カテゴリ:香港の文化( 3 )

返還後の香港についての本


 香港についてのすぐれた新刊書を読んだ。倉田徹『中国返還後の香港』(名古屋大学出版会、2009年)である。返還後の香港について、主に「中央政府」(中華人民共和国政府)との政治的関係を中心にして詳細に分析したもの。

 まず、中央政府が返還後の「一国二制度」という枠組みのなかで、どうやってどの程度香港の政治エリートたちを統制してきたのかが分析されている(第1章)。次に、「民主化」という言葉によって示され目標とされる政治体制の意味が返還前と返還後では異なってきており、市民の政治参加による政権交代の可能性を制度的に保障するような、普通の、欧米的なdemocracyでは必ずしもなく、より中央政府よりのもの、つまり共産党による一党独裁と両立するような特殊な「民主」となってきていることが示される(第2章)。とはいえ、中央政府が香港政府をかなり強力に統制しつつも、各種メディアをはじめとする「香港社会」にたいしてはほとんど放任・不干渉を続けている。その理由は、香港社会に干渉し統制する力が中央政府には法的にも実質的にもないことにもよるし、また、香港から大陸への政治的な悪影響という中央政府が最も懸念することについては、大陸と香港との間の「疑似国境」ゆえにかなりの程度コントロールできることにもよる、とされる(第3章)。そして、中央と香港とは「統合か自治か」をめぐって対立関係にあるのでは必ずしもなく、とりわけ経済的な安定と繁栄ということに関しては、中央政府も香港側も共通の目標としてきたこと、そして今後もその共通の目標をもちながら両者の関係が推移していくことを予想している(第4章)。最後の章では、かねて広く研究されてきた「香港人アイデンティティー」の問題をふまえながら、2004年に中央政府側から香港にたいしてしかけられた「愛国者論争」の分析を通じて、「香港人アイデンティティー」が、大陸の悪いイメージと対立するなかで形成されたものから、大陸における愛国とは異なるが両立可能な、地元愛としての香港人意識として、党派を分かたずに共有されるようになったと分析している(第5章)。

 どの章の分析もかなり精密なものであり、信頼できるものだと思う。

 振り返ってみれば、返還前後には香港の運命については日本でもずいぶん話題になったが、実際に返還されてからどうなったのかということについて、簡単な紹介程度の記事はあったが、しかし、きちんと詳しくフォローした日本語による文章は、私の知る限りまったくなかったと思う。いや、そもそも香港についてのこのようにしっかりとした学術書は日本ではたいへん希少なものであり、返還後の香港を語るうえで(少なくとも日本では)必読の文献であることに間違いはないだろう。

 私がとくに興味深く思ったのは、「北京」が香港を統制する具体的な手段である。そもそも、香港のミニ憲法である「香港特別行政区基本法」の解釈権と改正権は、香港側にはなく、中央政府がもっている。香港の行政上のトップである行政長官の人事権も、本書によれば、かなりの程度実質的な権限を中央政府が握っている。そのような公的・法的な手段によっても中央は香港をかなり強力に統制しているのであるが、同時に非公式なルートによっても統制しようとしてきた。例えば、本書は、激しい政府批判を行うことで知られるあるラジオ番組にたいして中央政府が圧力をかけた2004年の事件を取り上げている。この番組の出演者である李鵬飛という有力政治家の発言が共産党系の新聞で批判され、中国側の関係者や香港の政財界の巨頭が次々と李に面会を求めてきて、さらにある日、元中国政府官員を名乗る陳なる男から電話があり、妻や娘について言及された上で、久しぶりに会わないか、番組について議論したい、と言われ、李はほとんどまったくつきあいのなかったこの知人の言動を脅迫と受け取り、番組を降りることにしたのだ、という。

 中国共産党という権力集団の特異さの一つは、このような非公式的な手段、つまりは法的な規制からかなりの程度自由な手段をも組み入れた、豊富なリソースの動員による権力の集中的・重層的な発動を国内において行うことができる、ということにあるといえるだろう。文革期に大混乱しつつも頂点に達したそのような強力で特殊な権力行使のありようは、驚くべきことだと思うが、半世紀近くたった今でも中国共産党において一つの強固な政治文化として脈々と受け継がれていることが本書の記述からもわかる。もう少し具体的にいえば、「中央」の(時に非公式な)意志を体現し手足となって活動する人たちが中国社会のあらゆるセクターに相当数いる、ということだ。そして彼らは、退くべき時にはさっと妥協し退いて何事もなかったかのように次の一手にでる、というたいへんしたたかな権力集団なのだ・・・などという中国共産党の一般論は本書に書いてあることではなくわたしの憶測だが、しかし本書は、このように、香港の政治的状況だけではなく、中国共産党政府というもはや世界最大・最強といってよりレベルにまで達した集団にたいする理解をもうながすものだと思う。

 もっとも、この本の著者は東大で鍛えられた複眼的な政治学者であり、こうした国家・政府・党の強権を過大視することなく、むしろそれがいつも限界をもっていることに目配りしている。中央政府は香港政府をかなりの程度コントロールできても、反権力的なジャーナリズムをはじめとする「香港社会」にたいしては、若干の統制を試みてもすぐ手をひっこめて、結局は返還後一貫して放任してきた、ということを強調している。李鴻飛の事件にしても、中央側の動きは決して一枚岩ではない。むしろ、中央政府は、香港が安定し繁栄するという目標を香港政府とも香港の市民とも共有しているのであり、結局のところ、中央と香港との関係は、返還前に憂慮されていたこととは異なって、良好なものになっているのだ、という。

 私も香港にはずっと注目してきたつもりで、著者のこうした分析は基本的に正しいと思う。けれども、中央政府の統制に限界があるという当然のことは認めたうえで、香港という場所の特異性を考えるうえで重要なのは、香港がそれでもやはり中央政府の、あるいは大陸という巨大な場所からの大きな脅威のなかにある、ということだと思う。正確にいうならば、香港は、最も基本的な生存のための構造的な条件 ― ミニ憲法の改正権、行政長官の人事権、外交権、軍事力の行使、水や食糧の供給、 ― を中央政府ないし「本土」にほとんど完全におさえられ依存しながら、なおかつ市民の日常的な生活のレベルにおいては、植民地時代から今日なお継続する、政府によるかなり大胆なレッセフェール的な政策のなかで、かなりの程度の豊かな自由 ― 経済活動、言論活動、教育のいずれにおいても先進国並み、あるいはそれ以上の水準にある ― を享受している、という状況である。政治的権力的な脅威の大きさ ― その脅威とは基本的構造に基づきながら、しかし多分に心理的なものである ― と、市民社会の経済的・文化的な豊かさ、このようなギャップの両面を理解することにこそ、ここ半世紀近く続いてきた香港的とでもいうべき社会・文化状況の特質を理解する鍵があるのではないか・・・といったことを私は思うのだが、どうだろうか。
by kohkawata | 2010-03-05 22:02 | 香港の文化 | Comments(0)

広東語の学び方


 前回書いたように、広東語はマイナーな言語であり、それにふさわしく、広東語を学ぶための教材はどの言語圏においてもあまり充実していないようである。そのなかにあって、日本語による広東語教材はそれでもかなりそろっている方であろう。

 もちろん、外国語を学ぶためには現地で暮らすのがいちばんいい。よほど例外的な才能 ― 特別に記憶力がいい、勤勉である、音感が優れているなど ― があるのなら別だが(私はないけど)、現地に住むことが、外国語を自分のものにするための、ほとんど絶対的な必要条件であり、またかなりの程度十分条件ですらあるように思う。言語とは元来、「あいつの言うことをどうしても理解したい」「あいつにどうして伝えたいことがある」といった具体的で切実な状況のなかで持続的に使用することによって自分のものとなっていくものであり、それは具体的な人間関係のなかでしか生じ得ない状況である。だから、現地で暮らし現地の人と関わる必要がある。

 しかし、現地で暮らす機会が得られないことも多いし、ロンドンで神経症に陥った漱石を持ち出すまでもなく、それと自覚しなくても深く結びついている対人関係や文化全体から遠く離れて外国で暮らすことにはそれなりの危険もある。

 そこで、ここでは日本で広東語をどう学ぶかということを書こう。私も短期間しか広東語圏に滞在したことがなく、日本で広東語を学んできた。

 まず「普通話」(=中国語の共通語)を学ぶのが得策である。なぜなら、普通話の教材・学習環境は日本ではかなり充実してきており、国内での学習でもかなりのレベルにまで達することが可能だからだ(ちなみに私がはじめて中国語にふれた1990年ころは、普通話の学習環境は今日の広東語のそれに近く、辞書も使いにくかった)。普通話と広東語では発音はまるで違うが、その他の面はよく似ており、とくに書き言葉のレベルではさほど違いがないとさえいえる。普通話を身につけていれば、あとは広東語特有の言い回しや漢字を若干覚えるだけで、広東語を「読む」「書く」ことはかなり容易になる。先に普通話を学ばなければいけないとはずいぶん遠回りではあるが、日本人であえて広東語を学びたいという人はすでに普通話をある程度学んでいる人が多いだろう(なお、普通話を学ぶのであるなら、ネイティブに教えてもらうことはもちろん大切だが、おすすめの自習用教材として、人気のある相原茂氏の多数の教材のほかに、長谷川正時氏が流行の「シャドウイング」の方法を採用してつくった一連のものがある)。

 普通話を学んでいるにせよ学んでいないにせよ、広東語を学ぶうえで最初の、そして最大の難関は発音であり、とりわけ「声調」とよばれるものの習得である。声調とは、一音節内の音程の高低のことであり、広東語には、数え方によって違うのだが、6つないし9つの声調がある。どんな言語にも声調(のような音程の高低)はあるのだが、中国語では一つの語に一つの音節が対応しており、さらにそれに一つの声調が明確に対応しており(逆に、例えば日本語であれば、語の声調は前後の語との関連でどんどん変化していく傾向が強い)、この声調を正確に聞き取り発音することが、他の言語以上に求められる。普通話でも4つある声調の習得は大事なのだが、広東語ではこの数が多いので、とくにやっかいなのである。

 教材についているCDを聴くだけである程度習得できる人もいるかもしれないが、普通はやはりネイティブ・スピーカーに教えてもらうのがいいだろう。ただ問題として、近所でネイティブの人を捕まえるのは、普通話に比べて日本ではずいぶん難しいだろうということがある。大都市圏には広東語教室がいくつかあるようだ。私が通ったことがあるのは、大阪のアジア図書館 ― 中国系の方言だけでなく、ウィグル語やベンガル語といった日本人にとっては馴染みの薄い言語も教えてくれる貴重な場所である ― というところの広東語教室である。香港出身の、日本人ではあまりみかけないタイプの、からっと気さくな先生だった。ネット上だと「中文広場」という所で中国語の家庭教師をみつけることができるが、たまに「広東語も教えられます」という人がいる。もっとも、前回書いたように広東語が「国家言語」ではないということもあって、ネイティブの人たちの多くは広東語の発音表記法を知らない、という難点がある。発音表記なしで声調を含めた発音を学ぶのは非常に難しいので、ネイティブと一緒に発音表記法を理解していかなければならない場合があるかもしれない。これは結構やっかいなことである。

 だが、声調という最大の難所を超えれば、あとは平坦になる。声調以外の発音は、英語よりはやさしいと思う。文法も、普通話を学んでいればほとんど問題にならないだろう。あとは、広東語特有の言い回しを学び、語彙を増やしていけばいい。その段階ではネイティブの先生がいなくても、自習である程度はやっていけるだろう。とはいえ、この平坦な道は、長い長い道である。ただ、普通話の習得とかぶる部分がかなりあるだろう。

 自習するためにはどの辞書・教材がよいか。前回書いたように、広東語は標準化されていないので、「正しい広東語」なるものがなく、それぞれの辞書や教材は、それと明示することなく、あるいは明示して、特定の広東語に偏っていることになる。また英語や普通話の教材と比べると、著者の個人的な好みが色濃く反映されているようにみえるものが多いので注意が必要である。それはそれでおもしろかったりするが。

 広東語-日本語の辞書は、『東方広東語辞典』(千島英一編著、東方書店、2005年)がある。他にも小さいものや古いものはあるが、これがもっとも使いやすいと思う。逆に、これがなかった時はいったいどうしていたのか、と不思議である。日本語-広東語の辞書としては、『日本語広東語辞典』(孔碧儀・施仲謀編集、東方書店、2001年)がある。これは小さいがかなりよい辞典だと思う。香港的な広東語といっていいだろう。

 教材としては、私がいいと思うのは、『広東語入門教材 香港粤語[発音]』(2001年)など、吉川雅之氏が白帝社から出している一連のものである。これははっきりと香港の広東語の教材と位置づけており、香港出身の留学生にきいたところ、この教材の広東語は、香港の若者たちの自然でラフなことばが中心になっているらしく、「なんかなつかしいなあ!」とさえ言っていた。私が実際に学習用として使用したのは、このなかの『広東語中級教材 香港粤語[応用会話]』(2003年)で、解説が的確で、スキットも楽しく、確かによいものであった。発音表記は、世界的には最も流通しているイェール式と香港で開発された「常用字広州話読音表」を併記しており、親切である。ただし、東大生に広東語を教えている吉川氏によるこの一連の教材は、全体に詳しくすぎるし分厚すぎるし理屈っぽくて、かえって使いにくいという声もきく。本気でしっかり学びたい人にはいいシリーズだと思う。

 逆に、頼玉華『日本人のための広東語』シリーズは、説明は簡素だが、実際に学んでいくプロセスを上手におさえた現実的な教材であると思う。これは香港に滞在する日本人向けに現地で出版されたもので、版を重ねて、現在は香港の「青木出版印刷公司」から出ている。昔は旭屋書店が扱っていたが、今は国内では手に入りにくいようだ。3年ほど前に香港に行ったときには、銅羅湾のSOGOの旭屋書店と中環の三聯書店の書架には並んでいた。手に入るのであれば、多くの人にとってこの頼玉華氏のシリーズがベストかと思う。ただし20年以上前に初版の出たこの本は、内容がいくらか古くさく、発音記号はわかりやすいが、独自のものを採用している。

 他には、陳敏儀『ゼロから話せる広東語』(三修社、2004年)がある。説明はたいへん簡略だが、自然な香港的な広東語であるようで、最初の1冊としてはいいと思う。辻信久『教養のための広東語』(大修館書店、1992年)という、薄いが洗練された入門書もある。しかし、もう新刊本屋にはない。最近のものでは張淑儀・上神忠彦『身につく広東語講座』(東方書店、2010年)がある。ぺらぺらとめくってみただけだが、少し硬い真面目な表現に偏っているものの、全体に説明がしっかりしており、分量も少なすぎず、今なら簡単に手に入るので、現実的にはこのテキストがいいのかもしれない。

 以上は主要な入門書だが、その次にくるべき中級の教材はもっと少なくなる。先にふれた『広東語中級教材 香港粤語[応用会話]』が入手しやすいが、他には頼玉華氏のシリーズには中級者向けのものもある。香港の青木出版印刷公司は、必ずしも日本人向けではないが、いくつかの広東語教材を出版しているようで、そのなかには中級者向けのものもあるようだ。

 あるいは、香港映画を教材として活用するのも一つの方法であろう。陳敏儀『香港電影的広東語』(キネマ旬報社、1995年)は、ジャッキー・チェン(成龍)やウォン・カーウァイ(王家衛)らの全盛期の香港映画のいくつかのシーンを抜き出して、そのセリフを題材にした本。香港映画が好きな人には楽しく役立つだろう。広東語では、文末につける語気を示す音によってかなりいろいろな感情・ニュアンスを表現することに特徴があるのだが(この点で日本語によく似ている)、それは人工的なスキットよりも映画の一シーンで学ぶ方がピンとくることが多いように思う。

 自分で好きな香港映画を選んで教材とするのもよいだろう。ただし、香港映画では、ほとんどの場合役者たちは広東語をしゃべっているが、DVDなどの字幕は、中文のものはあっても、意外なことに、原則として広東語の字幕はない。しかし、神戸にある「香港王」という香港グッズのショップの店員さんによれば、一昔前の一部の会社のものに限られるが、広東語字幕があるDVDもあるそうだ。例えば『亜娜瑪徳蓮娜』(1998年、邦題『アンナ・マデリーナ』)には広東語字幕がある(ヴァージョンによっては広東語字幕がないかもしれないが)。この映画はかなりの俗語を含めた日常的な会話が多く、しかも金城武と陳慧琳というこの時代の中国語圏を代表する美男美女が主演している映画なので、楽しめるかもしれない。ちなみに、香港映画のDVDを入手するには、yesasia.com というサイトがもっとも便利である。

 どのレベルを目指すかにもよるが、いわゆる「学習」というスタイルでいけるのはこの辺までだろう。この辺でも、香港映画を楽しんだり、観光旅行をする程度であれば、かなりの程度役立つだろう。たいていの日本人はそれでよいかもしれない。さらにステップアップしたいなら、あとは、それぞれの必要に応じて、i-tuneを活用する(現段階でも、i-tuneやネットによって、ニュースをはじめとして、かなりの広東語音源を拾うことができる)など各自工夫しながら長い道をとぼとぼ歩くしかないかと思う。英語やフランス語よりも、普通話や広東語には、日常的なレベルでも使われる語彙が多いせいか(そういう気がするのだが)、この「とぼとぼ」感が強いように思う。

 こんな感じでとぼとぼ歩いていると、「生は限りがあるが、知は限りがない」という荘子の警告が時々頭をかすめる。しかしまあ、とにかく、後から歩いてくる若い人の目印にでもなればいいかもしれないと思って書いてみた。

 最後にもう一言。日本において広東語を専門とする研究者・教育者の方々はそんなに多くないかと思うが、今後の課題として発音表記法を統一するということは、やはりあってよいのではないだろうか。個人的には、イェール式がよいと思う。英語圏をはじめ広く使われているし、声調の表記においてぱっと頭に入りやすく(数字を使ってないのが一つの理由だろう)、発音の表記も分かりやすいように思う。発音の表記が分かりやすいのは、それが英語的だからだろうか、あるいは単に私が最初にふれたのがイェール式だったので、そう思うのかもしれない。
by kohkawata | 2010-02-24 00:28 | 香港の文化 | Comments(4)

広東語のおかしみ



 5、6年ほど前から広東語を少しずつ勉強してきてきた。

 勉強し始めてすぐにわかったのは、「メジャーな言語」と「マイナーな言語」とでは、言語としてのありように根本的な違いがある、ということである。広東語はむろんマイナーな言語であり、私にとっては初めてのマイナーな言語であった。

 これまでに私は英語、中国語(普通話)、フランス語などを勉強したことがあるが、それらはいずれもメジャーな言語である。ここでいう「メジャーな言語」とは、言語としての標準化がしっかりと行われているということであり、標準化されているとは、「正しい」言語がかなりの程度意図的・人工的に設定・整備されている、ということである。具体的には、正しい文法、正しい表記法、正しい発音・発声、正しい文章作法などが存在している(と話者たちが漠然と信じているような状態がある)ということであり、またその背景には、かなりの程度画一化された言語教育をはじめとした国家的な言語政策がある、ということもいえるだろう。

 広東語は、母語として5000万人ほどの使用者がいると言われており、その数からいえばそれなりにメジャーとも言えようが、しかしそのような標準化がほとんどなされておらず、その意味で「マイナーな言語」であるといえる。とりわけ目立つのは文字表記のレベルであり、広東語のなかには文字(漢字)に対応していないことばがあるし、対応していても当て字的なものが多く、地域や使用者によって異なっていたりする。例えば、複数であること(あるいは「もっと」の意味)を意味する、発音記号でいえば di などと表記されうることばにたいしては、「的」の左に小さく「口」をそえた広東語に独自の漢字によって表記するのがわりと一般的だが(広東語では、こうした口偏をそえることによって造語された漢字によって当て字的に表記することが多い)、香港の使用者によってはローマ字の「D」で表記したりすることがある。例えば「もっとたくさん」を意味することばが「多D」などと表記される。そんな表記は正しくない、とは誰も断言できないという状況が、言語の標準化がなされていない、ということなのである。

 外国語として広東語を学ぶ者がもっと困惑するのは、標準化された発音表記法が存在しない、ということである。日本人にとって広東語の難しさはとくにその発音にあり、発音記号なしには広東語の学習はほとんど不可能であるので、研究者や教育・研究機関がそれぞれに工夫して発音表記法を開発している。主なものだけでも、イェール式、常用字広州話読音表、千島式、あるいはライ式などがあり、日本でもそれらの発音表記法が併存している。しかも、日本で出版されている広東語のテキストや辞書はそれぞれに独自の工夫を追加していたりするので、結果として、著者の数だけ発音表記法がある、とさえいえるような状況である。これはもちろん、学ぶ者にとってたいへん不便なことである。

 不便だというだけではない。標準化されていないということは、言語のありかた自体に深く関わっている。すなわち、広東語が標準化されていないということは、「正しい広東語」なるものが存在せず、ただ地域や話者によって異なる広東語がばらばらに存在している、ということでもある。その結果、これはまた不便だという話にもなるが、学習者はどの広東語を学べばいいのか、わからなくなってしまう。広東語のテキストだとか広東語の辞典などと称していても、実際にはある特定の地域の、ある種の広東語 ― より口語的であったり、よりかしこまったりしている広東語など ― に偏っていることになる。それゆえ、例えば日本で出版されている広東語のテキストをみて、香港出身の人が「こんな広東語の表現は聞いたことがない」と驚くということがあったりするし、広東・広西の人にとっては英語由来の言葉がよくまざる香港の広東語はかなりおかしな広東語に聞こえるだろう。例えば、香港では生徒・学生が先生を呼びかけるときに(あるいは一般の人が警官をよびかけるときなどに)、 a sir と普通に言う。 a は阿などと表記する、敬意ないし親しみをあらわす広東語の接頭語で、 sir は英語由来の敬称で、これに対応する漢字はないようである。

 広東語が、話者が多いにも関わらず他の中国語方言と同様に標準化されていないのは、広東語がこれまで「国家の言語」になったことがないためであろう。歴史学や社会言語学などがしつこく跡付けてきたように、国民国家的な国家はその最初期の事業の一つとして国民全体が共有できる共通語をある程度人工的に作り出し、教育やマスメディアを通して言語の統一化を図ろうとした。それは多少の時間はかかるが、基本的に成功してきたのであり、結果として大多数の国民は共通語と方言との二重言語体制のなかを生きることになる。広東語もまた、例えば日本における関西弁と同様に、そういう共通語として採用されたことはなく、方言であり続けた。

 もっとも、広東語の位置づけは、日本の方言などとは多少異なる。広東語の話者の多くは、近代以降も共通語(=普通話)がしゃべれず広東語しかしゃべれない人が多かったようである。本土の広東語使用圏でも香港でも学校での「国語」の授業は広東語読みで行われてきたらしい。それゆえに広東語は、共通語によって公共性を大きく奪われた日本の方言などよりは、より公式的な場でも使用されるような、ある種の公共性・社会性をもより強くもつ方言であるということもいえる。例えば、広東のテレビ局のアナウンサーはやはり広東語(的なあらたまったことば)をしゃべるらしい。こうしたことが起きる背景には、発音のレベルでは、普通話と広東語の距離が日本での共通語と方言との距離などよりも大きいということ、しかも書き言葉のレベルではさほど違いがない、という特殊な言語的状況があるのだと思われる。

 香港においては、やや事情が異なる。返還前は、しゃべることばのレベルでは、英語と広東語の二重言語体制的な状況であったが、誰もが英語をしゃべれるわけではなく、広東語しかしゃべれない人も多かったし、今もそうである。他方、書き言葉のレベルでは、英語と並んで「中文」が返還前も返還後も公用語であるが、それは「中文」 ― この場合の「中文」とは何であるのか、というのは微妙な問題だが、いずれにしても文章語で、広東語圏以外の中国人も読解できるもの ― として表記されたものを公式の場でも広東語式の発音で読むということであり、いわゆる「広東語」を公用語にしていたとはいえない。広東語は基本的にはしゃべり言葉であり、公式的な書き言葉(=この場合の中文)とは異なる。例えば、先にもふれた di などといったしゃべり言葉的な表現は表記だけでなく発音のレベルでも、香港におけるこの「中文」では使われない。それでも、この「中文」は香港では公式の場でも広東語式で読まれるということが、日本の方言などとは異なる、広東語の独特の地位を示している。香港の歌手たちの歌う歌も、少し意外なことだが、中文を広東語式に読むというこのやり方と同様である。

 それゆえ、広東語には、日本の方言などとは異なり、よりしゃべり言葉的な広東語からより書き言葉に近い広東語までの広がりがあり、大雑把にいえば、広東語は共通語=普通話からの自律性が高い、といえるだろう。こうした広東語の独特の広がりと自律性は、広東語と広東語文化圏の力強さと深く関わっていると思われる。

 こうした広東語の若干特異な位置づけ(それは他の中国語方言と同様なのかもしれないが、私にはよくわからない)はともかくも、非国家的なマイナーな言語が標準化されていないこと、それゆえに正しい言語なるものも存在しないという状況の方は、わざわざ学ばなくても最初からわかりきったこと、研究者たちがくどくど強調してきたことではないか、と思う人もいるだろう。けれども、実際に私が学んでみて実感したのは、自分が知識としてはそうしたことを知っていても、それでも言語には「正しい言語表現」があるとどこかで信じていた、ということである。少し大げさにいえば、どこかに「正しい唯一の広東語」なるものがあって、テキストや辞典はその正しいものに基づいて編集されたものであり、広東語を学ぶとはその正しいものに無限に近づいていくということである、と漠然と信じていたのである。

 ふりかえって考えてみれば、英語であれフランス語であれ、私はそのような正しさの存在を前提にして学習してきたように思う。もっといえば、「母語」であるはずの日本語であっても、正しい日本語があるものと漠然と信じて身につけて使用してきたように思われる。あるいは教師としても学生のレポートを読んで、しばしば「これは話し言葉的な表現で、書き言葉では普通は・・・」などと添削している。我々は、結局のところ、共通語の人工性・恣意性を知識としては知っていたとしても、それでも国家化され標準化された、仮想上の「唯一の正しいことば」なるものの磁場のなかで言語活動を行っているのであり、それは意識のレベルを超えて深く身に染みついているのだと思われる。こうしたことは、国家的な秩序・力というものがいかに偏在的で深くにまで達しているかを示す、重要な現象であるといえるだろう・・・そのようなことを広東語を学びながら改めて気がついたのである。

 だから、せっかく標準化され多くの人に通じる便利な国家語があるのに、広東語のような標準化されていない言語、つまり無数に分枝している言語を母語としてではなく学ぶ、という行為にはどこか滑稽さがある。特定の地域や各人の固有の属性に根ざすことのない「正しい方言」なんか原理的にありえないのに、にもかかわらずあえてそれをしゃべろうとするのは不自然であり、ましてそれを正確に運用しようとすることは原理的に不可能なことである。外国人が例えば関西弁をしゃべるとどうしてもある種の滑稽な感じがするのはこうした事情ゆえなのだと思われる。私は関西にもう20年以上住んでいるが、今でも関西弁はほとんどしゃべらないし、イントネーションも関西風にならない。結局、関西弁といっても地域や話者によってずいぶん違いがあり、そのうちのどれかを私が選んで使用する必然性がないのだと思う。先日、大阪でタクシーに乗ったとき、岸和田出身という運転手のおじいさんのしゃべる関西弁が、若い人たちの吉本風の関西弁とはかなり異質な、とてもゆったりとした関西弁であることに驚き、いいなあと思ったが、だからといって私が今さらそんな関西弁を身につけてしゃべることはありえない。

 だが、それでも方言には余所者にとっても魅力があると思う。とりわけ、広東語は私には魅力的である。広東語には、国家化されたメジャーな言語とは異なって、ある種の強迫性というか生真面目さのようなものが少なく、より自由な雰囲気がありユーモアが豊かであるように思われる。また広東語使用圏は一国を形成してもおかしくないほどの人口と経済的な豊かさがあり、また先にふれたような日本の方言にはみられないような「広がり」があるので、文化的な開放性と多様さをともなっているようにも思われる。先にふれた「多D」だとか「阿 sir」といった表現には、そうしたユーモアと開放性があるように思われ、私にはとてもおもしろく心地がよい。あるいは、広東語を習い始めた時に最初に知って笑ったのだが、「ない」ことを意味する漢字(普通話でいえば「没有」)を、「有」という漢字から真ん中の「=」の部分を引き抜いた漢字を新たに造って表記する、というやり方にも広東語的なユーモアがあるように感じられる。この開放的なユーモアは、関西弁のそれにも通じると思うが、関西弁以上であるとさえ思う。

 それゆえ、たしかにかなりドンキ・ホーテ的だとは思うが、それでも広東語を学ぶことは楽しく意義あることなのである・・・そう信じて広東語を学ぼうという人たちのための、実践的な助言を、今日はずいぶん長くなってしまったので次回に、書いてみよう。
by kohkawata | 2010-02-14 10:39 | 香港の文化 | Comments(0)