カテゴリ:近代日本の文化( 4 )

七夕あれこれ



 去年の秋頃から中国の七夕伝説について調べはじめて、最近になって一通り論文を書き終わった。この二千年を超えて語り継がれてきた物語を追いかける作業はこれまでにないほど楽しい作業であった。もう少ししたら紀要かどこかに発表したいと思っている。

 私は5歳のころまで平塚に住んでいたのだが、この街で盛んな七夕の祭りの記憶はかすかにしかない。それでも、七夕関係のことを調べるとどんなことであれとても懐かしく床しく思えるのは、記憶の底に華やいだ七夕の祭りのがあるからだと感じられる。無意識的な記憶というのは人の感情を深いところで支えているもののようだ。

 それはともかく、日本の七夕についても少し調べたので、そのことを記しておく。

 学生たちにきくと、短冊に願い事を書いて笹につるす、という習慣は今日全国的なもののようで、たいていの人が小学生のころに経験している。この習慣は江戸期にまで遡れるようだ。天の川にさかれた織姫と彦星が七夕の夜に再会するというお話もたいていの人には周知のものだろう。

 日本に織女と牽牛の話が最初に伝わったのはおそらく万葉集の時代で、二人を詠った詩が万葉集に多くある。乞巧奠という七夕の祭りは、聖武天皇の時代には宮中で行われていて、正倉院にその品々が残っていて、私も去年の正倉院展で乞巧奠用のひどくおおぶりな針と糸をみたことがある。こうした王族・貴族層における七夕に関わる習俗は朝鮮半島経由で伝わったようで、百済の王家の末である百済王氏がかつて支配した枚方から交野にかけての一帯には、天野川や星田、織物神社など七夕にまつわる地名が今も残る。

 しかし、日本における七夕の習俗は、こうした大陸系のものだけではなく、日本在来の習俗にも起源がある、とされる。

 折口信夫によれば、七夕の「たな」とは、本来「棚」で、これは神の宿るところと観念されていたという(だから、神棚は棚にしてしつらえられるのである)。この神がやってくる場所である棚で、選ばれた乙女が機(はた)を織りながら神がやってくるのを待って結婚をする、という「たなばたつめ(棚機つ女)」についての古い信仰があって、それが七月七日に牽牛織女が再会するという外来の話とむすびついて、七夕のことを「たなばた」と呼ぶようになったのだ、という(「七夕祭りの話」『折口信夫全集』第17巻、1996年、中央公論社)。

 折口の時代の民俗学全体がそうなのだが、この折口の説も検証ができるようには書かれていないので、どこまで本当かわからない。しかし、ともかくもこの、在来の「たなばたつめ」の信仰と中国系の七夕の説話とが合流して、日本における七夕の習俗が生まれた、というのが今日でも定説となってる(本居宣長も同様の説を述べている)。

 その後、日本各地で展開した七夕に関わる習俗は、今日の短冊に願い事を書く習慣が一様なのと対照的に、地域と時代によってずいぶんと多様性がある。

 津軽地方では「ねぶた」の祭りが盛んだが、かつてはこれは七夕の行事という側面が強かったようである。津軽のねぶたを描いた古い絵には、燈籠のようなものに「七夕」と「織女」の文字が書き込まれているのをみたことがある。秋田能代の夏祭りは、能代役七夕というが、能代ねぶながしともいうらしい。「ねぶた」は眠りを醒ますという意味が元来はあって、この「ねぶた流し」の祭りが七夕と重なることは、柳田國男によれば、越後や越中にもみられるそうだ(『年中行事覚書』)。

 京都では、西陣織が盛んであった地域にある今宮神社に織姫社という社があって、織女信仰があった痕跡をとどめているが、どんな信仰であったか、よくわからない。今年の8月5日に訪れてみたところ、境内では祭りの準備をしていて、織姫役と思われる女性が舞いの練習をしていた。京都新聞の今月2日の記事に「10年以上前に途絶えた今宮神社末社の織姫社(京都市北区)の七夕祭が今月、同志社大の学生有志や地域にゆかりのある人たちの手によって再興される」とあるが、おそらくこれのことだろう。

 また、石沢誠司氏の『七夕の紙衣と人形』(ナカニシヤ出版、2004年)によれば、七夕に紙で作った衣を飾るという習俗は、全国的といってよいほど広がっていたらしく、江戸時代以降の文献にその記録が散見されるようである。例えば、京都の街中でも、七夕の時期に、女の子が紙で衣を織って飾るという習俗が江戸時代以降にあったようだが、今日では廃れている。

 同書によれば、松本や糸魚川、黒部などには、七夕に紙衣ないし紙の人形をつくる習慣が今日も残り、 有名な仙台の七夕祭りでも、よくみれば紙衣が今日でも飾られている。砺波の呉服屋の娘として生まれ小矢部に暮らしていた人も七夕になるといつも紙衣をつくって笹につって飾っていたともいう。

  姫路市の東南の海岸部一帯(姫路市の妻鹿から高砂市の曾根あたり)でも、七夕の日、すなわち8月6日に、自宅の軒先などに、野菜や果物を供え、七夕人形(紙衣)や提灯あるいは短冊などを細い竹竿にぶらさげて飾って、翌朝には海に流すという習俗が盛んであったらしい。

 私も今年の8月6日の夕刻に、この本を頼りにこの姫路の一帯を歩いてみて、大塩にお住まいの方々からお話を伺い七夕飾りを拝見することができた。

 子ども(あるいは孫)が生まれて初めて七夕の日を迎えると、その家では8月6日に飾りつけをして、翌朝には川や海に流していたそうで、近年ではゴミになるので細かくきって捨てるそうである。ただし提灯と人形は取っておいて翌年以降も使う。子どもが小さいうちは毎年「七夕さん」を各家庭でしていたが、今では子どもがすくなくなったので七夕さんをする家庭はずいぶん少なくなったそうだ。また、この日には、親から子どもに、あるいは親族から提灯が贈られて、それをたくさん家に飾る、ということも行われていたが、今ではすっかりやらなくなった、ともきいた。この親とは誰のことかちゃんと伺わなかったが、おそらく、生まれた子どもからみれば祖父母のことであろう。


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 上の写真は、大塩の「柴田提灯店」さんで売っていたもので、織姫と彦星である。店の方の手作りだそうである。拝見した七夕飾りでもこの店の紙の着物や提灯が使われていた。

 大塩や白浜の宮の街角には、自治会の連絡用のボードがたくさんたっていて、「初七夕」「七夕初め」といった表現で、誰々さんのところに誰々という名前の子どもが初めての七夕を迎えたことを告知する紙が貼ってあったりした。全体的な印象でいえば、この姫路の「七夕さん」は、少なくとも今日では、子どもが生まれ育っていくことを祝う行事であるように感じられた。

 なぜ七夕で紙衣を飾るのかといえば、折口の面白い説がある。棚にやってくる神は、「幼少な上に、身体が不自由で、恐らくは裸であったろうと思われます。此神に「みそぎ」をさせると、俄に成長いたして、大抵は弟姫と結婚いたす事になります。つまり、「たな」の中で、女性が機を織つて居るのは、神の様な尊い人が来て、結婚するのを待つて居るのだとも、考へられるのであります」。そこで、「この七夕で、「たなばたつめ」が、男に貸して上げる着物がなくて、困るであろうといつて、女性が着物を七夕さんに貸して上げます」(『折口信夫全集』第17巻、1996年、中央公論社、264、266頁)。織女に着物を貸すというこのストーリーは、今日の京都や姫路にはないようだが、以前には各地に残っていたようである。

 また、高槻で子ども時代をすごした知人によれば、女の子たちが千代紙で衣を折って七夕に飾るという遊びが流行っていたそうだ。織姫の紙衣のことは、「お姫さん」と呼んでいたとか(お雛様のときにも雛人形を千代紙で折っていたそうだ)。1970年代初めの話である。

 といった具合に、日本では七夕に関わる習俗は盆や正月ほど盛んではないにしても、時代を超えて様々なかたちで脈々と受け継がれてきたことがわかる。子どもが紙で着物をつくったり、短冊に願い事を書いたりと、全体に可愛らしい習俗で、これは元来の織女と牽牛が年に一度だけ再会するという話の健気さに通じるものだと思う。

 各地の習俗の変遷や、竹笹に願い事を書いた短冊を吊すというスタイルの全国化の過程などはまだ不明なところが多く、研究者にとっては格好のテーマがまだ残されているといえるだろう。

by kohkawata | 2016-08-09 16:15 | 近代日本の文化 | Comments(0)

長崎・四海楼の物語


 重い泥のようなものが腹の中に沈んでいくような、そんな辛さを感じることの多かった旧年であったが、それでも今年は何かいいことはないかな、などと暢気な期待も抱いて、かねてゆっくりと見物したかった長崎をこの年初に訪れて、コロニアル様式の軽快な青を基調とするグラバー邸や大胆な桃色を楼門に配したユーモラスな崇福寺、あるいは高校生気分満載のトルコライスなども楽しんだけれど、とくによかったのは四海楼という店に出会ったことだった。

 神さびた大浦天主堂を振り仰ぐ坂道を下った海の手前にこの中華料理屋は巨艦の如きりっぱな店を構えているのだが、この店を発祥とするという、そのちゃんぽんは、名物にうまいものなしという日本人の生活知の裏をかく、これ以上おいしいちゃんぽんは想像できないというくらい、おいしいものだった。

 『ちゃんぽんと長崎華僑』(長崎新聞社、2009年)という本は、この老舗の四代目陳優継氏が書いた、四海楼と長崎の華僑文化についての本で、長崎の本屋で早速見つけて読んだのだが、これまた素晴らしいもので、「蝙蝠傘一本」で福建の田舎から単身長崎に渡って来た曾祖父平順の活躍から語り起こして、長崎医学専門学校に赴任していた斎藤茂吉がその「おもかげ」を慕うことになった美貌の長女玉姫や、豪儀な遊びがすぎて一時は勘当された長男、さらにその長男を立てながら四海楼を引き継ぎ発展させた次男、あるいは平順の忠実な弟子にして一族の語り部となった日本人など、四海楼の人々の姿が魅力的に描かれている。アジア太平洋戦争のなかで強制廃業となり建物も解体されたうえに一族の多くが被爆するという、たいへんな苦難もあるが、戦後に再び店を開き発展していき、来崎した浩宮殿下にちゃんぽんと皿うどんを食べてもらうという栄誉さえもえるに至る。

 こうして、かなりのストーリー・テラーである作者によって、平順にはじまる一族が長崎の地に「落地生根」していくさまがパノラマ的に描き出されていくのだが、私はこの物語は映画の題材としてかなりいいものではないかと感じた。海を渡った精力的な創始者の冒険と成功、偉大な家長と放蕩息子との葛藤と和解、精神科医にして歌人であった男と快活で社交的な少女との恋と別れ、性格の異なる兄弟の団結、裏で一族を支え続けた女たち、戦争と原爆の惨禍からの復活、皇族の来訪、そういった、少しキッチュになりかねないかもしれないが、素晴らしくドラマティックな物語は、長崎という、香港によく似た、山に囲まれながら青い海と青い空に向かって開かれた、コロニアルでもあった都市空間を舞台にして、映画的に映えるのではないだろうかと空想したりした。そういえば、この四海楼一族の物語は、家長とその弟たちを描いた『悲情城市』を思い起こさせもする。侯孝賢は期待しすぎにせよ、もし『カーネション』(NHKの、ため息がでるほど久々の、よくできたドラマではないだろうか)レベルのドラマ作りができるのならば、尺的にはテレビドラマの方がいいかもしれない。

 ちなみに、この本は、長崎新聞社がだしている、「千里眼、順風耳」をキャッチフレーズにする新書の一つ。私は少しも知らなかったが、長崎には本の文化が高い水準で存在してきたようで、『楽』という地方雑誌もなかなか見応え・読み応えのあるもので(最新号は、「長崎に、中国あり」という特集だった)、四海楼のすぐ近く、天主堂を仰ぐあの坂道の途中には、絵本美術館を併設する童話館という児童書の専門書店があって、すばらしい空間構成のなかで非常にすばらしい選書をしていると見受けられた。その一角には、自社が出版している本のコーナーもあり、そういえば以前に見かけたことのある絵本も何冊かあった。たまたま手に取ったなかで、『三びきのごきげんなライオン』(ルイーズ・ファテオ、ロジャー・デュポアザン作、はるみこうへい訳、童話館出版、2005年)は子をもつ父親のための童話なのだが、とりわけ心惹かれた。

 とてつもない受難の歴史がありながら、それでもすぐれた独特の文化を、顔の見える一人一人の力によって育んできた長崎という時空は、傷つきながらずるずると沈みつつあるよるようにもみえるこの列島において、もしも希望がありえるのならばどんなふうにありえるのか、その一つの可能性を示しているのではないか、と想像してみたりして、年初からたしかにいいことがあったように感じて、長崎を後にしたのだった。
by kohkawata | 2012-01-24 19:25 | 近代日本の文化 | Comments(0)

雑談の夜明け


 先々週、短い報告書を書き終わって、ようやく「春学期」の業務が終わった。しかしもうお盆が目前であった。

 大学の授業はこの学期から15週間にふえたこともあって、しかも8月に入って名古屋で集中講義までして、夏休みがひどく遠かった。長いあいだ感じたことがなかったほど夏が暑かったこともあるし、二つの原稿をかかえていたこともある。

 ところで、この春学期は、どうしたわけかいろいろな人に話しかけられることが多かった。学生に議論をふっかけられるようなこともしばしばあって、楽しいような困ったようなことも多かった。なぜだろうか。もしかしたら、このブログを始めたので、それを読んで、「こんな感じの奴なら話しかけても大丈夫だろう」と思ったのだろうか。なぜかエスノセントリックなことを強い調子で語る学生が複数いて、しかもそんな彼らがわりと勉強熱心だったりして、「いよいよ時代が変わってきたのか」と思わされたりもした。しかし、あるいはこのブログを読んでのことなのかもしれない。ならば、私の反エスノセントリズムをちゃんと感じてくれた、ということになるのかもしれない。

 春学期、忙しい合間に読んで、つくづくいいなあと思った古い本がいくつかあった。

 一つは西脇順三郎のエセー『雑談の夜明け』(講談社学術文庫、1989年)で、西洋の文学的教養を深く身につけたこの人の中国詩論は私にはとくにおもしろく感じられた。こんなことを言っている。

  「これだけ簡潔な表現をし得る言語は他にないと思う。私は世界の言語についてはみな知っているものではないが、恐らくそうであろうと信じるのだ。[・・中略・・]古来世界の作詩法によると語法の簡潔は詩人の最大に求めていたことである。けれども中国語を用いる詩人には、もう言語的にかなわないにきまっている。言語という宿命でこれはあきらめなければならない。おまけに単語が単音節ときている。「簡潔は詩才の精神」とローマ詩人以来の訓言がある。ところが一般にヨーロッパ語ではそうは行かないのである」(167-8頁)

 言われてみれば中国の詩とはなるほどそうしたものだと思う。

 そういって悔しがっている西脇の詩も少し読んでみた。それで出会った本、『日本の詩歌 12巻 木下杢太郎 日夏耿之介 野口米次郎 西脇順三郎』(中央公論社、1969年)はとてもいいものだった。このシリーズは装幀が端正で、詩の選択も本文の組み方も注釈もさし絵もよくて、とてもいい詩の全集だなあと思う。全部で30巻ほどあるらしい。こんな全集は今の日本ではもう望めないのかもしれない。

 この巻には、例えば、日夏耿之介の『転身の頌』(大正6年)の最初の詩「かかるとき我生く」がある。

 大気 澄み  蒼穹晴れ  野禽は来啼けり
 青き馬 流れに憩ひ彳ち (たち)
 繊弱き草のひと葉ひと葉 日光に 喘ぎ
 「今」の時計はあらく 吐息す
 かかるとき我 生く

 「時計」は、本当は難しい異字だが、ネット上で字を見つけられない。大気は「き」、蒼穹は「そら」、野禽には「とり」、日光は「ひざし」などとルビがふってある。漢語と和語の組合せが効果的ではないだろうか。

 西脇自身の詩もそうだけど、結局日本語の詩だって捨てたものではない。とくに日本の近代の詩には、どこか暗い影がつきまとうけれども ― 上の詩にもどうしたわけか予兆的な影が感じられないだろうか ― 、私にとっての母語がもっている繊細な情感と響きがこもっているといまさら思う。老後の楽しみがまた一つできたかもしれない。
by kohkawata | 2010-08-23 18:00 | 近代日本の文化 | Comments(0)

最近おもしろかった近代日本に関わる本、2冊


ナンシー・K・ストカー『出口王仁三郎 ― 帝国時代のカリスマ』原書房、2009年(Nancy K. Stalker Prophet Motive: Deguchi Onisaburo, Oomoto, and the Rise of New Religions in Imperial Japan, University of Hawai’i Press, 2008 )

 出口王仁三郎は、近代日本を代表する新興宗教である大本教の二代目であり、国家による大規模な弾圧を二回にわたって招いたことでも知られる。だが、彼の知性と行動は、近現代の日本のなかで例外的といってよいほどの、巨大なエネルギーと創意とユーモアに満ちたもので、その全貌は十分には研究されてこなかったしほとんど知られていないといえるだろう。私の勤めている大学は、このカリスマの出生地 ― 亀岡市穴太(あなお) ― のすぐ近くにあり(歩いて15分くらい)、その活動の中心は亀岡にあったが、大学も亀岡市も、同じ亀岡出身の石田梅岩は盛んに顕彰しても、出口王仁三郎はほとんどまったくとりあげることがない。十年ほど前、大学の研究所にR.N.ベラーをよんで石門心学についてのシンポジウムを行ったとき(その記録は、the Monograph series of the Institute for Interdisciplinary Studies at Kyoto Gakuen University, No 1. 2001年 にある)、若かった私は「次回のシンポジウムは王仁三郎を取り上げてはどうですか、とてもおもしろい人ですよ」と提案してみたが、「それは大学ではなく大本さんにおまかせするとよいでしょう」とすぐに却下されてしまったのを思い出す(まあ、却下するのが妥当な判断だとは思うが)。

 この本はアメリカの学者が学位論文をもとにしてまとめたもので、この巨人の生涯の足跡を冷静かつコンパクトにまとめてくれている。出口王仁三郎は、終末論的宗教家・予言者であり、大規模な運動を展開することができる扇動と組織化の天才であり、日本で最も熱心なエスペラント語の推奨者でもあり、さらには世界の精神的統一を目指すパラノイア的な国際平和主義者でもあり、書・陶芸・詩歌の創作者でもあった。そのすべての面で彼は卓越した活動をしているが(芸術の創作者としては即興的な大量生産に特徴があったようだが)、なかでも驚かされるのは、政財界の指導者3000人 ― そのなかには閣僚や陸海軍の上級将校もいた ― を集めて王仁三郎が中心となって発足させた、昭和神聖会なる右翼的・愛国的な団体が、時代の波に乗り官民を巻き込んで、800万人の支持者を得たと公称するほどに、大規模な運動体へと発展していったことである。この国民的な運動や、それ以前から発展してきていた大本教やその別働隊である「人類愛善会」など、出口王仁三郎を中心とした宗教的運動の急激な膨張 ― 例えば人類愛善会の機関誌『人類愛善新聞』は34年には当時の全国紙大手の読売新聞の約二倍の100万部に達したという ― にたいして、支配層の一部は恐怖を覚えたようで、そのために(といってよいようだ)、あの第二次大本事件が起きるのである。宗教的カリスマ・右翼的運動・支配層・マスコミ・インテリを巻き込んだ、このあたりの一連の劇的展開は、まだ十分には研究されていないようで、才能と野心のある若い研究者にとってはかっこうのテーマになるだろう。

 また、二度にわたる弾圧のやり方が、最近の民主党幹部や少し前のIT企業社長らへの検察の捜査・摘発の手法と似ていることにも気づかされる。いずれにあっても共通しているのは、急速に力をもったカリスマ的な人物とその運動にたいして、警察権力が(本当は信憑性のない)それらしい情報をマスコミに流し世論の攻撃を煽りながら、法理上かなり無理のある捜査ないし弾圧を強行し、カリスマから活動の自由を奪ってしまう、しかし犯罪の確たる証拠が出てこないので、最終的には有罪にならないのだが、それでもカリスマとその運動体はその間に社会的な打撃を受け再起が難しい、というやり方である。つまりは権力組織が実質的な超法規的処置によってカリスマを攻撃し無力化しようとするのである。王仁三郎も最終的には保釈されているのだが、大本教と王仁三郎の全盛期は戻ってこなかった。

 出口王仁三郎にかんして、私が最も興味深く思うのは、彼がこのように(一部の)人々から嫌われ理不尽かつ徹底的に弾圧されたにもかかわらず、最後まで持ち前のユーモアと明るさを失わなかったようだ、ということである。「延々と続く裁判のあいだ、王仁三郎はいつもどおり元気で楽天的だった。法廷内で茶目っ気を示すことも多く、無期判決が言い渡されたときにはベロを出し、ときには卑猥な冗談を言ったり、法廷で退屈したときには大騒ぎで病気のふりをしたりした」(277頁)。警察や検察が甘かったわけではないのは、彼の後継者と目されていた人が拷問の結果神経を病んだことからもわかる。本書のなかにはこうした彼のユーモアを示すエピソードが他にもいろいろとあるが、そのなかでの最大の傑作は、第二次世界大戦のさい前線へと向かう信者の兵士たちに持たせたお守りであろう。そこには、暗号で「我敵大勝利」と書いてあったのだ、という(この逸話は出口京太郎氏への著者のインタビューによる)。

 今でも大本教は明智光秀が築いた亀山城の跡に本拠を構えている。私は仕事帰りにこの境内を歩くことがあるが(境内を横断する道は誰でも自由に歩ける)、大本教は今ではとても静かな教団であるようにみえる。


野口良平『「大菩薩峠」の世界像』(平凡社、2009年)

 この本の著者は私にとっては学生時代からの知人である。そのため著者のこのはじめての本にたいしてはある種の感慨があり、他の本とは読み方が当然違うが、とにかく、読み始めたらほんとうにおもしろくて、他の用事をおいてどんどん読み、数時間で読了した。

 まず、この本は射程はものすごく長い。合理的・科学的な方法では把握できない、人間の業(カルマ)とでもよぶべき性質 ― それを著者は、「人間が自分の責任では選ぶことのできないような受動的な関係性」としている ― を、中里介山が1913年から1941年までの30年近くにわたって書き継いだ大作『大菩薩峠』の読解、とりわけ無辜の人を理由なく繰り返し殺してしまう主人公机龍之助の姿を追いかけるという形で、探求している。

 この業の探求において著者がとりわけ注目するのは、私なりに単純化すれば、業からの「自由」の可能性をめぐる問題なのだと言えるだろう。彼はフィクションを定義して次のようにいう。「フィクションとは a 現実の自分からの自由、および b 現実の世界からの自由、という二つの希求を、創作者と享受者が相互に認め合うための手段であり、かつ目的である。 a・b のいずれが欠けても、フィクションは成立することができない」(232頁)。そして『大菩薩峠』というフィクションは、この二つの希求に応えようとしたものであり、著者は次のように言っている。「作中人物たちが一様に示しているコミューンへの希求は、胆吹王国の瓦解、無明丸の試練が象徴しているように、決して完全に満足されることはないが、だからといって雲散霧消してしまうというわけではない。『大菩薩峠』が描こうとしているのは、コミューンというよりはむしろ、コミューンへの希求を持たずには生きていくことが出来ないという人間の条件それ自体であり、そういう人間の眼に映じたものとしてのコミューンの諸類型なのである」(173頁)。

 同時にこの本は、細部において興味深い示唆・指摘・分析を繰り返している。『大菩薩峠』にはコミューン(=国家に包摂されない拠点)へのコースが七つ ― 主人公の存在様式そのもの、路上・平原へ、かくれ里へ、信心へ、書物の世界へと求められるコミューン、海のコミューン、山のコミューンの七つである ― 示されているとか、伊勢神宮の内宮と外宮の間にある「間の山」についての分析であるとか、桑原武夫の「日本文化三層論」であるとか ― 西洋的・近代的な意識の層、サムライ的・儒教的な封建的といわれる層、ドロドロした規定しがたい民俗的な層、の三層― 、あるいは折原脩三・堀田善衞・安岡章太郎・橋本治などの『大菩薩峠』をめぐる興味深い説が次々と紹介されている。

 このような細部の輝きと射程の長さは、野口良平という人が、繊細な感受性とともに集積した厖大な知識をもちながら、なおかつ不屈の思考者であることを確認させるものである。また、桑原武夫・鶴見俊輔・橋本峰雄・多田道太郎といった京都学派たちの仕事が何度もていねいに参照されており、この本が、もはやほとんど絶えてしまったようにみえる京都の、とりわけその反エリート主義的な知的エリートたちの、人文的・思想的伝統のなかから生まれてきたこともわかる。

 むろん、著者が示した射程は、『「大菩薩峠」の世界像』のなかで堅固な目的地へと着地したわけではない。中里介山の『大菩薩峠』が未完に終わったように、深い問いを読者に残したままであり、そのような原理的に解くことのできない「原問題」を抱えながら、「一人ひとりがはじめの一歩から世界との関わり方を構想する、という思考態度」(51頁)をもって生きていくほかはない、という覚悟が現在の著者の「世界像」であると読める。
by kohkawata | 2010-01-27 13:26 | 近代日本の文化 | Comments(0)