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『春光乍洩』、日本最終上映

 
 先々週、神戸の元町映画館で『春光乍洩』(邦題『ブエノスアイレス』)を観た。なんでも、日本での上映権が今年で切れるので、あえて上映したそうだ。日本最終上映らしい。

 蠱惑的なショットに満ちた、現代の古典と言ってよいこの映画を、私はこれまでに何度も観たが、今回劇場で観て、改めて感じた事を少し書き残しておきたい。

 この映画の見所は、やはり何と言っても、榮(ウィン)のダメ男ぶりだろう。いや、そもそも王家衛映画全体のなかでも最もの見所は、どちらも張国榮演じる、『阿飛正傳』(邦題『欲望の翼』)における旭仔とこの榮のダメ男ぶり、といえるかもしれない。

 例えば、輝(ファイ)に浪費を責められて、別の愛人の腕時計を盗んで金にすればいいと輝に渡しておきながら、その愛人に殴られると、腕時計を返してくれと臆面もなく言い出すあたり、どこかで遭遇したことのあるような気がする、あまりに生々しいダメ男ぶりに一瞬息を飲んで、そして目が離せなくなってしまう。張国榮は、ダメな男を演じるのがうますぎて、この俳優自身の素の姿であるに違いないと勝手に確信してしまう。

 そして、今回観て、かなり強く感じたのは、口唇的な飢えのシーンが執拗に繰り返されいてる、ということである。それらのシーンゆえに、榮のダメ男ぶりがいっそう迫ってくるように思われる。中国語圏の映画は全体的に食のシーンが多いのだが、『春光乍洩』はそうした一般的な傾向をはるかに凌駕している。榮も輝も、映画の最初から最後まで絶えずタバコを吸っており、酒量も多い。

 タバコと酒のシーンは、彼ら二人、とりわけ榮の精神的な弱さ、よるべなさの表現となっている。ベッドサイドにタバコの箱をたくさん並べるシーンが二度あるが、いずれも、相手との関係が悪化したときに、それを修復するおまじないのような儀式として行われている。また輝が泥酔するのは、いつも榮への不安と怒りが高まっている時である。タバコや酒に頼らなければ彼らはまともに息すらできないかのようだ。

 また、どうやら食事を作る能力がないらしい榮にとって輝とは、いわゆる愛人というだけではなく、ご飯を作ってくれる人でもある。その輝は、下宿で食事を作るだけではなく、アルバイト先も、バーの呼び込み、中華レストランの厨房での皿洗い、精肉業など、いずれも食に関わるものである。輝は、榮だけではなく、新しく知り合った小張のためにも、食事をつくってあげている。

 榮の輝への性的な愛着も口唇的に表現される傾向が強いのだが、こうした口唇的な餓えのシーンの異常な頻度は、素朴な解釈だが、母性的なものへの飢えを感じさせる。生活能力がかなり乏しいうえに、口唇的なさびしさも、怒りや虚言や裏切りさえも許してほしい、受け入れてほしい、と迫って来る榮のダメ男な態度は、幼児の母親への全面的な依存を思わせる。そんな榮にたいして輝は、食事を作ってあげるし、怪我を負った彼を抱きとめてあげるし、寝る場所も提供してあげるのだから、かなり母親的でもある。

 この映画には、母親的な人も含めて女性全体がほとんどまったく登場しないのだが、実は、 この映画の撮影過程を断片的に記録した『摂氏零度』 をみると、女性たちの登場するシーンはかなりの分量撮影されており、そのなかにはこの二人の男の怪我の治療をする中年女性の医師(一般的に言えば母性的な設定といえよう)もいたのだが、最終的にはほとんどすべてカットされたことがわかる。このカットされたシーンも何とも魅力的なものばかりで、もう一つの『春光乍洩』を夢想させられるが、しかし女性の登場するシーンを徹底して排除したことによって、母性的なものへの飢えをより深く表現できたのではないかと思われる。

 そう考えると、『春光乍洩』は、同性愛カップルの映画でありながら、母に捨てられた悲しみをひきずりながら破滅していく男の姿を描いた『阿飛正傳』をなぞったものだ、とも位置づけられる。いや、もしかしたらある種のタイプの男性同性愛とは、母をはじめとする女たちへの自覚できないほど深い失望に根ざした存在の様態なのかもしれない、とも一般化したくなってくる。榮にとって母性的な振る舞いもしていた輝は、榮が怪我から回復してまたしても裏切りを繰り返すようになると、この男はどうしても救いようがない、と見切りをつけて、とうとう榮を追い出してしまう。そこには人生の悲しい反復があるのかもしれない。

 そんなことを考えながら映画を観ていると、この映画のなかで、まるでハイライト・シーンであるかのような音楽とともに一見不思議な映され方をしているイグアスの滝とは、榮と輝にとっての「母」なのではないかと思えてきた。映画は冒頭近くで、この滝へと向かいながら迷子になってしまう二人のよるべのない姿を映し出している。そして最後近くで輝は一人でこの滝に辿り着いて、榮と一緒に来られなかったことを残念がる。母の欠如に苦しむ二人がはるばると目指すものが滝であるならば、その滝とは「母」なのではないだろうか。膨大な水が流れ込んでいるので、巨大な穴となった滝壺から逆に無尽蔵の水が飛沫となって溢れ出ているようにもみえるこの滝は、すべての生命の源であるようにも感じられる。

 そして映画は最後の最後に、台北の料理の屋台(またしても口唇的な職場だ)で忙しく働く小張の家族を映し出す。画面の中央にいて目立っているのは父親だが、母親らしき人もちらりと見える。屋台に貼ってあった小張の写真を輝がこっそり失敬するのは、小張が好きだからというだけではなく、小張への父母の愛を少し分けてほしかったからではないか、などと思われた。

 榮は自分が口唇的に飢えていることも母の欠落に苦しんでいることも自覚しているようには描かれていないし、輝さえもどうやらある程度無自覚であるようだ。王家衛自身はどうであるのか、どこまで意図的に撮っているのか、私にはよくわからない。しかし、この映画は、他の王家衛映画と同様に、計画性をかなり欠いて試行錯誤のなか撮られたようで、『摂氏零度』に映されたその時の王家衛の様子をみると、どちらかというと意図的でない部分が多いように思われるし、それは高い芸術性にとって必然的なことでもあろう。

 いずれにせよ、こうした口唇的な飢えという、ある意味でベタで原初的な飢えを、身体的な感覚として詩的に映像化できていて、その飢えの起源にまで象徴的に迫っているのだから、『春光乍洩』は、なんだかんだいってやっぱり、すばらしい映画なんだろうなと思った。
by kohkawata | 2012-05-08 13:26 | 香港の映画 | Comments(0)