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最初で最後の『胭脂扣』

 もう先月になるが、心斎橋のシネマートで 關錦鵬(スタンリー・クワン)の『胭脂扣』(邦題『ルージュ』)をみた。

 この、25年も前になる(香港での公開は1988年)關錦鵬の代表作は、香港新浪潮の代表作でもあり、当時も今も高く評価され続けている作品なのだが、日本ではこれまで劇場での公開はなかったらしい。今回が初めてであり、最後の劇場公開になるのかもしれない。

 關錦鵬については、拙著『愛の映画』でも一章を設けてこの作品についても論じているが、今回新たに感じたこと、あるいは思いついたちょっとした仮説を書いておきたい。

 まず、DVDで観るよりも、スクリーンでみたほうが、光を上手に使っていることがよりよくわかった。主人公の如花の妓楼(1930年代の設定)には、ステンドグラスのような窓がたくさんあって、それが妓楼の狭隘な空間に光をもたらしているのだが、その華やかでいながら微妙に暗くもある光が印象的で、それは如花の、派手な化粧と衣装にもかかわらず表情がひどく暗いこととうまくあっているように思われた。

 そして、これらの妓楼のなかのシーン、つまり、冒頭の如花が口紅を塗るところから、もう一人の主人公である十二少と彼女が心中未遂をするにいたる、狭い室内で展開する諸シーンは、 關錦鵬にとって渾身の撮影であることが改めて強く感じられた。これまでの誰の映画にもなかったであろう種類の、中華文化の粋を集めた美意識を映画という表現形式のなかに情感豊かに再現したシーンであり、後で振り返ればどこかぎこちなくても、それは新しいものを創造する喜びに満ちているように感じられた。

 『胭脂扣』以降、『阮玲玉』(1992年)、『紅玫瑰白玫瑰』(1994年)などで、關錦鵬は同じように旗袍を身に纏う女性を中心とした室内劇を何度も撮るが、おそらくはこの『胭脂扣』におけるその創造的な愉悦は、観る者にとってもまれにしか体験できないものであると思う。

 この1930年代に設定された妓楼のシーンにくらべて、現代の香港のシーンはずっとラフに撮られている。現代を生きるカップルも、おかしなほど適当に撮られていて、圧倒的な存在感で迫ってくる、張國榮(レスリー・チャン)と梅艷芳(アニタ・ムイ)との落差が著しい。このことからも、關錦鵬という人が失われた時を再現することに固執していることがわかるのだが、この過去の美的再現というテーマを最初に、そして最も見事に展開したのが『胭脂扣』なのであって、当時の香港ではこの一作をもって「懐旧ブーム」が生じたとさえ伝えられる(それにしても、この懐旧的な映画を四半世紀も後に観ると、「現代」であるはずの映像も十分に懐旧的であり、何もかもが失われていくんだなと当たり前にことを感じさせられる)。

 よく知られているように、王家衛(ウォン・カーウァイ)もまた意匠をこらした狭い室内での耽美的なシーンを偏愛してきた。推測になるが、王家衛のそうした趣向は、この『胭脂扣』における妓楼のシーンに直接的な影響を受けているように思われる。それほど両者のあいだには類似性がみられるし、また王家衛が突然といってよいほどその映画的文体を確立するのは、『胭脂扣』公開の2年後の、『阿飛正傳』(邦題『欲望の翼』)においてなのである。王家衛のその前の作品は『旺角卡門』で、それは『胭脂扣』 と同じ年の公開で、時間的に影響を受けえなかっただろうし、少しも似ていない。そのように考えると、『胭脂扣』が創造の愉悦に満ちているのにたいして、『阿飛正傳』がどこかキッチュでパロディー的であるには自然なことかもしれない。両者は主演役者を共有してもいる。もっといえば、王家衛は映画作家として、關錦鵬の模倣者であり継承者である、という面をもっているのかもしれない。


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 最後に小さな文化史的推測を一つ。 上の写真は、『胭脂扣』からのもので、下の写真 は神戸のとある古い広東料理の店の窓。どちらの画像からもはっきりとはわからないかもしれないが、後者の店では、重厚な木造の狭い部屋にステンドグラスからの淡い光がもれていて、店員の女性はグレーを基調とした、見たことがないほどシックな旗袍を着ていた。以前から私はこの目立たない店の、ただならぬ文化的な佇まいに秘かに瞠目していたのだが、今回初めて『胭脂扣』の如花の妓楼に類似していることに気がついた。そういえば、たった今思い出したが、香港の飲茶の老舗陸羽茶室にも両者は似ている。ここにもステンドグラスがあって1933年創業というから、それは如花が李碧華の原作小説において亡くなったとされる年の翌年である。香港(あるいは広東辺り)の近代初頭の独特な建築と接客の文化の残光が海を隔てた日本の神戸にかろうじて残っている、ということなのだろうか。

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by kohkawata | 2013-05-19 01:56 | 香港の映画 | Comments(0)

初春の香港

 
 三月上旬、香港を訪れる機会があった。

 思えば初春の香港は初めてで、郊外の、様々な見慣れない鮮やかな色の花々と聞き慣れなれない鳥たちのさえずりが印象的だった。狭隘なダウンタウンは花に乏しいが、香港の花洋紫荊らしきものはあちらこちらに顔をのぞかせていた。香港は似た都市の存在しないあまりにも独特の大都市なのでつい忘れてしまうのだが、この街は東アジアとよばれる地域のほぼ南端にあって、亜熱帯の大自然のなかにある。

 日本では中国本土の発展ばかりが報道されるが、香港もまた順調にさらなる発展を続けていることが、今回の訪問で実感できた。九龍の、これ以上は想像できないというほどのにぎわいが半島の南端から北へとどこまでも続く様子は、そろそろ高齢化して衰退してもおかしくないように思っていたが、以前と少しも変わらないようであったし、香港島の摩天楼はますます高くなっていた。

 粤劇(えつげき)を観るために、中国との国境に近い上水という郊外の街を訪れたのだが、高層マンションばかりが立ち並ぶ無機的な街だろうという予期に反して、街の中心部は、飲食店を始めとする雑多な小売店鋪がひしめく、たいへん賑やかなところで、「小旺角」といった雰囲気であった。人民元を両替する店舗が目立ち、おそらく本土との行き来が相当に盛んなのだろう。九龍と上水、そして本土との境、羅湖を結ぶ長大な電車は数分おきに往来していた。公会堂のような公共のホールで行われた、とくに有名ではなさそうな若手たちによる粤劇公演は中高年の女性を中心にけっこうにぎわっていた。

 統計をみても、リーマンショックの影響は軽微で経済は発展を続け、人口も着実に増えており、地価は、投機的な動きが強いらしく、異常なほどさらに高くなっている。日本ではどこの地域も「にぎわい」を渇望しながらたいていの場所はさびれていっているが、香港では、上水のような目立たない郊外ですらも着実に発展し、にぎわいに満ちている。

 もちろん、香港が、不況に苦しみSARSに襲われた十年ほど前の「最も暗い日々」を乗り越えて、その後順調に発展を続けていることは知識としては知っていた。しかし少し心配していたのは、その発展が本土の発展にひっぱられる形で進行していて、いわば「香港らしさ」が失われているかもしれない、ということだった。香港ではますます普通話をしゃべる人が増えている、とも聞いていた。

 だが、むろん旅人の浅薄な印象だが、香港は相変わらずとても「香港」だったと感じた。確かに普通話を聞くこともあったが、相変わらず広東語のプレゼンスが圧倒的で、そこかしこで大声で語られる広東語をきいていると、香港にいるんだと実感させられた。最もメジャーな新聞「蘋果日報」も相変わらず100ページを優に超える圧倒的な情報量で、とりわけ三面記事がてんこもりであったが、民主派の動向も一面できっちり伝えていて、好意的であった。下町にはまだまだ「茶餐廳」が残っており、そのコーヒーは相変わらず、白い厚手のカップに最初からミルク入りでだされ、後に残る酸味が微妙に気持ち悪く、懐かしものであった。

 また、以前から香港のなかでは銅鑼湾が私のお気に入りなのだが、ここも相変わらずの楽しさで、夜遅くまでお祭りのような賑やかな雑踏が続き、中国語の「熱鬧」という言葉がぴったりであった。

 銅鑼湾で今回発見したのは、このブログで一年前に紹介した台湾の誠品書店が最初の海外支店としてこの銅鑼湾に進出していたことだった。日系デパートのSOGOの向かいに、希慎広場(Hysan Palace) というショッピングモールが新たに生まれ、そのなかに誠品書店は入っていた。台北の信義旗艦店によく似た、シックでいながら開放的な雰囲気で、またしても私は、あれこれ情報を仕入れながら、すっかりこの書店を楽しんでしまった。欧米や日本の本が、文学からビジネスにいたる様々なジャンルにわたって、ますます盛んに翻訳されているのにも関心させられた。

 この希慎広場には、気のきいたおいしい飲食店や様々なテイストの服飾の店もたくさん入っていて、向かいのSOGOがいつのまにかレトロな雰囲気をかもしだしているのをみるにつけても、日系企業と中華圏の勢いの違いは歴然としていた。そもそもこの希慎広場は2006年に撤退した三越の跡地に建ったようだ。銅鑼湾には本土の禁書を集めた小さな書店「人民公社」もがんばっていて、近所には香港中央図書館も十数年前に開館している。銅鑼湾はショッピングの街というだけではなく、瞬く間に香港のインテリたちの御用達の街に進化したようだ。

 もう一つの発見は、香港の人たちはスマートフォンが大好き、ということ。地下鉄に乗ると、誰も彼もがスマホを取り出していたのだが、彼らの多くは、日本人のようにメールを打つのではなく、あれやこれやの動画やゲームを楽しんでいるようだった。香港の人たちの娯楽は、粤劇から映画、映画からテレビ、そしてスマホへと足早に移り変わっているようだが、おしゃべり好きであるのに変わりはなく、彼らにはメールはまどろっこしいのではないかと想像する。ちなみに、車内で電話でおしゃべりすることや音をだしてゲームをすることは必ずしもマナーに反するわけではないらしく、地下鉄の車内はいつもいたって賑やかであった。

 去年、大学の、一般の方向けの講座で「変貌を続ける都市、香港」というタイトルで話をする機会があった。たしかに香港は変貌を続けているのだが、その変貌を続ける姿そのものもいかにも香港的だと、改めて感じさせられる滞在であった。すばやく変わっていくにもかかわらず何が香港をいつも香港的にしているのか、今でも私にはよくわからない。例えば、あの九龍のとてつもないにぎわいは、どういう経済的・地理的・文化的な条件がそろってのことなのか、はっきりしたことはわからない。わからないのだが、今も昔も香港は、狭い道徳観や学問的な理論ではおさまりのつかない、過剰な何かが満ちた都市なのであって、それが訪れる者の心身をゆさぶるだろう、と今さらのように感じられた。

 写真は、香港映画のスターや監督たちの名前や手形が路上に彫ってある、星光大道(avenue of stars)から撮ったもの。初めて訪れたが、ここに、張艾嘉の手形がちゃんとあったのは小さな発見だった。台湾生まれの彼女は香港の映画人として認められているんだな、と。もちろん、張國榮の名前も記されていた。そういえば、彼が亡くなって、明日でちょうど10年だ。


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by kohkawata | 2013-03-31 20:28 | 香港の映画 | Comments(1)

『春光乍洩』、日本最終上映

 
 先々週、神戸の元町映画館で『春光乍洩』(邦題『ブエノスアイレス』)を観た。なんでも、日本での上映権が今年で切れるので、あえて上映したそうだ。日本最終上映らしい。

 蠱惑的なショットに満ちた、現代の古典と言ってよいこの映画を、私はこれまでに何度も観たが、今回劇場で観て、改めて感じた事を少し書き残しておきたい。

 この映画の見所は、やはり何と言っても、榮(ウィン)のダメ男ぶりだろう。いや、そもそも王家衛映画全体のなかでも最もの見所は、どちらも張国榮演じる、『阿飛正傳』(邦題『欲望の翼』)における旭仔とこの榮のダメ男ぶり、といえるかもしれない。

 例えば、輝(ファイ)に浪費を責められて、別の愛人の腕時計を盗んで金にすればいいと輝に渡しておきながら、その愛人に殴られると、腕時計を返してくれと臆面もなく言い出すあたり、どこかで遭遇したことのあるような気がする、あまりに生々しいダメ男ぶりに一瞬息を飲んで、そして目が離せなくなってしまう。張国榮は、ダメな男を演じるのがうますぎて、この俳優自身の素の姿であるに違いないと勝手に確信してしまう。

 そして、今回観て、かなり強く感じたのは、口唇的な飢えのシーンが執拗に繰り返されいてる、ということである。それらのシーンゆえに、榮のダメ男ぶりがいっそう迫ってくるように思われる。中国語圏の映画は全体的に食のシーンが多いのだが、『春光乍洩』はそうした一般的な傾向をはるかに凌駕している。榮も輝も、映画の最初から最後まで絶えずタバコを吸っており、酒量も多い。

 タバコと酒のシーンは、彼ら二人、とりわけ榮の精神的な弱さ、よるべなさの表現となっている。ベッドサイドにタバコの箱をたくさん並べるシーンが二度あるが、いずれも、相手との関係が悪化したときに、それを修復するおまじないのような儀式として行われている。また輝が泥酔するのは、いつも榮への不安と怒りが高まっている時である。タバコや酒に頼らなければ彼らはまともに息すらできないかのようだ。

 また、どうやら食事を作る能力がないらしい榮にとって輝とは、いわゆる愛人というだけではなく、ご飯を作ってくれる人でもある。その輝は、下宿で食事を作るだけではなく、アルバイト先も、バーの呼び込み、中華レストランの厨房での皿洗い、精肉業など、いずれも食に関わるものである。輝は、榮だけではなく、新しく知り合った小張のためにも、食事をつくってあげている。

 榮の輝への性的な愛着も口唇的に表現される傾向が強いのだが、こうした口唇的な餓えのシーンの異常な頻度は、素朴な解釈だが、母性的なものへの飢えを感じさせる。生活能力がかなり乏しいうえに、口唇的なさびしさも、怒りや虚言や裏切りさえも許してほしい、受け入れてほしい、と迫って来る榮のダメ男な態度は、幼児の母親への全面的な依存を思わせる。そんな榮にたいして輝は、食事を作ってあげるし、怪我を負った彼を抱きとめてあげるし、寝る場所も提供してあげるのだから、かなり母親的でもある。

 この映画には、母親的な人も含めて女性全体がほとんどまったく登場しないのだが、実は、 この映画の撮影過程を断片的に記録した『摂氏零度』 をみると、女性たちの登場するシーンはかなりの分量撮影されており、そのなかにはこの二人の男の怪我の治療をする中年女性の医師(一般的に言えば母性的な設定といえよう)もいたのだが、最終的にはほとんどすべてカットされたことがわかる。このカットされたシーンも何とも魅力的なものばかりで、もう一つの『春光乍洩』を夢想させられるが、しかし女性の登場するシーンを徹底して排除したことによって、母性的なものへの飢えをより深く表現できたのではないかと思われる。

 そう考えると、『春光乍洩』は、同性愛カップルの映画でありながら、母に捨てられた悲しみをひきずりながら破滅していく男の姿を描いた『阿飛正傳』をなぞったものだ、とも位置づけられる。いや、もしかしたらある種のタイプの男性同性愛とは、母をはじめとする女たちへの自覚できないほど深い失望に根ざした存在の様態なのかもしれない、とも一般化したくなってくる。榮にとって母性的な振る舞いもしていた輝は、榮が怪我から回復してまたしても裏切りを繰り返すようになると、この男はどうしても救いようがない、と見切りをつけて、とうとう榮を追い出してしまう。そこには人生の悲しい反復があるのかもしれない。

 そんなことを考えながら映画を観ていると、この映画のなかで、まるでハイライト・シーンであるかのような音楽とともに一見不思議な映され方をしているイグアスの滝とは、榮と輝にとっての「母」なのではないかと思えてきた。映画は冒頭近くで、この滝へと向かいながら迷子になってしまう二人のよるべのない姿を映し出している。そして最後近くで輝は一人でこの滝に辿り着いて、榮と一緒に来られなかったことを残念がる。母の欠如に苦しむ二人がはるばると目指すものが滝であるならば、その滝とは「母」なのではないだろうか。膨大な水が流れ込んでいるので、巨大な穴となった滝壺から逆に無尽蔵の水が飛沫となって溢れ出ているようにもみえるこの滝は、すべての生命の源であるようにも感じられる。

 そして映画は最後の最後に、台北の料理の屋台(またしても口唇的な職場だ)で忙しく働く小張の家族を映し出す。画面の中央にいて目立っているのは父親だが、母親らしき人もちらりと見える。屋台に貼ってあった小張の写真を輝がこっそり失敬するのは、小張が好きだからというだけではなく、小張への父母の愛を少し分けてほしかったからではないか、などと思われた。

 榮は自分が口唇的に飢えていることも母の欠落に苦しんでいることも自覚しているようには描かれていないし、輝さえもどうやらある程度無自覚であるようだ。王家衛自身はどうであるのか、どこまで意図的に撮っているのか、私にはよくわからない。しかし、この映画は、他の王家衛映画と同様に、計画性をかなり欠いて試行錯誤のなか撮られたようで、『摂氏零度』に映されたその時の王家衛の様子をみると、どちらかというと意図的でない部分が多いように思われるし、それは高い芸術性にとって必然的なことでもあろう。

 いずれにせよ、こうした口唇的な飢えという、ある意味でベタで原初的な飢えを、身体的な感覚として詩的に映像化できていて、その飢えの起源にまで象徴的に迫っているのだから、『春光乍洩』は、なんだかんだいってやっぱり、すばらしい映画なんだろうなと思った。
by kohkawata | 2012-05-08 13:26 | 香港の映画 | Comments(0)

許鞍華の新作『桃姐』

 
 先日、上海に数日滞在する機会があって、許鞍華(アン・ホイ)の新作『桃姐』を新天地の映画館で観た。

 許鞍華という巨匠はこの十年以上一度も失敗することなく、ずっといい映画を撮り続けているし、この新作も香港電影金像奨に多数ノミネートされるなど評判がよかったので、大いに期待していたのだが、それはたしかに裏切られなかった。

 映画は、桃姐と呼ばれる女性の晩年を描いている。戦争孤児であった彼女は若い頃からずっと香港のある一家のお手伝いとして暮らして来たのだが、一家はアメリカに移住。彼女が可愛がって育ててきた、ロジャーという名前の男だけは香港に残ったので、桃姐は彼と同居してずっと世話をしてきた。だが、ある日彼女は脳卒中のために倒れてしまう。体が不自由になってもうロジャーの役に立てないと悟った彼女は自ら老人ホームに入居することにする・・・

 この映画にはこれ以上劇的な展開があるわけではなく、老人ホームでの桃姐の生活を淡々と映し出すばかりである。こういうと希望のない暗い映画のようだが、そうはなっていないのがこの映画の一番いい所だろう。世間的には不幸せにみえる境遇であり、老人ホームの様子が生々しく映し出されたりするのだが、にもかかわらず映画は何とも不思議な幸福感に満たされている。

 ロジャーは、映画のプロデューサーとして多忙な生活であるにも関わらず、時間を見つけては老人ホームを訪れ、桃姐との時間を大切にしようとしている。この母息子のような、それでいて少し遠慮がちな二人が一緒にいるシーンが繰り返されるのだが、そのシーンがどれも何とも美しくてかわいらしい。写真は、上海の地下鉄の構内に貼ってあったポスターを映したものだが、その様子が伝わって来るだろうか。
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 元々許鞍華という映画作家は、自らの物語世界の表現に没頭していて、役者の個性を生かすことに長けた人ではなかったと思うが、『男人四十』(2002年)辺りから役者を活かす余裕のある撮りぶりになってきて、前作『得閒炒飯』(2010年)ではもう李安や王家衛さえもしのぎかねないような手練を見せていた。そして今回の『桃姐』は、主演の葉德嫻をはじめ出てくる役者たちがみなとてもいい味をだしていて、若くない役者ばかりなのに、そろってみな不思議なほどかわいらしいくみえる。ロジャー演じる劉徳華(アンディー・ラウ)は、表情に乏しい人で私はあまり好きではなかったのだが、この映画ではその表情の乏しさが、ロジャーという人の優しい人柄をよく表していて、とてもよかった。むろん許鞍華の映画は一筋縄ではいかず、ロジャーは優しいだけの人ではなく、かなり汚い仕事をしていることが示されたりするのだが。『ドリアン・ドリアン』(陳果、2000年)の主演で映画デビューした、ちょっと虚無的な目をしている秦海璐もうまく活かされていたように思う。

 このよく撮れた映画のテーマは何だろうかと考えると、幸せとは、とりわけ女性の幸せとはどのようなものなのか、といったベタなものだといえるだろうし、それを淡々とわかりやく描いていると思う。桃姐が幸せでありうるのは、抽象的に言うならば、彼女が恵まれなくても辛くても、それでも他者への愛情という自分の感情を裏切らずに生き続けてきたからだ、とされているように思われる。 彼女が老人ホームに決然と入居するのは、ロジャーへの、静かだが惜しみのない豊かなこの愛情ゆえなのだ。許鞍華という映画監督は難解とか芸術的と思われることもあったのかもしれないが、この映画はそんな幸せのテーマを誰にも分かりやすく描いている、しみじみと「いい映画」だと思う。だから、香港映画をあまり公開しなくなった日本でも劇場で公開されるといいなあと希望する。英語タイトルは、a simple life で、「桃姐」が与える日本語の語感より内容にふさわしいだろう。

 a0152719_1637183.jpg私は、許鞍華については、東アジアで最も創造的で生産的な映画作家の一人だと思って、彼女の映画について研究してきたのだが、研究対象の作家が現役で、なお素晴らしい新作を観ることができるというのは、書いたものがその度に古びて行くということでもあるが、それでもファンとしても研究者としてもたいへん幸せなことだと改めて感じた。こうした幸運をあと何回経験することができるだろうか。

 ちなみに右の写真には、その許鞍華についての文章を収めた拙著『愛の映画』を撮ったもの。近所のジュンク堂に入荷していたのをたまたま見つけたのだが、美女たちに囲まれて、しかもブルース・リーやジャッキー・チェンに見守られて、何だか幸せそうな本だ。あんなに辛くて苦しそうだった許鞍華も、長い時を経て、こんなにも幸福感に満ちた映画を撮れるようになったし、香港映画を研究してきて何だかよかったなあとお目出度い気持ちを抱いたのだった。


追記:この『桃姐』はその後、香港電影金像奨において最優秀作品賞、主演女優賞、主演男優賞など多くの賞を受賞した。香港電影金像奨の選定はわりと納得することが多いが、今回は格別そう感じた。そして期待通り、日本でも、『桃さんのしあわせ』というタイトルで、2012年10月以降、全国で順次劇場公開されるそうだ。許鞍華の映画が日本の劇場で一般公開されるのは、本当に久々。多くの人に観てほしいし、観て許鞍華に興味をもったら、拙著も読んでほしい・・・・2012年10月17日記
by kohkawata | 2012-03-29 16:48 | 香港の映画 | Comments(0)

『愛の映画』


 私の本『愛の映画 ― 香港からの贈りもの』が無事、出版された。

 この本の帯には次のような紹介の文章がある(編集者の方と相談して書いた文章です)。


表側:身体の深みに根ざす愛の記憶
   男女の性愛、父母との葛藤、男たちの情熱、女同士の友情、新しい生命へ
   の希望、亡くしたものへの追悼
   ・・・・香港映画の幻影のなかに、さまざまな愛がゆらめく

裏側:90年代からゼロ年代にかけて、返還前後の香港で撮られた魅惑的な映画群の中から、陳果(フルーツ・チャン)、張艾嘉(シルヴィア・チャン)、許鞍華(アン・ホイ)、關錦鵬(スタンリー・クワン)、張婉婷(メイベル・チャン)の5人の監督とその作品を取り上げ、愛をめぐる彼らの創造的挑戦を、香港の社会的状況等と重ねながら跡づけ分析する。


 この本のもとになる研究を構想しはじめたのは、もう10年ほど前になる。以来曲折を経ながらも、10年近くを費やした研究が一冊にまとまって、個人的にはいろいろな感慨が去来するが、ともかくも、この本に関しては、探求すべきことは探求し、書くべきことはほぼ書ききった、と思っている。そして、もしかすると一見難しそうに思われるかもしれないこの本には、その恥ずかしげもないタイトルが暗示するように、かなり強くシンプルなメッセージを込めたつもりである。

 とはいえ、長い時間をかけて懸命に調べて考えて書いたものの、何より伝えたい肝心のことはなかなか伝わらないものだ、というのは5年前に出版した前著『隠された国家』でも感じた(私も人の本をそんなにも読めていないのだろうか。もちろんいろいろな読み方があってよいのだが)。

 しかし、一方では、わずかな読者であってもそれなりに何かが伝わればそれで十分書いた甲斐があるとも思うし、きっと誰かにはちゃんと伝わるだろうと楽天的に想像してもいる。『隠された国家』のときも、たくさんの人というわけではなかったが、何人かの人にちゃんと読んでもらえたという印象を得て、とてもほっとしたものだった。それに、今回の『愛の映画』は、博論を書き直した前著よりは読みやすいだろうし、たっぷりと手間と愛情を注ぎ込んだ研究であり本である。

 出版元は、大隅書店というできたばかりの新しい書店。書店主の大隅直人さんをはじめ、本作りのプロのみなさまのお力によって、とても美しく楽しいたたずまいの本になったと思う。

 といった感じで、本の出来映えにかなり自己満足しているのだが、まったく読まれなくては意味がないし、売れなくて、良識的な本の出版を志す大隅書店さんに迷惑をかける、という事態になることも恐れてもいる。

 このブログを読んでいただいているみなさま、よかったらご購入ください。
by kohkawata | 2011-10-24 16:55 | 香港の映画 | Comments(0)

岸西の『月満軒尼詩』

a0152719_2231672.jpg 香港の映画監督、岸西(Ivy Ho)の新作『月満軒尼詩』(Crossing Hennessy、2010年)をDVDで見た。

「パラサイト・シングル」の中年男性が、息子に早く結婚してほしいと願う母親のみつくろってきた、知人の姪にあたる若い女性を紹介されて、気乗りがしないままつきあいだすが、その女性はワケありで・・・といった話。

楽しげなDVDのケースの様子からしても、この二人のコメディー的なラブ・ストーリーなのかと思って気安く見始めた。しかし、たしかにある種のラブ・ストーリーではあるものの、コメディーではほとんどなく、張學友演じる阿来という名前の男と湯唯演じる愛蓮という名前の女が、特別惹かれあうわけでもさして反発しあうわけでもなく、ときどき喫茶店で話をする程度で、劇的な展開はまったくなく、不思議なほど盛り上がらない地味な映画であった。

 地味なのは、主演の張學友に若々しさがないためでもあるだろう。張學友はとてもいい役者だと思うけど、いろいろ経験してきてとうに自立した大人の男といった感じで、甘えたパラサイト・シングルにどうしてもみえない。金城武ならはまり役であったのではないかと思いつく。

 けれども、この映画にはいいなと思わされたところがたくさんあった。何よりも、一人ひとりの人間の描写がいい。登場人物たちの全員がどこにでもいそうな凡人なのだが、その凡人の平凡な日常の一コマ一コマを素直に淡々と描いている。

 例えばこんなシーン。本土出身の愛蓮はおじ・おばにあたる夫婦を頼って香港にやってきたのだが、ヤクザな彼氏とまだつきあっていることをおじに遠慮がちながら咎められ、阿来を紹介したときの飲茶の代金のことまでもちだされる。侮辱されたと感じて怒った彼女は店を飛び出して、大股で通り(タイトルの所以になっている軒尼詩街か)を横切っていく。しばらくすると、歩道橋の上で、思いつめた顔をした彼女は一人で静かに悔し泣きをする。次のカットでは、ぼんやり脱力して街頭のベンチに腰掛けている。

 この映画はこうした感情のちょっとした起伏を、香港の繁華な街の様子を背景にして、丁寧に積み重ねている。

 また脇筋としてでてくる、阿来と昔の恋人との復縁譚もなかなかいい。彼女はカメラマンとして活躍する有能で魅力的な女性で、阿来を捨てて他の男と結婚したのだが、夫の浮気ゆえに離婚し、再び阿来に近づいてくる。阿来は、そんななりゆきに戸惑いつつも、またつきあいだす。だが、あいかわらず彼女は多忙で、しかもときどきみせるよそよそしい態度に阿来は悲しみを感じる。対照的に愛蓮は、やくざな男に振り回されて傷ついているだけでとくに魅力的でもないのだが、こんな地味な娘の方が自分のような小さな男にはふさわしいのかもしれない、と阿来は感じる。

 他にも、阿来の母親(『天水圍的日與夜』の鮑起静が演じていて、とても上手)の再婚話などが織り込まれており、こちらもおもしろい。

 とはいえ、全体としてはやはり、いまどきありえないほど地味な映画。よくこんな映画に出資するスポンサーがあったと関心させられる。主演の湯唯に新しい女神として期待したということだろうか。たしかに、『ラスト、コーション』(李安監督、2007年)でデビューしながら本土では干されて香港の居住権をえたらしい湯唯はこの映画ではなかなか魅力的である。ひどい厚化粧にされたりして監督に遊ばれているのも楽しい。それでも彼女はどちらかといえば地味な女優で、いずれにせよ、日本やアメリカでは到底通らない企画であろう。しかもこの監督には、監督としてのデビュー作であった前作『親密』(2008年)という、やはりごく地味な映画 ― 妻子ある男への愛着に苦しむ女の話 ― を撮ったという「実績」すらある。にもかかわらずこの映画が撮られたということに香港映画界の底力を感じる。

 岸西は、『ラブソング』(原題『甜蜜蜜』、監督:陳可辛、1996年)や『男人四十』(監督:許鞍華、2001年)の脚本家として知られている人だが、前作の監督作品『親密』とあわせて考えてみれば、様々な感情の動きのなかでも、親密なはずの二人が別れていく気持ちを中心的なテーマにしている映画作家であるようだ。『ラブソング』も主筋はたしかにわりとハッピーなラブ・ストーリーのようにみえるが、印象的なのはむしろ、主人公小軍が故郷で待っている婚約者を捨てるエピソードであったり、もう一人の主人公李翘が小軍と別れて別の男とともに香港を離れていくシーンなどであろう。

 『月満軒尼詩』 ― それにしても楽しいタイトル ― は、今回の香港金像奨に多数の部門でノミネートされているらしいし、岸西は、いかに地味とはいえ、まだ映画を撮る機会があたえられるだろう。だが、今回の作品も前作『親密』も、役者たちは物語の繊細さにあわせることができていないようにみえた。次回は、彼女の映画にふさわしい役者を得て撮ってほしいものだ。
by kohkawata | 2011-02-21 22:55 | 香港の映画 | Comments(0)

弟子のドキュメンタリー、師匠のフィクション


 『KJ 音楽人生』(張経緯監督、原題『音楽人生』、2009年、香港)を観た。監督は、許鞍華(アン・ホイ)の弟子にあたる人で、これが長編映画としてはデビュー作で、ドキュメンタリーである。日本ではこの3月の大阪アジアン映画祭で初上映。

 主人公は黄家正という香港の音楽家。映画は、彼がわずか11才でチェコでピアニストとして演奏したころの姿と、17才で音楽学校のリーダー的な生徒として奮闘する現在の姿とを交互に映し出しながら、彼の身の回りの人たちへのインタビューも交えて、この多感で明敏な若い音楽家の姿を立体的に映し出している。とりわけ上手に撮られているなと思うのは、この人が、本人が自負するように音楽家として本当に天才なのか、それとも早熟ではあったが今や情緒不安定な凡人にすぎないのか、どちらなのか最後までわからなくて、観る者をひやひやさせる、というところだろう。「音楽家である前に、すばらしい人間でなければならない」と彼は事ある毎に言うのだが、自分が指揮をしているオーケストラのメンバーたちをいらいらと叱責する彼の態度にはかなり未熟なものがあり、この人はこれから大丈夫なのかなあと心配させる。

 彼を音楽へと駆り立ててきたものは何だろうか。映画は、まず、情熱的に彼にピアノを教えた中年女性の先生の姿を映す。クリスチャンでもある彼女は音楽とは神への賛美だと信じて全身体的に彼にピアノと人生を教え込もうとしたようで、神を信じない黄家正は先生にアンビバレントな感情を抱いたりしながらも、今では師であったこの女性に深く感謝をし愛着も感じているようだ。だが、やはり音楽をしている家正の兄は、弟はピアノをはじめてから情緒が不安定になった、と言う。映画は、家正の父親の姿も映す。医師を本職とする彼は相当な音楽マニアであり、自分の三人の子どもに音楽をやらせ、とくに才能のある家正にはつきっきりに近い様子で支え続け、本人の意思に反してでもコンサートに出演させることなどもしたようだ。家正の母は、家正が十代半ばころに父と離婚したらしく、映画には登場せず、どんな人であったのかわからない。

 この映画を観て、人を育てるというのはつくづく難しいことだ、と当たり前のことを思った。映画から察するに、この音楽家を育てたのは、先生のほかには、とりわけ父親の並はずれた情熱があったのだろうと思われる。父(と先生)のおかげで、家正は代え難い数々の経験をし、卓越した音楽家になる可能性を得たのではあるが、一方で、彼の人生は、父親(と先生)の止みがたい激しい情熱に巻き込まれて取り返しがつかなくなってしまったのかもしれないとも思える。「魅力のある人だけが人を変えることができるんだ」と家正は言っている。それはまったく正しいと思うが、他人の情熱と自分の情熱を混同してはならないだろう・・・などといったことを考えさせる映画であった。

 また、ちょっと関心したのは、家正のような、日本人からみれば傲慢極まるようにみえる若者を周りの人たちがそれなりに寛容に受け入れているようだ、ということである。父親も師匠も彼の傲慢さをくじくような言動はしておらず、むしろ鼓吹し続けている。兄や妹や友人たちも、時に鼻白みながらも、結局はこの若者に寛容である。音楽家としての能力に劣る兄は、弟と父とに反発ばかりしているわけではなく、「弟も、父も、今の自分に満足していないんだ」と冷静な理解を示す。ぶつかりあいながらも受け入れあっているあたりに、家正という天才(かもしれない人物)を育ててきた周囲の人たちの懐の深さが示されているように思われる。

 本筋とは関係ないが、もう一つ興味深く思ったのは、家正の通っている拔萃男書院というという学校のことである。音楽の発表会にむけて学校全体で盛り上がっていく様子であるとか、家正を含めて生徒たちの会話の節々に英語が出てくることとか、発表会後路上で騒ぎながら、’We are the best! Best of the best!’ などと叫んでいる様子は、私の好きな『玻璃之城』(張婉婷監督、1998年)という映画で描かれた香港大学の様子によく似ていて(この映画でも主人公は、‘We are the best’と言っている)、この辺の雰囲気は香港のエリート校の特徴なのかなと思った。調べてみると、拔萃男書院は、英語によって教育をするキリスト教(英国国教会)系の学校で、創設は1869年にまで遡るという。この学校をはじめ家正を取り囲む上層階級的な雰囲気には、かつて英国の植民地であった香港社会の一面が残っていることが想像される。

 この監督の師匠である許鞍華の、今のところの最新作『天水圍的夜與霧』(2009年)も少し前にみた。私は、許鞍華の日本における唯一の専門家を(一応)自任しているので ― というのは、彼女の映画についての日本語によるある程度まとまった文章は、1993 年の四方田犬彦『電影風雲』(平凡社)以外には、私の論文しかないからである・・・「憤怒・和解・自由 ― 許鞍華の映画について ― 」(上)(下)という論文なのですが、よかったらここここ(ともにPDF)で読んでください ― 、この映画についても機会があれば詳しく論じたいと思うが、とにかく優れた映画で、弟子の『音楽人生』の静かでスマートな撮りぶりとは対照的に、これは妻と娘を惨殺するにいたる男の狂気を描いた、激しい映画である。

 外面(そとづら)のいい中年の男が、どのような経緯で結婚し、どのようにして妻に深い不安と強い憎悪とをぶつけ、妻を支配するようになり殺害にまでいたるのか、を克明に真正面から描いている。そこに浮かび上がってくる姿は、日本でも90年代くらいから注目されるようになったDV(Domestic Violence)という現象の加害者として語られる男性の一般的なイメージとかなり重なるものがあり、許鞍華は間違いなくDVについてリサーチし、それを映画に取り入れたのだと思われる。その上で許鞍華にしてはわかりやすい撮りぶりで、どこにでもいそうな平凡で小心にもみえる男のリアルな心情と行動こそが、ホラー映画なんかに出てくる怪物たちよりもずっと恐ろしいものなのだということを映し出している。被害者となる妻の愚かしさも痛ましい。一般の映画ファンはもちろん、映画評論家のような玄人筋の人たちも好むような映画ではないので、前作『天水圍的日與夜』(2008年)ほどには評価されないだろうが、しかしそれでもさすがに許鞍華と思わせる、優れた、怖い映画だと思う。
by kohkawata | 2010-03-14 11:47 | 香港の映画 | Comments(0)