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宝塚歌劇をはじめて観る

 先日、宝塚歌劇をはじめて観てしまった。

 ずいぶん以前から一度は観なければ、と思ってはいた。100年にならんとする伝統をもち、未だに広く深く人気のあるこの歌劇は、確かに希有な文化的運動であるに違いない。それに一応演劇にかかわる研究もしているのだし、宝塚は関西の宝であるような気もするし、だからとにかく観なければならないと思ってきた・・・・だが、あの滑稽にみえる厚い化粧と派手な衣装、あるいは男役たちの気取りきったポーズ、それらは到底自分の趣味ではないなと食わず嫌いをしてきたのだった。そもそもなぜ女性だけで演じなければならないのかさっぱりわからないかったし(同様に私には、男だけで演じる歌舞伎がよくわからないし、逆に女優を許した、京劇など中国の伝統劇に共感する)、私は以前に、宝塚大劇場の通用門で出勤してきた劇団員たちを「お見送り」する、浮かれた、しかし奇妙なほど統制のとれた中年女性の集団の姿を偶然目撃して、ぎょっとしたこともあった。

 重い腰をあげて観たのは、月組公演『ベルサイユのばら〜オスカルとアンドレ編』であった。結論からいえば、確かにかなり楽しい時間を過ごしたし、相当にいい劇団だと思った。


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 役者たちの歌、演技、とりわけダンス、どれも一定以上の水準で感心させらた。全員で四十人くらいなのか五十人くらいなのかわからないけれど、目立って見劣りする人には気づかされず、これだけの水準を保つのは並大抵のことではないだろうと思う。AKB48と同じように、演者はみな女性でありながら演出など主立った裏方がみな男性で、演者たちにはほとんど何の決定権もないんだろうな、ということに気味の悪さを覚えるが、同時に演者たちをはじめ関係者のとてつもないものであろう研鑽・努力がしのばれる。


 宝塚大劇場という舞台にも感心した。阪急宝塚駅からの軽快な並木道、正面入口から続く広々として暖かな感じの回廊も楽しく、とりわけその回廊のわきにもうけられた、武庫川に望む、陽光ふりそそぐテラスの解放感はよかった。

 そしてやはり、この宝塚歌劇の定番の出し物『ベルサイユのばら』は、演劇として、さすがに完成度が高かった。

 テーマはもちろん「愛」だ。原作の漫画やアニメ以上にもっと、最初から最後まで「愛」を連呼していて、いくらなんでも連呼しすぎだろうとは思うが、常連のお客さんにとっては「待ってました」ということなのだろう。ベタな定番を平然と楽しむ関西文化である。

 舞台では、しかし、オスカル演じる役者の演技が今一つであるせいもあり(オスカルの演者は二人いて日によって交代するらしいが)、オスカルは「愛」の主体であるよりは、むしろ様々な制約と価値と愛着の間でゆれている、少し頼りない人であるようにさえみえた。王家に忠誠を誓い家系を誇る父親の娘への歪んだ愛情と期待、孤立する王妃への同情と忠誠、フェルゼンへの思慕と失意、フランス国民への義務・・・原作もまたオスカルの揺れ動く心を描いているが、彼女を美しく気高いとすることによって、それらの揺れが一つの人格のなかにまとめあげられていたように思うのだが、今回の生身の役者にはそこまでの魅力と説得力は感じられなかった。とはいえ、ちょっと不器用でおおらかな感じのするこの月組の「トップスター」はお好きな人には応援のしがいのある魅力的な役者なんだろうな、これが「ヅカファン」たちの好みなんだろうな、と何となくわかった気がした。

 もちろん、この「ベルばら」で表現されている愛のかたちは、戦後の日本人が夢見たような華麗で大げさな衣装と同様に、古いといえば古い。様々な制約に縛られながらも、美しいうえに社会的な権能も豊かな異性のなかに輝く至上の価値を見いだすこと、そんな存在を報われなくても愛すること自体に価値があるのだと信じること、それはいかにも戦後日本の真面目でそれなりに社会化されているが退屈な専業主婦的な女性たちの白昼夢にふさわしいようにも思われる。 テレビ等でみる限り、宝塚歌劇はいつも、一匹狼的な無頼の、しかし分かりやすい身体的・社会的な力強さをもった男性像にご執心のようである。身も蓋もなく言ってしまえば、サラリーマンの格好のよろしくない夫しかいない有閑マダムたちが夢見るのは、誰に頭を下げることもない、自立した力強いオスとしての男と愛し愛されることだ、ということになるのかもしれない。

 しかし、「ベルばら」が他の宝塚の演目に比べてよくできてるなと思うのは、男と女という窮屈なカテゴリーをうまく転覆させているところである。オスカルはもちろん両性具有的であり、そのオスカルを愛するアンドレもまた、マッチョな男性であるだけではなく、男性的でもあるオスカルを愛する点で女性的でもある。お客さんである女性は、男性的な権能をもった女性であるオスカルに同一化することも簡単にできるし、女性的でもあるアンドレに同一化することもできるだろう。二人の主人公、二つの性別、二つの立場の間をいったりきたりして楽しむことができるわけだ。贅沢でちょっと頽廃した娯楽だ。考えてみれば、他の演目にしても、キッチュな男性像ばかりが目立つとはいえ、それを演じているのは女性なのだから、宝塚歌劇とはこうした性別を逸脱していく快楽を提供し続けているのかもしれない。「ヅカファン」の女性たちには男になってみたい願望があるのだろう、というわけだ。

 むろん、そのような逸脱の快楽もまた、性別役割分業の厳しかった過去の時代の裏返しにすぎない、とも言えるだろう。それでもなお、「ベルばら」には現代的な部分もあるように思われる。それは、アンドレのオスカルへの愛のありようなのであるが、それは原作同様に見事に表現されていると感じた。とくに今回感心したのは、アンドレが目の怪我のために光を失って行くサイド・モチーフが、フランス革命のなかでオスカルが死を賭して自らの運命をまっとうしようとするメインのプロットに重ね合わさられることによって、ドラマに強い緊張感が生まれている点である。この緊張感のなかで、光を失っていくとき人は一体何を欲するのだろうか、死を超える価値はあるのだろうか、という強い普遍性を持ちうる問いが生まれ、アンドレのオスカルへの愛の質と強さこそがその答えでありえるのではないかという幻想が、原作以上にはっきりと示されていた。そのようにして、この演劇は、オスカルがアンドレにそのありのままの姿 — つまり男性的な部分も女性的な部分もふくめた、ありのままの私 — を愛されたように、私も逞しくも自分にだけは紳士的なオスにそっくりすべてを愛されたいという都合のよい願望をかなえるだけではなく、むしろアンドレのように誰かを心から愛したい、すべてを捧げてその人のために生きたいという、もう少し深く普遍性のある願望をより強く表現しているのではないか、と私には思われる。少なくとも私は、宝塚のオスカルには少し失望したが、オスカルがその生をまっとうすることを自らを犠牲にしてでも望み支え続けるアンドレの姿には、思わず涙した。 二人が白馬の引く車にのって天空に駆け上がるラスト・シーンは、確かに昔の少女漫画のパロディーのようであまりにもベタすぎて滑稽であるが、それは、強い男に都合よく愛されたいという身も蓋もない欲望よりはもう少し昇華されたイメージであるように思われる。

 だから、ヅカファンたちの好みはちょっと古くさいだけで、決して悪くない、いやそうとうに豊かなものを含んでいるのではないか、と私は感じた。そして、宝塚歌劇が、何とか戦後臭を脱してより現代的な愛のすがたを、魅力的な女優を育てながら、もっと豊かに創造してくれたならば、その時にはきっと私も、宝塚に通うことを人生の喜びとすることになるような気がする。
by kohkawata | 2013-01-29 21:49 | 現代日本の文化 | Comments(0)