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蜷川実花の新作

 遅まきながら、『ヘルタースケルター』を観た。久々におもしろい邦画を映画館で観た、惜しみなく華やかで、大胆で、知的で、毒のある映画だ、と思った。

 原色に近い過剰なほど多彩な色を用いていることも、主張の強い音楽の使い方も、ほとんど好き勝手にやっているという印象を与えるほど大胆なものでありながら、それでいて実は誰にもわかる、媚びといっていいほどの大衆性をもっている。壮麗な室内のシーンなどはもちろんなのだが、夜の雨のなか人生に絶望して泣き崩れるというベタすぎるはずのシーンも、立ち並んだ自動販売機やショウウィンドウなどを使ってあふれかえるような色彩を大胆にまきちらすことによって、ベタでありながらなんとかおもしろいシーンにしている。そして、そのような大胆な華やかさを最初から最後まで貫き通し、一つの作品として鑑賞と評価に耐えられるようにまとめあげていくその緊張感あふれる力技自体が、りりこという主人公の生き様と奇妙なほど共振しているようで、それがこの映画の中心的な魅力になっていると感じられた。

 りりこは自分の存在に何の値打ちもないと痛感しているから、全身美容整形をして美女として生まれ変わって人気モデルに成り上がったけれども、その美もその人気も虚飾で一時のものにすぎないことも知っていて、忘れ去られて再び何の値打ちもない人間に落ちていくことが、いやそもそも今もこれからもずっと値打ちのない人間であり続けるほかないかもしれないことが、怖くて怖くてたまらない。怖さから逃れるために、整形を繰り返し、「ママ」に頼ろうとしても頼ることができず、酒を飲み、マネージャーをいたぶって、後輩に嫉妬し憎悪して、薬にも手をだすけれども、素面になるとまた怖くて、妄想まで出るようになって、とうとう自分の存在を消し去ろうかと思いつめる。

 そのようなプロット自体は岡崎京子の同名原作に忠実でいながら、しかし原作ほどりりこの人生に迫真性は感じられない。原作の方が描線が儚げで、りりこの身体も人生も貧相で情けなく切ないのだが、映画の方はといえば、主演女優の演技が上手ではないせいもあってか、今ひとつプロットに説得力がない。その代わり映画は、りりこを中心にした映像的に惜しみなく華やかで緊迫感のある世界をつくりだしており、それでいて時々おそらくは意図することなくかなり間抜けなシーンもある所に(賢いはずなのに賢くなさそうな気取った検事さんとそのゆるい感じの部下との二人のシーンなど)、切迫感が強く儚げな原作者とどこかおおらかで豊かな感じのする監督との資質の大きな差が感じられるのだが、漫画一般が不得意な私は(漫画という表現方法は視覚的にも言語的にも貧しくステレオタイプに堕しやすいと思う)、この映画の方にも魅力を感じる。

 知的で毒があるというのは、そのようにして作り上げられた華やかでありながら人工的な美を喜んで享受しては捨てて忘れ去って行く消費者の軽薄さと無責任ぶりを、この映画が描いているからである。りりこに興味をもつ若い女たちの騒がしく軽々しい声が、原作と異なって、くどいほど繰り返されている。けれどもさらに周到なのは、そのようにして消費されていく一人の人間の姿を映画が華やかに残酷に描くことで、それもまた消費されていく、つまりりりこの顛末も、沢尻エリカという実在の人間もこの映画自体も観客たちによって消費されていくのだ、という多重に自己言及的なアイロニーがこの映画にはある、という点にある。

 元々原作も自己言及的だが、さらにアイロニカルであった。肉体も言葉もすべて嘘ばかりで成り上がったりりこは、その嘘の存在に平気で騙されてしまう世間を笑っている。そして漫画全体もまた、そんなふうに美女の裏側を覗き見て喜んでいる読者たちを笑っているように思われる。それでいて、そんな世間や読者に媚びを売って消費してもらはずにはいられない、そのような寂しく情けない姿を漫画はアイロニカルに描いていて、そのアイロニーがいいと思うインテリもいるでしょうよ、という覚めた感覚すら漂っていた。

 この映画(と原作)が描く、ポストモダン的な「スペクタクル社会」の舞台裏でありながら楽屋落ちのない、逃げ場を失った人間たちの閉ざされた社会は、しかし結局ちょっと時代遅れな、バブル期のころの東京的な感じもするし、男たちの、あるいは同性同士の視線にさらされて値踏みをされ続ける女たち一般の世界でもあるようで、その意味で、やはりどこか時代からずれてしまった、しかしやはりある種の普遍性をもつ、フェミニズム的な映画でもあると思われる。

 それでも原作も映画もそれぞれにいいものだし、とくに失踪後のりりこを垣間見させる、原作・映画のどちらにも配されている最後のエピソードは、閉ざされてみえる社会でもその外には開かれた世界があるのだ慰めてくれているようでもあり、その意味でやはり媚びているなと感じられながらも、心やさしい、いいエンディングだと思う。そして、アメリカだったかメキシコだったか記憶していないのだが、どこか外国の僻地を設定した原作と異なって、人々が行き交い笑いさざめく香港の華やかな雑踏に取り囲まれた、隠されていながらきらびやかな空間というラストシーンの舞台は、この映画全体の、そしておそらく蜷川実花という作家の、一貫した力強い志向を象徴していると思う。
by kohkawata | 2012-09-17 13:44 | 現代日本の文化 | Comments(0)

浄瑠璃の本、二冊

 人形浄瑠璃について、二つの、新しくおもしろい文献を読んだ。

 一つは、橋本治『浄瑠璃を読もう』(新潮社、2012年)。これは、現代の日本を代表するのであろう思想家にして江戸芸能のかなりの愛好家でもある橋本治による、浄瑠璃についての「大人の感想文」のようなもの。「感想文」というのは、様々に開陳される自説にさほどの根拠も示そうともせず、「私はこう感じた」で押し通しているからだが、それでも、「日本人のメンタリティの深層部はこれ[人形浄瑠璃のドラマ]を共有するこによって形成されて来た」という大胆な前提から出発する本書は、私にはたいへん面白いものであった。

 取り上げている作品は、浄瑠璃の代表的な作品8本であるが、中心になるのは、浄瑠璃全盛期の代表作と目される三本、『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』、についての三つの章であろう。この三本は、浄瑠璃史上の代表作であるだけでなく今でも文楽で(多分)最もよく上演されるものであるにもかかわらず、現代人にはなかなか理解しがたい話法があり、共感しにくいドラマでもあるのだが、それを橋本は、にもかかわらず現代的なドラマでもありえる、という視点から丁寧に読解、説明していく。

 とりわけ私におもしろいと思われたのは、『忠臣蔵』のお軽と勘平の二人を、悲運にみまわれた武家に仕えているにも関わらず、実は忠義やら敵討ちなどといった武士の倫理が身にしみず、つい恋などにうつつをぬかしてしまうような、「現代人」、つまり江戸の現代人でもあり平成の現代人にも通じる人間像なのだ、と橋本が読んでいる部分だ。お軽は勘平とのことにしか興味のない「軽い」女だし、勘平は自分の体面ばかりを気にする軽薄な男だ。浄瑠璃の作者たちは、こうした人間を、愚かしく描きながらも、大星由良助(=大石内蔵助)をほとんどさしおいて、わざわざ主人公にしている。だから、『仮名手本忠臣蔵』という浄瑠璃の代表作が中心的に描いているのは、実のところ主君の仇を討つ忠臣といいうよりは、「義理も人情もへったくれも」ない、町人的で現代的で「生々しい」人間なのだ、と橋本は言う。

 また、近松門左衛門の『冥土の飛脚』も紹介しているが、これもおもしろい。梅川と忠兵衛の悲劇を、近松は徹底的に突き放している、そこに圧倒的な文学性があるのだ、と橋本は主張している。例えば、中之巻の冒頭に「浮気烏が月夜も闇も、首尾を求めて逢おう逢おうとさ」とあるのだが、この「逢おう」は烏の鳴き声「阿呆」に掛けられており、橋本はこの笑えない駄洒落に、公金を預かったままふらふらと梅川に逢いに行ってしまう忠兵衛にたいする、作者近松の突っ放した冷淡さをみる。橋本の「あほう」の説明に導かれて、忠兵衛のように愚かなまま死んで行く人間の運命に、改めて慄然とさせらた。考えてみれば、「冥土の飛脚」というタイトルからして、突き放しきった、薄気味悪いほど残酷な、しかしどこかユーモアのただよう文学性をもっているではないか。

 橋本の説明はそのすべてが説得的というわけではないが、いずれにせよ通読してみて改めて感じるのは、この全盛期辺り以降の浄瑠璃・歌舞伎をはじめとする江戸後期の、奇妙に被虐的だったり不条理に残忍であったりする文化の諸表現は、やはりなかなか難解だな、ということである。そのわかりにくくどこか愚かしげな江戸後期の文化の様子は、今のじわじわと頽落していくようにもみえる日本の社会とも重なってみえるようで、その点でも私はこの本の浄瑠璃の現代的な読み方に興味をもつ。


 もう一つは、細田明宏編『二〇世紀における人形浄瑠璃の総合的研究』(2012年)。科研費の報告書として作成されたこの冊子は、橋本の本とは対照的に、かなり専門性の高い論文集で、人形操法の心得を和歌の形式で記した『操曲入門口伝巻』という文書についての共同研究を中心に(とくに現代の操法との違いに詳しい)、近代以降の浄瑠璃についての丁寧な研究の成果が示されており、こういうふうに学問研究というのはしっかりと進展していくのだな、と感心させられる。

 この冊子のなかには、論文だけではなく、下伊那地方の素人義太夫(義太夫は浄瑠璃にほぼ同義)の担い手であった人たちへの細田氏によるインタヴューも収録されており、その一つが飯田の金井はま子という女性へのインタヴューなのであるが、そこから浮かび上がってきた彼女の人生には、ある種の感慨を覚えた。

 この人は1913年の生まれで、小さい頃にトロッコに触れて左腕を切断する大怪我をしてしまう。責任を感じた親が、「年をとってからの楽しみに」と思って彼女に義太夫を習わせたのだという。詳しいことはわからないが、かつて浄瑠璃というものが、楽しみの少ないであろう人生に慰めをもたらすものとみなされていたことが推察できる。

 ところがおもしろいことに、両親の心配をよそに、どうもこの人はそれなりに充実した人生を送ってきたようなのである。彼女は、片腕を失ったし、戦争で未亡人になるし、飯田の大火に被災するなど、ずいぶん苦労を重ねているのだが、その一方で、子ども三人を育て、義太夫を通じて交友関係を広げながら地域の義太夫グループの一員として活動を続ける。大阪の文楽を抜けて流れ流れて飯田にきたという師匠とのエピソードもニヤニヤという感じで語ったりもしている。浄瑠璃というものを一つのきっかけにしながら、なかなか悪くない人生じゃないか、人生は人智を超えるんだなあ、と感じた。それもまた浄瑠璃的人生観というべきか。


追記:この『二〇世紀における人形浄瑠璃の総合的研究』はネット上で読めることを発見しました。こちらです
by kohkawata | 2012-09-08 20:23 | 近世日本の文化 | Comments(0)