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余華と霍建起など


 そろそろ新年度で、一年でもっとも忙しい時期になってきた。しかもこれから3ヶ月ほどかけて仕上げる予定の原稿もあるので、しばらくはブログを書く量は減るかもしれない・・・しかし、ブログを書くのは思っていた以上に楽しいので(言いたいことがいろいろあるらしい)、やはりそれなりに書くかもしれない。

 ここで書こうと思いながら、まだ書けていないのは、とりわけ中国の作家余華の『兄弟』(泉京鹿訳、上下巻、文藝春秋、2008年)のことと、映画監督霍建起(フォ・ジェンチイ)の、最近日本で公開された『台北飄雪』(2008年、邦題『台北に舞う雪』)のこと。

 前者は、ある兄弟の、文革から現代に至る、安易な叙情性などすべて吹き飛ばすような、苛烈な物語であり、それは現代中国人の戯画的な自画像としてふさわしいものなのだろうなと想像する。本土の中国の人々が歩んできた現代史を、教科書的にではなく感覚的に知りたいのであれば、同じ余華の『活きる』(飯塚容訳、角川書店、2002年)とあわせてこの小説を読むのが一番手っ取り早いかもしれない。

 後者は、対照的に、声を失った新人歌手の女の子が逃げ出した田舎の町で純朴な青年に出会って癒される、という日本の少女漫画のような抒情性たっぷりなもので、私には共感するのが難しいプロットではあるが、しかし隅々まで美しい映画であった。この監督は、日本でたいへん好評であった『那山、那人、那狗』(1999年、邦題『山の郵便配達』)以来、私の知るかぎりずっと、中国の奥地の山里、大都市重慶の下町、地方都市の住宅地といった、必ずしもさほど美しいと感じられてこなかった自然や街の風景を、甘いあるいは苦い人情話に織り込みながら、美しい情景に仕立てあげることに優れている。風景に抒情を溶け込ませることの好きな日本人には馴染みやすい演出の仕方だといっていいだろう。『情人結』(2005年、邦題『初恋の想い出』)のハイライト・シーンでは、息子の自立に怯える母親が窓越しに外をのぞきみると、ちょうど息子が恋人を自転車の荷台に乗せて過ぎ去っていくのがみえるのだが、その二人を取り囲んで祝福するように無数に咲き誇っている白いリラの花々が映し出される。散りゆくことを強く予感させる、この美しく悲しい情景は、霍建起の映画のなかでも私にはとくに印象的である。

 今回の『台北飄雪』の舞台となった平渓の風景はたしかに侯孝賢の『南國再見、南國』(1996年、邦題『憂鬱な楽園』)などによってすでに世に知られたものではあるが、霍建起はこの山間の町を箱庭的に美しくかわいらしいものに仕上げている。ちらと映し出される台北の夕暮れもすばらしい。監督自身満足のいく映画ではなかったというサインも読みとれたが、最後の青年の出立のモチーフは、甘い幻想から醒めた男が何を求めるのかなどといったことを考えさせる、味わい深いものであった。そういえば、『那山、那人、那狗』のテーマの一つは、息子がたくましく成長し自立していくことへの父親のアンビバレントな感情にあり、この監督はずっと同じようなことを表現しようとしてきたのかもしれない、と思う。
by kohkawata | 2010-03-22 01:05 | 現代中国の映画 | Comments(0)

弟子のドキュメンタリー、師匠のフィクション


 『KJ 音楽人生』(張経緯監督、原題『音楽人生』、2009年、香港)を観た。監督は、許鞍華(アン・ホイ)の弟子にあたる人で、これが長編映画としてはデビュー作で、ドキュメンタリーである。日本ではこの3月の大阪アジアン映画祭で初上映。

 主人公は黄家正という香港の音楽家。映画は、彼がわずか11才でチェコでピアニストとして演奏したころの姿と、17才で音楽学校のリーダー的な生徒として奮闘する現在の姿とを交互に映し出しながら、彼の身の回りの人たちへのインタビューも交えて、この多感で明敏な若い音楽家の姿を立体的に映し出している。とりわけ上手に撮られているなと思うのは、この人が、本人が自負するように音楽家として本当に天才なのか、それとも早熟ではあったが今や情緒不安定な凡人にすぎないのか、どちらなのか最後までわからなくて、観る者をひやひやさせる、というところだろう。「音楽家である前に、すばらしい人間でなければならない」と彼は事ある毎に言うのだが、自分が指揮をしているオーケストラのメンバーたちをいらいらと叱責する彼の態度にはかなり未熟なものがあり、この人はこれから大丈夫なのかなあと心配させる。

 彼を音楽へと駆り立ててきたものは何だろうか。映画は、まず、情熱的に彼にピアノを教えた中年女性の先生の姿を映す。クリスチャンでもある彼女は音楽とは神への賛美だと信じて全身体的に彼にピアノと人生を教え込もうとしたようで、神を信じない黄家正は先生にアンビバレントな感情を抱いたりしながらも、今では師であったこの女性に深く感謝をし愛着も感じているようだ。だが、やはり音楽をしている家正の兄は、弟はピアノをはじめてから情緒が不安定になった、と言う。映画は、家正の父親の姿も映す。医師を本職とする彼は相当な音楽マニアであり、自分の三人の子どもに音楽をやらせ、とくに才能のある家正にはつきっきりに近い様子で支え続け、本人の意思に反してでもコンサートに出演させることなどもしたようだ。家正の母は、家正が十代半ばころに父と離婚したらしく、映画には登場せず、どんな人であったのかわからない。

 この映画を観て、人を育てるというのはつくづく難しいことだ、と当たり前のことを思った。映画から察するに、この音楽家を育てたのは、先生のほかには、とりわけ父親の並はずれた情熱があったのだろうと思われる。父(と先生)のおかげで、家正は代え難い数々の経験をし、卓越した音楽家になる可能性を得たのではあるが、一方で、彼の人生は、父親(と先生)の止みがたい激しい情熱に巻き込まれて取り返しがつかなくなってしまったのかもしれないとも思える。「魅力のある人だけが人を変えることができるんだ」と家正は言っている。それはまったく正しいと思うが、他人の情熱と自分の情熱を混同してはならないだろう・・・などといったことを考えさせる映画であった。

 また、ちょっと関心したのは、家正のような、日本人からみれば傲慢極まるようにみえる若者を周りの人たちがそれなりに寛容に受け入れているようだ、ということである。父親も師匠も彼の傲慢さをくじくような言動はしておらず、むしろ鼓吹し続けている。兄や妹や友人たちも、時に鼻白みながらも、結局はこの若者に寛容である。音楽家としての能力に劣る兄は、弟と父とに反発ばかりしているわけではなく、「弟も、父も、今の自分に満足していないんだ」と冷静な理解を示す。ぶつかりあいながらも受け入れあっているあたりに、家正という天才(かもしれない人物)を育ててきた周囲の人たちの懐の深さが示されているように思われる。

 本筋とは関係ないが、もう一つ興味深く思ったのは、家正の通っている拔萃男書院というという学校のことである。音楽の発表会にむけて学校全体で盛り上がっていく様子であるとか、家正を含めて生徒たちの会話の節々に英語が出てくることとか、発表会後路上で騒ぎながら、’We are the best! Best of the best!’ などと叫んでいる様子は、私の好きな『玻璃之城』(張婉婷監督、1998年)という映画で描かれた香港大学の様子によく似ていて(この映画でも主人公は、‘We are the best’と言っている)、この辺の雰囲気は香港のエリート校の特徴なのかなと思った。調べてみると、拔萃男書院は、英語によって教育をするキリスト教(英国国教会)系の学校で、創設は1869年にまで遡るという。この学校をはじめ家正を取り囲む上層階級的な雰囲気には、かつて英国の植民地であった香港社会の一面が残っていることが想像される。

 この監督の師匠である許鞍華の、今のところの最新作『天水圍的夜與霧』(2009年)も少し前にみた。私は、許鞍華の日本における唯一の専門家を(一応)自任しているので ― というのは、彼女の映画についての日本語によるある程度まとまった文章は、1993 年の四方田犬彦『電影風雲』(平凡社)以外には、私の論文しかないからである・・・「憤怒・和解・自由 ― 許鞍華の映画について ― 」(上)(下)という論文なのですが、よかったらここここ(ともにPDF)で読んでください ― 、この映画についても機会があれば詳しく論じたいと思うが、とにかく優れた映画で、弟子の『音楽人生』の静かでスマートな撮りぶりとは対照的に、これは妻と娘を惨殺するにいたる男の狂気を描いた、激しい映画である。

 外面(そとづら)のいい中年の男が、どのような経緯で結婚し、どのようにして妻に深い不安と強い憎悪とをぶつけ、妻を支配するようになり殺害にまでいたるのか、を克明に真正面から描いている。そこに浮かび上がってくる姿は、日本でも90年代くらいから注目されるようになったDV(Domestic Violence)という現象の加害者として語られる男性の一般的なイメージとかなり重なるものがあり、許鞍華は間違いなくDVについてリサーチし、それを映画に取り入れたのだと思われる。その上で許鞍華にしてはわかりやすい撮りぶりで、どこにでもいそうな平凡で小心にもみえる男のリアルな心情と行動こそが、ホラー映画なんかに出てくる怪物たちよりもずっと恐ろしいものなのだということを映し出している。被害者となる妻の愚かしさも痛ましい。一般の映画ファンはもちろん、映画評論家のような玄人筋の人たちも好むような映画ではないので、前作『天水圍的日與夜』(2008年)ほどには評価されないだろうが、しかしそれでもさすがに許鞍華と思わせる、優れた、怖い映画だと思う。
by kohkawata | 2010-03-14 11:47 | 香港の映画 | Comments(0)

返還後の香港についての本


 香港についてのすぐれた新刊書を読んだ。倉田徹『中国返還後の香港』(名古屋大学出版会、2009年)である。返還後の香港について、主に「中央政府」(中華人民共和国政府)との政治的関係を中心にして詳細に分析したもの。

 まず、中央政府が返還後の「一国二制度」という枠組みのなかで、どうやってどの程度香港の政治エリートたちを統制してきたのかが分析されている(第1章)。次に、「民主化」という言葉によって示され目標とされる政治体制の意味が返還前と返還後では異なってきており、市民の政治参加による政権交代の可能性を制度的に保障するような、普通の、欧米的なdemocracyでは必ずしもなく、より中央政府よりのもの、つまり共産党による一党独裁と両立するような特殊な「民主」となってきていることが示される(第2章)。とはいえ、中央政府が香港政府をかなり強力に統制しつつも、各種メディアをはじめとする「香港社会」にたいしてはほとんど放任・不干渉を続けている。その理由は、香港社会に干渉し統制する力が中央政府には法的にも実質的にもないことにもよるし、また、香港から大陸への政治的な悪影響という中央政府が最も懸念することについては、大陸と香港との間の「疑似国境」ゆえにかなりの程度コントロールできることにもよる、とされる(第3章)。そして、中央と香港とは「統合か自治か」をめぐって対立関係にあるのでは必ずしもなく、とりわけ経済的な安定と繁栄ということに関しては、中央政府も香港側も共通の目標としてきたこと、そして今後もその共通の目標をもちながら両者の関係が推移していくことを予想している(第4章)。最後の章では、かねて広く研究されてきた「香港人アイデンティティー」の問題をふまえながら、2004年に中央政府側から香港にたいしてしかけられた「愛国者論争」の分析を通じて、「香港人アイデンティティー」が、大陸の悪いイメージと対立するなかで形成されたものから、大陸における愛国とは異なるが両立可能な、地元愛としての香港人意識として、党派を分かたずに共有されるようになったと分析している(第5章)。

 どの章の分析もかなり精密なものであり、信頼できるものだと思う。

 振り返ってみれば、返還前後には香港の運命については日本でもずいぶん話題になったが、実際に返還されてからどうなったのかということについて、簡単な紹介程度の記事はあったが、しかし、きちんと詳しくフォローした日本語による文章は、私の知る限りまったくなかったと思う。いや、そもそも香港についてのこのようにしっかりとした学術書は日本ではたいへん希少なものであり、返還後の香港を語るうえで(少なくとも日本では)必読の文献であることに間違いはないだろう。

 私がとくに興味深く思ったのは、「北京」が香港を統制する具体的な手段である。そもそも、香港のミニ憲法である「香港特別行政区基本法」の解釈権と改正権は、香港側にはなく、中央政府がもっている。香港の行政上のトップである行政長官の人事権も、本書によれば、かなりの程度実質的な権限を中央政府が握っている。そのような公的・法的な手段によっても中央は香港をかなり強力に統制しているのであるが、同時に非公式なルートによっても統制しようとしてきた。例えば、本書は、激しい政府批判を行うことで知られるあるラジオ番組にたいして中央政府が圧力をかけた2004年の事件を取り上げている。この番組の出演者である李鵬飛という有力政治家の発言が共産党系の新聞で批判され、中国側の関係者や香港の政財界の巨頭が次々と李に面会を求めてきて、さらにある日、元中国政府官員を名乗る陳なる男から電話があり、妻や娘について言及された上で、久しぶりに会わないか、番組について議論したい、と言われ、李はほとんどまったくつきあいのなかったこの知人の言動を脅迫と受け取り、番組を降りることにしたのだ、という。

 中国共産党という権力集団の特異さの一つは、このような非公式的な手段、つまりは法的な規制からかなりの程度自由な手段をも組み入れた、豊富なリソースの動員による権力の集中的・重層的な発動を国内において行うことができる、ということにあるといえるだろう。文革期に大混乱しつつも頂点に達したそのような強力で特殊な権力行使のありようは、驚くべきことだと思うが、半世紀近くたった今でも中国共産党において一つの強固な政治文化として脈々と受け継がれていることが本書の記述からもわかる。もう少し具体的にいえば、「中央」の(時に非公式な)意志を体現し手足となって活動する人たちが中国社会のあらゆるセクターに相当数いる、ということだ。そして彼らは、退くべき時にはさっと妥協し退いて何事もなかったかのように次の一手にでる、というたいへんしたたかな権力集団なのだ・・・などという中国共産党の一般論は本書に書いてあることではなくわたしの憶測だが、しかし本書は、このように、香港の政治的状況だけではなく、中国共産党政府というもはや世界最大・最強といってよりレベルにまで達した集団にたいする理解をもうながすものだと思う。

 もっとも、この本の著者は東大で鍛えられた複眼的な政治学者であり、こうした国家・政府・党の強権を過大視することなく、むしろそれがいつも限界をもっていることに目配りしている。中央政府は香港政府をかなりの程度コントロールできても、反権力的なジャーナリズムをはじめとする「香港社会」にたいしては、若干の統制を試みてもすぐ手をひっこめて、結局は返還後一貫して放任してきた、ということを強調している。李鴻飛の事件にしても、中央側の動きは決して一枚岩ではない。むしろ、中央政府は、香港が安定し繁栄するという目標を香港政府とも香港の市民とも共有しているのであり、結局のところ、中央と香港との関係は、返還前に憂慮されていたこととは異なって、良好なものになっているのだ、という。

 私も香港にはずっと注目してきたつもりで、著者のこうした分析は基本的に正しいと思う。けれども、中央政府の統制に限界があるという当然のことは認めたうえで、香港という場所の特異性を考えるうえで重要なのは、香港がそれでもやはり中央政府の、あるいは大陸という巨大な場所からの大きな脅威のなかにある、ということだと思う。正確にいうならば、香港は、最も基本的な生存のための構造的な条件 ― ミニ憲法の改正権、行政長官の人事権、外交権、軍事力の行使、水や食糧の供給、 ― を中央政府ないし「本土」にほとんど完全におさえられ依存しながら、なおかつ市民の日常的な生活のレベルにおいては、植民地時代から今日なお継続する、政府によるかなり大胆なレッセフェール的な政策のなかで、かなりの程度の豊かな自由 ― 経済活動、言論活動、教育のいずれにおいても先進国並み、あるいはそれ以上の水準にある ― を享受している、という状況である。政治的権力的な脅威の大きさ ― その脅威とは基本的構造に基づきながら、しかし多分に心理的なものである ― と、市民社会の経済的・文化的な豊かさ、このようなギャップの両面を理解することにこそ、ここ半世紀近く続いてきた香港的とでもいうべき社会・文化状況の特質を理解する鍵があるのではないか・・・といったことを私は思うのだが、どうだろうか。
by kohkawata | 2010-03-05 22:02 | 香港の文化 | Comments(0)