとう本当にバラバラになる。ずっと姉の家に居候してきた宗吉は、意を決して本を担いで出て行ってしまう。異人館に憧れてお手伝いをしていた、まだ若くて純朴な喜代は、一つの家族が崩れ落ちていくのを目の当たりにして、呆然とする。

 そんな話である。

 原作では、登場人物たちの個性がかなりくっきりと描かれているのだが、演劇においてはそれぞれの役者さんたちがかなりがんばってその個性をしっかり血肉化していると感じた。原作と演出と役者とが、時代や世代を超えて、ちゃんとうまく繋がっていて、演劇として十分に成立していて、なかなかの迫真の人間ドラマとなっていた。とくに、今風の人物ではない、真面目でヒステリックな綾子は共感しにくかったかもしれないが、熱演であったと思う。白沢夫人の惚けぶりも怖いほどであった。若い役者さんも多かったが、偉そうな言い方で恐縮だが、いい経験を積んでいるのではないかと思った。宗吉は、原作ではちょっと滑り気味の道化役であったので、演じるのはなかなか大変であったかもしれない。

 作品世界と作者の実生活とを重ねるのは邪道とする研究者もいるが、私は一般論として必ずしもそう思わないし、親族にしかわからない部分もあるかもしれないので、ちょっと書いておく。

 前にもこのブログで書いたが、伯母の戯曲作品では、この「海辺の伝説」と同じように、夫を亡くした夫人とその子どもたちという構成の家族が繰り返し描かれている。

 これは伯母自身の若いころの時代の家族構成とよく似ていてる。「海辺の伝説」では、未亡人の子どもは長女・長男・次男の三人だが、現実には、伯母からみれば、母と姉二人、弟一人(私の父親である)の家族であった。長姉は伯母が十七才のときに亡くなっており、次姉は米国人と結婚して渡米している。劇中の次男勝彦は、本当のことを率直にいう説明役ともいうべき存在で、その意味で実在性に乏しいことも考えあわせると、劇中の家族構成と、ある時期の伯母の実際の家族の構成とはほぼ正確に重なる。つまり、母と娘と息子の三人である。

 だが、劇にはもう一人の隠れた重要人物がいて、それは未亡人の夫、綾子の父親である。この人がどんな人であったか、異人館を買って交通事故で急死したこと以外語られていないが、伯母の父親は建築技師で福岡の県庁に勤めていた。伯母はこの父の三女として福岡で生まれ、父親の転勤にともない三才で大阪に転居したが、その地で父親は病をえて、福岡の元の家に一家で帰り、その年のうちに亡くなっている。1933(昭和8)年、伯母がまだ5才であった時のことである(以上は森禮子『じゅすた遺文』所収の年譜による)。

 この一家が異人館のようなりっぱな洋館に住んでいたという話はきかないが、父親が亡くなり終戦を迎えたのちの生活がかなり苦しく、この時期に「家作」を次々に手放したという。この境遇は、劇中の白沢家の状況によく重なる。また、綾子が建築としての家に拘っていることは、伯母の父親が建築技師であったこととも相通じる。また、居候のおじも実際にいたらしい。満州で鉱山を掘り当てて成功したもののわけあって郷里に出戻っていたこのおじには放蕩の傾向があったともきくので、劇中の宗吉の様子とも多少重なる。

 このように見ていくと、この「海辺の伝説」は伯母が自分の家族をベースにして創作したものだ、といって間違いないだろう。

 そして、伯母自身がもっともよく投影されているのは、当然ながら綾子であろう。長姉が亡くなり、次姉が渡米し、弟が就職をして関東に転居するなかで、最後まで母親と暮らしていたのが、伯母である。私の知る中年以降の伯母は綾子のように一家を守るために懸命であったとか真面目な人という印象はないが、当時の彼女の置かれた状況を考えれば、そうなるのは仕方ないことであったろう。三人続けての女の子の三番目であった伯母と最初の男の子であったその弟との間が生易しものではなことは簡単に想像できるし知らないわけでもないが、綾子と信彦のあいだの不信と諍いも深刻なものとして表現されている。

 綾子は神様を信じており、伯母はクリスチャンであった。年譜をみると、19才のときに西南学院バプティスト教会で受洗している。母親が夫の死後に入信しているので、母親の影響であろう。それ以降伯母は終生クリスチャンだった。

 この劇のなかにははっとするセリフがあって、それは勝彦がお手伝いの喜与にむかって綾子への不満をいう文脈で言う「世の中にゃ神様を信じているつもりで、信じていると思っている自分を信じているやつが多いんだ」というところである。これは、信仰というあり方そのものへの批判だし、また「家」を信じている綾子への当てつけでもあって、この批判は劇中で反論されることはない。

 つまり、この劇は、一家の崩壊を描くとともに、綾子の信念が崩れ去っていくことを描いてもいる。もしも、伯母=綾子なのだとすれば、「海辺の伝説」はかなり深刻な自己批判・自己崩壊の劇なのだともいえる。劇が終わったとき、綾子にも白沢夫人にも、もう何の未来も希望も残されていないかのようである。

 現実の伯母は、しかし、28才のときに福岡を離れて上京している。遅い上京であるが、すでに地元の文芸誌に多くの作品を発表し福岡の局のラジオドラマの脚本なども書いていた彼女は、東京で文学者として本格的に身を立てる覚悟であったのだろう。したがって、伯母は、家を懸命に守ろうとした綾子でもあったのだが、結局は姉を捨てて旅立った、文学好きの宗吉でもあるわけだ。

 ちなみにいえば、白沢夫人のモデルにあたるのかもしれない伯母の母は、伯母が上京してから半世紀近く生きた。その大部分の年月を、結婚し子供を生み育てた同じ家で一人で暮らした。その間、惚けたりはしておらず、せっせと家事をし近隣の道の掃除までして、きちっと教会に通っていたようだ。白沢夫人のイメージとかなり異なるが、孫の私からみてあったかいやさしいおばあちゃん、といった感じはほとんどなくて、その点で子どもたちに興味がなさそうな夫人と似ているかもしれない。

 伯母は、実家から去ったがその母と同様に信仰は捨てなかった。だとすると、勝彦の信仰批判は、伯母自身のなかではどう受け止められたのか、私のような信仰のない人間にはよくわからない。ただ、私は、前にもブログで書いたが、父を欠いたまま家族が崩れていくことと神への信仰とは、伯母のなかではまっすぐに繋がっているのではないかと思う。そして、伯母には、自分のことも突き放してみるような、俯瞰的で冷徹なところがあるように感じられる。

 いずれにせよ、「海辺の伝説」は、ある時期の伯母の家族が終わっていった現実をドラマにしたものだと考えていいと思う。そして、どんな家族もいずれは終わっていくのであって、その意味で、今回拝見したゲキダン大河の「海辺の伝説」は、私にとっては親族のドラマなのであるが、同時に、家族の終末という重たい普遍的なテーマにも連なったものを表現していたといえるだろう。

 伯母はずっと独身で、半世紀にわたり東京で一人で暮らしていたが、最晩年には福岡に帰り、2014年の春に亡くなった。


# by kohkawata | 2016-12-01 18:36 | 現代日本の文化 | Comments(0)

七夕あれこれ



 去年の秋頃から中国の七夕伝説について調べはじめて、最近になって一通り論文を書き終わった。この二千年を超えて語り継がれてきた物語を追いかける作業はこれまでにないほど楽しい作業であった。もう少ししたら紀要かどこかに発表したいと思っている。

 私は5歳のころまで平塚に住んでいたのだが、この街で盛んな七夕の祭りの記憶はかすかにしかない。それでも、七夕関係のことを調べるとどんなことであれとても懐かしく床しく思えるのは、記憶の底に華やいだ七夕の祭りのがあるからだと感じられる。無意識的な記憶というのは人の感情を深いところで支えているもののようだ。

 それはともかく、日本の七夕についても少し調べたので、そのことを記しておく。

 学生たちにきくと、短冊に願い事を書いて笹につるす、という習慣は今日全国的なもののようで、たいていの人が小学生のころに経験している。この習慣は江戸期にまで遡れるようだ。天の川にさかれた織姫と彦星が七夕の夜に再会するというお話もたいていの人には周知のものだろう。

 日本に織女と牽牛の話が最初に伝わったのはおそらく万葉集の時代で、二人を詠った詩が万葉集に多くある。乞巧奠という七夕の祭りは、聖武天皇の時代には宮中で行われていて、正倉院にその品々が残っていて、私も去年の正倉院展で乞巧奠用のひどくおおぶりな針と糸をみたことがある。こうした王族・貴族層における七夕に関わる習俗は朝鮮半島経由で伝わったようで、百済の王家の末である百済王氏がかつて支配した枚方から交野にかけての一帯には、天野川や星田、織物神社など七夕にまつわる地名が今も残る。

 しかし、日本における七夕の習俗は、こうした大陸系のものだけではなく、日本在来の習俗にも起源がある、とされる。

 折口信夫によれば、七夕の「たな」とは、本来「棚」で、これは神の宿るところと観念されていたという(だから、神棚は棚にしてしつらえられるのである)。この神がやってくる場所である棚で、選ばれた乙女が機(はた)を織りながら神がやってくるのを待って結婚をする、という「たなばたつめ(棚機つ女)」についての古い信仰があって、それが七月七日に牽牛織女が再会するという外来の話とむすびついて、七夕のことを「たなばた」と呼ぶようになったのだ、という(「七夕祭りの話」『折口信夫全集』第17巻、1996年、中央公論社)。

 折口の時代の民俗学全体がそうなのだが、この折口の説も検証ができるようには書かれていないので、どこまで本当かわからない。しかし、ともかくもこの、在来の「たなばたつめ」の信仰と中国系の七夕の説話とが合流して、日本における七夕の習俗が生まれた、というのが今日でも定説となってる(本居宣長も同様の説を述べている)。

 その後、日本各地で展開した七夕に関わる習俗は、今日の短冊に願い事を書く習慣が一様なのと対照的に、地域と時代によってずいぶんと多様性がある。

 津軽地方では「ねぶた」の祭りが盛んだが、かつてはこれは七夕の行事という側面が強かったようである。津軽のねぶたを描いた古い絵には、燈籠のようなものに「七夕」と「織女」の文字が書き込まれているのをみたことがある。秋田能代の夏祭りは、能代役七夕というが、能代ねぶながしともいうらしい。「ねぶた」は眠りを醒ますという意味が元来はあって、この「ねぶた流し」の祭りが七夕と重なることは、柳田國男によれば、越後や越中にもみられるそうだ(『年中行事覚書』)。

 京都では、西陣織が盛んであった地域にある今宮神社に織姫社という社があって、織女信仰があった痕跡をとどめているが、どんな信仰であったか、よくわからない。今年の8月5日に訪れてみたところ、境内では祭りの準備をしていて、織姫役と思われる女性が舞いの練習をしていた。京都新聞の今月2日の記事に「10年以上前に途絶えた今宮神社末社の織姫社(京都市北区)の七夕祭が今月、同志社大の学生有志や地域にゆかりのある人たちの手によって再興される」とあるが、おそらくこれのことだろう。

 また、石沢誠司氏の『七夕の紙衣と人形』(ナカニシヤ出版、2004年)によれば、七夕に紙で作った衣を飾るという習俗は、全国的といってよいほど広がっていたらしく、江戸時代以降の文献にその記録が散見されるようである。例えば、京都の街中でも、七夕の時期に、女の子が紙で衣を織って飾るという習俗が江戸時代以降にあったようだが、今日では廃れている。

 同書によれば、松本や糸魚川、黒部などには、七夕に紙衣ないし紙の人形をつくる習慣が今日も残り、 有名な仙台の七夕祭りでも、よくみれば紙衣が今日でも飾られている。砺波の呉服屋の娘として生まれ小矢部に暮らしていた人も七夕になるといつも紙衣をつくって笹につって飾っていたともいう。

  姫路市の東南の海岸部一帯(姫路市の妻鹿から高砂市の曾根あたり)でも、七夕の日、すなわち8月6日に、自宅の軒先などに、野菜や果物を供え、七夕人形(紙衣)や提灯あるいは短冊などを細い竹竿にぶらさげて飾って、翌朝には海に流すという習俗が盛んであったらしい。

 私も今年の8月6日の夕刻に、この本を頼りにこの姫路の一帯を歩いてみて、大塩にお住まいの方々からお話を伺い七夕飾りを拝見することができた。

 子ども(あるいは孫)が生まれて初めて七夕の日を迎えると、その家では8月6日に飾りつけをして、翌朝には川や海に流していたそうで、近年ではゴミになるので細かくきって捨てるそうである。ただし提灯と人形は取っておいて翌年以降も使う。子どもが小さいうちは毎年「七夕さん」を各家庭でしていたが、今では子どもがすくなくなったので七夕さんをする家庭はずいぶん少なくなったそうだ。また、この日には、親から子どもに、あるいは親族から提灯が贈られて、それをたくさん家に飾る、ということも行われていたが、今ではすっかりやらなくなった、ともきいた。この親とは誰のことかちゃんと伺わなかったが、おそらく、生まれた子どもからみれば祖父母のことであろう。


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 上の写真は、大塩の「柴田提灯店」さんで売っていたもので、織姫と彦星である。店の方の手作りだそうである。拝見した七夕飾りでもこの店の紙の着物や提灯が使われていた。

 大塩や白浜の宮の街角には、自治会の連絡用のボードがたくさんたっていて、「初七夕」「七夕初め」といった表現で、誰々さんのところに誰々という名前の子どもが初めての七夕を迎えたことを告知する紙が貼ってあったりした。全体的な印象でいえば、この姫路の「七夕さん」は、少なくとも今日では、子どもが生まれ育っていくことを祝う行事であるように感じられた。

 なぜ七夕で紙衣を飾るのかといえば、折口の面白い説がある。棚にやってくる神は、「幼少な上に、身体が不自由で、恐らくは裸であったろうと思われます。此神に「みそぎ」をさせると、俄に成長いたして、大抵は弟姫と結婚いたす事になります。つまり、「たな」の中で、女性が機を織つて居るのは、神の様な尊い人が来て、結婚するのを待つて居るのだとも、考へられるのであります」。そこで、「この七夕で、「たなばたつめ」が、男に貸して上げる着物がなくて、困るであろうといつて、女性が着物を七夕さんに貸して上げます」(『折口信夫全集』第17巻、1996年、中央公論社、264、266頁)。織女に着物を貸すというこのストーリーは、今日の京都や姫路にはないようだが、以前には各地に残っていたようである。

 また、高槻で子ども時代をすごした知人によれば、女の子たちが千代紙で衣を折って七夕に飾るという遊びが流行っていたそうだ。織姫の紙衣のことは、「お姫さん」と呼んでいたとか(お雛様のときにも雛人形を千代紙で折っていたそうだ)。1970年代初めの話である。

 といった具合に、日本では七夕に関わる習俗は盆や正月ほど盛んではないにしても、時代を超えて様々なかたちで脈々と受け継がれてきたことがわかる。子どもが紙で着物をつくったり、短冊に願い事を書いたりと、全体に可愛らしい習俗で、これは元来の織女と牽牛が年に一度だけ再会するという話の健気さに通じるものだと思う。

 各地の習俗の変遷や、竹笹に願い事を書いた短冊を吊すというスタイルの全国化の過程などはまだ不明なところが多く、研究者にとっては格好のテーマがまだ残されているといえるだろう。

# by kohkawata | 2016-08-09 16:15 | 近代日本の文化 | Comments(0)

『森禮子戯曲集』から『じゅすた遺文』へ


 森禮子氏は私の伯母にあたる人で、小説家であったが、一昨年(2014年)の三月に亡くなった。

 実家の書棚には、伯母から送られてきた本が並んでいたが、私はそれらの本をちゃんと読んだことはなかった。理由はいくつかあるが、一つには彼女の作品のなかに私たちの親族のことが赤裸々に描かれているのだろうと思って、そのことにある種の倫理的な違和感があったことがある。なかでも、「モッキングバードのいる街」は、私のもう一人の、渡米した伯母をモデルにしていると聞いて、かなり不安な気持ちになったものだった。この作品はテレビドラマになっていて、私は高校生の時にテレビで偶然ちらりとみたのだが、それは、主人公らしき中年の女性が思春期の息子に Jap!と罵られて激昂して彼を殴り殺してしまう場面で、見てはいけないものをみてしまったように感じて、テレビを切った。

 同じ頃、伯母は、彼女の親戚が家元をしている華道の流派がだしていた『花泉』という雑誌に随筆の連載をもっていた。そのなかに、最近の若者はロボットのように情がない、といった捨て鉢な言葉を読んで、理由はそれだけではないにしても、私はこの文学者に何かを期待してはいけないように思ってしまった。

 私は、しかし、亡くなってしばらくして、近所の駅裏の古本屋の書棚で彼女の小説集『モッキングバードのいる街』(新潮社、1980年)を偶然見かけて、追善の気持ちで、買って読んでみた。

 薄っぺらな倫理観やちょっとした不安を理由にしてこれまで彼女の作品をほとんど読んでこなかったことを私は悔やんだ。表題作「モッキングバードのいる街」も、たしかにその語り手が渡米した伯母をモデルに造形されていることは間違いないが、息子を殺すのはその知人であり、サイドストーリーにすぎないことを今回はじめて知った。私はもっと早くに彼女の作品を読んでつまらない誤解を解き、異郷で孤独を深めながら自分の毒に苦しむ繊細な心理描写にいくらかでも共感したことを伯母に伝えるべきであったのかもしれない。

 そこで、今更であるが、やはり追善の気持ちで、彼女がごく若かったころに書いた戯曲を収めた『森禮子戯曲集』(菁柿堂、2000年)を読んでみたので、これらの戯曲の感想を書いてみる。


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 この本には、1965年から1970年にかけて上演された、四つの戯曲が収められている。「海辺の伝説」「罠のなか」「われらの葡萄園」「通りゃんせ」である。互いによく似た話で、どれもが小さな家族が崩れていく様子を描いている。

 例えば、「通りゃんせ」では、72歳の未亡人の華子の家族を描く。この家には、華子のほかに、その長女と次女、そして長男の妻が暮らしている。長男は行方不明で、みな彼の生存を信じて、彼が残した温室を大切にしながら、帰ってくるのを待っているのであるが、老いた傭人が、長男はこの家族の醜い遺産争いのために殺されたのだと言い出し、みなを狼狽させる・・・といった展開である。

 「海辺の伝説」も、未亡人とその子どもたちの家が没落していく話で、「われらの葡萄園」も、未亡人とその子どもたちの不和を描いており、同じパータンのプロットである。「罠のなか」は、倦怠しきった夫婦を描き、やや異なるプロットではあるが、しかし四つの作品のいずれにおいても、小さな家族が、かつての栄光の日々を抱きしめながら、虚偽と諍いを重ねたあげくに、絶望と離散にまで到る劇が、繰り返されている。家族の泥沼を描きながらも、劇の全体構造は明快であり俯瞰的でもある。

 この崩落のドラマたちにおいて、とくに目立つのは「父の不在」である。石材店を舞台とする「われらの葡萄園」では、十三年前になくなった父が等身大より大きい胸像となって舞台の奥に鎮座している。「海辺の伝説」も、未亡人の夫は家屋敷だけ残してとうに死んでいる。「通りゃんせ」では未亡人の夫も長男もいない。そして不在の父を囲むかのように、なお女たちが家族を演じているが、実はもう気持ちはすっかりばらばらである。

 唯一、彼女たちをつなぎ止めるのは、父の「遺産」である。残された家族は、その遺産に頼りあてにして生きている。それは物質的に頼っているだけではなく、心の支えでもある。「われらが葡萄園」では、長男と次男の不和を描くが、長男の妻は、義父の残した葡萄園を心の支えにして、この家がバラバラになっていくことに耐えようとする。「通りゃんせ」では、父ではなく長男の遺したものなのだが、「温室」が同じ意味をもつ。

 だが、劇のなかで、その父の「遺産」などというものは実は存在しなかったということがわかってくる。ここが、彼女の戯曲の核心である、と思う。娘たちは父の豊かな「遺産」の実在を信じてそれにすがって生きてきたのだが、その遺産なるものは「からっぽ」なのだ。「海辺の伝説」における「手文庫」はその代表的象徴であって、すっかり貧乏になって今日の生活にも困るようになった女たちは、手文庫の中に父が残した財産が入っているとあてにしていたのであるが、いざ鍵をさして手文庫を明けてみると、そこには何も入っていなかったのである。

 あれほど期待し頼りにしていた父の遺産がからっぽであることの衝撃・・・・主人公たちは、そこで凍りついて動けなくなってしまう。そして、思うに、伯母の文学も、少なくとも若いころのそれは、この父の不在とその遺産の欠落に直面するところで終わっているように思われる。

 伯母の実人生においてもその父親は早世している。だが、この「父の不在」は実父の早世のためだけではない、と私には思える。むしろ、在世中から父としてあるべき何かが決定的に欠落していて、早世のためにそのあまりの欠落を受け入れることが難しくなってしまったのではないだろうか、と親族としての断片的な聞き伝えからも、そして彼女の作品を読んでみても、そう思う。伯母が終生独身であったのは、彼女が不在の父の娘であったことと無縁ではなかったのかもしれない。

 この中心がぱっくりと欠落したままという感覚から、「父なる神」への信仰は、伯母のなかではまっすぐにつながっているのではないかと、彼女の作品を読んで感じた。彼女の母親は、夫の死後プロテスタント系のキリスト教に入信しており、その後再婚せず、ずっと教会に通い続けた。伯母が入信した経緯は知らないが、直接にはその母親の影響であろう。そして伯母もプロテスタントであることを終生やめなかった。晩年には、長崎や五島列島にやってきた外国人宣教師たちと隠れキリシタンの足跡を探す旅を続けたという。その旅には、戯曲で示されたあの欠落を探し求める、という意味があったのではないだろうか。

 ともかくも、伯母の残した作品を読んでみて、この薄情であった甥にも伯母のさびしさが人ごとならぬほど骨身にこたえてわかった気がする。そう記すことが少しは追善になるだろうか。

 なお、伯母の死後、その友人たちの篤志によって遺稿集が編まれた。『じゅすた遺文』(弓町本郷協会、2015年、非売品)である。その表題作は、戦国時代末期の動乱を背景として、運命に翻弄されて孤独な晩年をすごすことになった、有馬晴信の妻じゅすた(洗礼名)の思いを書簡のかたちで一人称で綴る。私が読んだ範囲でいえば、伯母の最も優れた小説の一つであって、どうしうもない欠落に苦しみ続けたのであろう、伯母その人の晩年の諦念が、歴史絵巻のかすかな華やぎのなかに示されていると感じられる。



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 多くの人の好意によって遺稿がこのように美しい本になったことは、伯母の実人生が、少なくともその晩年においては、その作品から感じられるほどには、孤独ではなかったことを示しているように思われる。
# by kohkawata | 2016-07-18 18:04 | 現代日本の文化 | Comments(0)