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尖閣諸島、あるいは愛国者の悲しみ


 東シナ海に浮かぶ無人の孤島をめぐる、日中双方の言動に何ともいえぬ愚かしさを感じている人は多いだろう。歴史的にも法的にも倫理的にも絶対に正しい国境線など元来あるはずもないのに、そこまで声高に本気で領有権を主張するなんて、知性と慎みを疑わせるに十分であろう、と。そしてこれを機に、「中国はやっぱり云々」と安直な一般化に走る言葉が行き交う状況にも同じような失望を感じる人は多いだろう。たしかに、ナショナリズムというのは個々人の賢愚や国民全体の成熟を判定するリトマス紙になっている。

 それにしても、この種の愚かさというものに、私はなかなか寛容になれない。イシハラやアベのような、断固領土を守るべし、戦争をも辞せず、といった主張をするほどのレベルにまで行く愚かな人は少数派であろうと思うが、しかし彼らにははっきりとした攻撃性があるし、彼らの気分をおそらくは私を含めた誰もがどこかで共有していたりもするので、私(たち)はどうしても何らかの脅威を多かれ少なかれ感じて身構えてしまう。

 こうした攻撃的なナショナリストは、愛国やら憂国やらを気取りながら、実は正義の御旗のもと、他民族はもちろんのこと、自国民すらも攻撃したり侮辱したりしているのであろうが、そのような道徳や倫理やルールを武器とした他者への攻撃というものは、彼らだけではなく、一見良識的にみえる各種の運動家や、あるいはハラスメントをする大人たちやいじめ的なことをする子どもたちにもみられる、ごくありふれた、しかしなかなかやっかいな手口だ。日本の「愛国者」たちは結局は、日本車に乗っているからといって自国民を引きずり出して殴った中国人暴徒とよく似た類の人であるように私にはえる。どちらも、愛国を叫んで自国民に損害をもたらしても、そのひどい自己矛盾に恥じる様子もなければ、そもそも気がついてもいなさそうである。

 察した方がいいと思うのは、こうした自省心を欠いて攻撃的にみえる人たちには様々な種類の人がいるだろうが、しかしその多くが、おそらくはそれぞれに、「怒り」だけではなく、何らかの「悲しみ」のようなものを抱えているのであろう、ということだ。

 私は、以前にこんな若者に出会ったことがある。彼は、日教組や共産党や特定の国の人々がどんなにひどいかとか、危険を顧みない勇敢なる軍人こそが尊い、といったような、よく聞く右翼的クリシェを主張していた。私は何度も、人を表面的なレッテルだけで判断するのはよくないよ、うっかりするとそれは差別だよ、それに弱者をたたくのはかっこわるいことだよ、といったことを諭したのが、そうした長く続いたやり取りのなかで、彼はこんなようなことを言った。「自分の親は自分のことはどうでもいいと思っているし、自分も自分のことが嫌いなんですよ」と。

 私が想像するのは、多くの攻撃的な人たちの本音はその辺りにあるのではないだろうか、ということだ。そのこまで内省して言語化できたその若者はそれなりに賢い人だったのあり、おそらく多くのナショナリストはそんなことは自覚していないだろう。だが、彼らが何より声高に主張するのが「愛国」や「誇り」であるというのは、そうした背景があるのではないかと私には思える。どうして俺は自分に誇りも自信ももてず恥ずかしめられているのか、そもそもどうして誰も俺を愛さないのか、俺は正真正銘の日本人なのだぞ、ということではないだろうか。右翼の街宣車のがなり声は、どこか赤ちゃんの泣き声と重なって聞こえくることがある。どちらも、ぼくは困って怒っているんだ、ぼくの方を向いて、ぼくのことを今すぐかまってくれ、そして助けてくれ、と激しく訴えているのではないだろうか。右翼の方々は、少しもかわいらしくないけれど。

 「愛国主義は悪党の最後の砦だ」という意味のことをサミュエル・ジョンソンが言ったらしい。どういう文脈で言ったのか知らないが、私には、「現代にあって愛国主義は弱者の最後の砦だ」と言った方が本質的であるように思われる。あの若者が暗に伝えたかったことは、「人は弱者をたたくなというが、弱者なのはむしろ自分であり、だから自分が怒り罵りまわることは許されるはずだ」ということであったように感じられた。やっかいなのは、この最後の砦を取り上げられたら、この弱者たちは行き場所を失ってしまうであろうということだ。彼らは政治的妥協など望んでおらず、むしろ問題が大きくなって火の手が盛んに燃えた方が一時の興奮を味わえて喜ぶだろう。取り戻せない悲しみを抱いて「現実」を壊そうと願う彼らは、確かに危険で、確かに悪人になりえるのだ。

 堺屋太一との共著『体制維新』などを読むと、橋下徹はそれなりに大きな歴史観と戦略性をもった人のようでもあり、私は政治家としてまったく期待していないわけでもないのだが、しかし、彼が何かにつけて見せる幼稚な攻撃性やナショナリズムの利用には、結局は彼もイシハラ、アベの類の弱者=悪人なのかという疑いをもってしまう。法をもって処罰される可能性がないならばあとは何をやってもよい、といった類の彼の発言も、弁護士らしくもあるが、確かに恥も慎みも欠いている。そして彼の近親者や同調者たちについての、いかにも暴露記事めいてはいるが重要な情報を含む週刊誌の記事の数々や、『どうして君は友だちがいないのか』といった彼の別の本などを読むと、彼はセンチメンタルで単純な右翼などではないのだろうけれども、それでも彼にも癒されがたい生々しい傷があり、それゆえに恥も慎みも奪われて、暗くたちの悪いニヒリズムを信奉してしまっているのかもしれない、と想像される。

 そんなようなことを考えると、自称愛国者たちを数日間だけ野放しにして暴動を許した中国政府はそれなりに現実的で賢明であったのかもしれない。彼らの悲憤はとにかくも少しは受け止められたのだから。あるいは石原都知事に言いたいことを言わせて尖閣から遠ざけた日本政府の対応も適切であったのかもしれない。暴れる者からは、タイミングをみて、静かに、あるいは威嚇して、武器を取り上げなければならない。しかし、今後も「愛国者」たちを国家権力の中枢から遠ざけ続ける力は今の日本人にはもうない恐れもある。むろん、不幸にもそうなったとしても、たちの悪い「愛国者」たちはあくまでも少数派に留まるだろうし、この巨大なシステムと化した日本の社会は首相の裁量程度ではどのみちたいして変わらないだろうが、しかし、いい方向にも変わらない、ということになりそうだ。

 個人的なレベルでは、もし身近にこうした悲しくも攻撃的な人がいたら、感情的にも巻き込まれないように用心しながら、彼から身を引くという消極的対応がもっとも現実的だろう。おもしろくもない話だが、人を正したりしようとするのではなく、結局は自らの正気を保つことが肝要なのだと思う。しかし、機会があれば話を穏やかにきいてあげて、意見には同調しないが、君の気持ちはわかる気がするよ、とそっとシグナルを送るのがいいのかもしれない。悲しみに向き合えるようになればよいのだが、と念じながら。
by kohkawata | 2012-10-22 18:03 | 現代日本の文化 | Comments(0)