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雑談の夜明け


 先々週、短い報告書を書き終わって、ようやく「春学期」の業務が終わった。しかしもうお盆が目前であった。

 大学の授業はこの学期から15週間にふえたこともあって、しかも8月に入って名古屋で集中講義までして、夏休みがひどく遠かった。長いあいだ感じたことがなかったほど夏が暑かったこともあるし、二つの原稿をかかえていたこともある。

 ところで、この春学期は、どうしたわけかいろいろな人に話しかけられることが多かった。学生に議論をふっかけられるようなこともしばしばあって、楽しいような困ったようなことも多かった。なぜだろうか。もしかしたら、このブログを始めたので、それを読んで、「こんな感じの奴なら話しかけても大丈夫だろう」と思ったのだろうか。なぜかエスノセントリックなことを強い調子で語る学生が複数いて、しかもそんな彼らがわりと勉強熱心だったりして、「いよいよ時代が変わってきたのか」と思わされたりもした。しかし、あるいはこのブログを読んでのことなのかもしれない。ならば、私の反エスノセントリズムをちゃんと感じてくれた、ということになるのかもしれない。

 春学期、忙しい合間に読んで、つくづくいいなあと思った古い本がいくつかあった。

 一つは西脇順三郎のエセー『雑談の夜明け』(講談社学術文庫、1989年)で、西洋の文学的教養を深く身につけたこの人の中国詩論は私にはとくにおもしろく感じられた。こんなことを言っている。

  「これだけ簡潔な表現をし得る言語は他にないと思う。私は世界の言語についてはみな知っているものではないが、恐らくそうであろうと信じるのだ。[・・中略・・]古来世界の作詩法によると語法の簡潔は詩人の最大に求めていたことである。けれども中国語を用いる詩人には、もう言語的にかなわないにきまっている。言語という宿命でこれはあきらめなければならない。おまけに単語が単音節ときている。「簡潔は詩才の精神」とローマ詩人以来の訓言がある。ところが一般にヨーロッパ語ではそうは行かないのである」(167-8頁)

 言われてみれば中国の詩とはなるほどそうしたものだと思う。

 そういって悔しがっている西脇の詩も少し読んでみた。それで出会った本、『日本の詩歌 12巻 木下杢太郎 日夏耿之介 野口米次郎 西脇順三郎』(中央公論社、1969年)はとてもいいものだった。このシリーズは装幀が端正で、詩の選択も本文の組み方も注釈もさし絵もよくて、とてもいい詩の全集だなあと思う。全部で30巻ほどあるらしい。こんな全集は今の日本ではもう望めないのかもしれない。

 この巻には、例えば、日夏耿之介の『転身の頌』(大正6年)の最初の詩「かかるとき我生く」がある。

 大気 澄み  蒼穹晴れ  野禽は来啼けり
 青き馬 流れに憩ひ彳ち (たち)
 繊弱き草のひと葉ひと葉 日光に 喘ぎ
 「今」の時計はあらく 吐息す
 かかるとき我 生く

 「時計」は、本当は難しい異字だが、ネット上で字を見つけられない。大気は「き」、蒼穹は「そら」、野禽には「とり」、日光は「ひざし」などとルビがふってある。漢語と和語の組合せが効果的ではないだろうか。

 西脇自身の詩もそうだけど、結局日本語の詩だって捨てたものではない。とくに日本の近代の詩には、どこか暗い影がつきまとうけれども ― 上の詩にもどうしたわけか予兆的な影が感じられないだろうか ― 、私にとっての母語がもっている繊細な情感と響きがこもっているといまさら思う。老後の楽しみがまた一つできたかもしれない。
by kohkawata | 2010-08-23 18:00 | 近代日本の文化 | Comments(0)