カテゴリ:現代中国の映画( 7 )

中国本土の不安な未来


 中国本土はこれからどうなっていくのだろうか。この13億人以上を擁する、人類の歴史上最大の国家の秩序はこれからどうなってしまうのだろうか。最近しきりと懸念されている中国の経済バブル崩壊よりも、国家的な秩序全体の混乱の方にもっと不安を覚える。

 長年独裁を続けてきた共産党支配の腐敗はもはや常規を逸しているようだ。例えば薄煕来一族の不正蓄財は5000億円近くに昇るという。どれほどの不正が積み重ねられたのか、想像を絶する。あるいは、公権力であるはずの地方政府は、紛争解決や利益誘導のために大小の暴力を秘かに行使しているという。近代国家にあるまじき事態である。中国の学会では論文の掲載に賄賂が必要だということを聞いたこともある。それが本当なら学会のすべてが茶番になってしまうが、その手の大小の腐敗・茶番は今や中国社会の隅々にまで及んでしまっているのかもしれない。

 歴史が教えてくれるのは、独裁は腐敗を生み腐敗の深刻化は体制の崩壊に帰結する、という一般的法則である。だとすれば、中国共産党の支配も早晩終わるはずである。

 もっとも現代中国についての専門家はだいたい、近いうちの体制の崩壊を予想しないようだし、体制の崩壊よりもバブルの崩壊を心配しているようである。私もまた次のようにも思う。中国共産党の政治権力の奪取・維持へのマキャベリズムぶりにはただならぬ伝統がある。また、共産党員だけではなく多くの中産階級が現在の経済発展の恩恵を受けているし、貧しい階層にも物質的な豊かさを求めるエネルギーが溢れている。そして、中国人は概して現実的で、決死の覚悟の政権打倒などという幼稚な幻想などは抱かずに、たとえ不当なものであったにしても、無秩序よりも秩序を選ぶだろう。だから、この体制は、バブル経済が多少弾けたとしても、まだしばらくは続く可能性は大いにある。

 しかし他方で、体制が末期的であることを示している兆候は他にもある。チベット族やウイグル族への弾圧、あるいは民主派への抑圧は、あまりに不当で道義を欠いており、もはや共産党の正当性など内外の人の誰も信じられないに違いない。実際、共産党の幹部たちはその資産の多くを海外に移転させており、親戚や子弟の多くがすでに海外移住しているともいう。彼らですら体制の未来を信じていないのであって、だとするならば、値上がりしすぎた株価と同じように、体制が崩壊する時は一気呵成ではないだろうか。そして、国民の全体が豊かになる前に経済成長は減速を始めてしまったようで、もし減速傾向が強まれば、格差が縮小する見通しは消え去り、大多数の国民は先進国並の豊かさを手に入れる夢も失うだろう。そうなれば、多くの人にとって茶番を続ける理由がなくなってしまう。

 仮に共産党の支配体制が崩壊するとしたら、その代わりに現れるのは何であろうか。これはきっと当事者たちにも専門家にも誰にも予言できないことだろう。しかし、ごく最近になって、欧米諸国が期待するような民主派ではなく、ある種の毛沢東主義の復活が報告されている。中国は、近代に至って、太平天国を生み毛沢東の共産党を生んだ。どちらも誰も予見しえなかったであろう、未曾有の得体のしれない集団だが、共通するのはユートピア的な万民平等の幻想と徹底した独裁体制である。そして、とてつもない災悪をもたらして、カリスマ的指導者とともに消えていった。その歴史が繰り返されるならば、今度現れるものも、今の政治体制よりもずっと幻想的で破壊的な性質をもつものかもしれない。

 だが、もうかつてのように中国は孤立していない。人と金と物と情報がかなりグローバル化している今日において、狂信が長く広く続くことは難しい。そもそも教育水準も格段に上がった。ならば、私の貧しい想像力では、多少いびつなものだとしていも、やはりある種の民主的な秩序が模索されるほかないのではないか、と思われる。毛沢東ではなく、むしろ孫文が民主化とナショナリズムを統合する象徴として復活しないだろうか。例えば香港系の映画では孫文は明らかに収まりにいい政治的かつ人間的な理想の象徴であり続けている。かつての台湾の民主化を秘かに促したという米国は、そして欧州も、間違いなく中国の安定的な民主化を望み支持するであろう。そしてもちろん、台湾も香港も韓国も中国本土の安定的な民主化を歓迎するに違いない。

 もっとも、なぜか現代の日本人は、戦前の日本人と異なって、中国の民主化に力を貸す用意がほとんどないようである。中国の民主化運動に関わっている人が来日したさいの、歓迎イベントのようなものに何度か参加してみたが、彼ら運動家たちの気骨ある情熱とは対照的に、歓迎するはずの日本人側の熱意はいつも奇妙なほど低いものしか感じられなかった。そういう私自身も、中国の古今の文化には多大な敬意と興味を抱きながらも、その政治的状況に何らかの形で貢献しようという熱意を持てないでいる(そもそも、私も含めて今の日本人には、自国の政治にたいしてすら貢献するつもりなど、ほとんどないのだろうが)。

 日本を含めた東アジアにとって、そして世界全体にとって、中国の支配体制の崩壊と刷新と民主化が、犠牲の少ない実り豊かなものなってくれたらよいのだが、そのような期待は甘すぎるような気がして心配である。現代の中国はあまりに大きく複雑で、もっと意外な、誰も予想しなかった顛末が待っているのかもしれない。
by kohkawata | 2013-08-14 16:36 | 現代中国の映画 | Comments(0)

残雪を読む



 「闇夜の桃源郷:残雪「痕三部作」を読む」という文章を書いて、ネット上の同人誌に掲載してもらった。

  こちらからどうぞ

 残雪は現代中国を代表するといってよいであろう作家。

 彼女の小説は、カフカを思わせ、しかしカフカ以上に奇怪で独自な世界を構築しているのだが、それでいて実は我々の世界の本質的な何かがそこに示されているのではないか、と思わせる。

 私の文章は彼女のそのような小説世界を、主に「痕三部作」なる三つの小説にそくして、分析的に解読している。

 内容は文章を読んでほしい。ここで付け加えるとするならば、私が読んだ範囲でいえば、残雪は現代中国語圏にあって突出して優れた作家であり、莫言などよりもはるかに独創的だし、私の好きな台湾の李昴と比べてもさらにラディカルだと思う、ということである。ただ、残雪は、多くの人が文学に期待するようなセンチメンタリズムと徹底的に縁を切っており、その意味で文学的というよりも、むしろ哲学的であり、端的に病的だと言う人もいるだろう。ジャンルは違うが、資質的には、同じ世代の詩人北島に連なる人かもしれない。

 もう一つ付け加えたいのは、中国本土における暴力の記憶の生々しさである。残雪も北島も、子ども時代に文革に遭遇しており、餓死や事故死、さらには殺人さえも含むのかもしれない彼らの残酷な経験は、彼らのその後の文学的創造を貫く決定的な傷痕になっていると私には思える。文革だけではない。残雪の母方の祖父は日中戦争の時に「日本人に追われて池に跳びこみ、溺れ死んだ」(近藤直子監訳「泡沫」)という。彼らのように、そのような過酷極まる経験を文学に昇華した希有な文学者たちだけではなく、現代の中国本土の一般の人々の心性を考える時にも、日本人も深く広く関与してしまった中国本土における長く残酷な暴力の経験の堆積、それを無視しては今日の中国本土にかんする何ものも見えてこないのではないかと思う。対照的に、同じ中国語圏であっても台湾と香港ではそのような暴力の経験がだいぶ薄く、それがこれらの地域の人たちと中国本土の人たちの心性とを大きく隔てていると思う。むろんこのようなおおざっぱな理解は単純なトラウマ史観になってしまうのだが、残雪や北島を読むと、そうしたことが改めて強く感じられる。

 なお、この文章を掲載したのは『月の共和国』という同人誌。数人で始めたこの雑誌は、終わりそうで終わらず、細々と続けて号を重ね、もう10年以上経った。私は毎回寄稿していて、最近はだいたい中国語圏の特定の作家を取り上げて論じてきた。侯孝賢、關錦鵬、北島などである。今回の号の特集テーマは「現実庭園」というもので、「闇夜の桃源郷」というタイトルと文章の内容はこのテーマにわりと忠実にそくしている。

 この雑誌は次号も予定されていて、そちらは「散歩成金」という特集。説明なしのたった4文字ずつでこれらの特集の狙いとユーモアを察することができる人ならば、際立ってユニークなものばかりだが、この雑誌の他の詩文も楽しめるかもしれない。

  『月の共和国』のトップページはこちら
by kohkawata | 2012-11-24 20:00 | 現代中国の映画 | Comments(0)

初春の台湾、深夜の書店

 
 先週、入試の説明会なる仕事で台湾に行ってきた。

 台湾に行く度に必ず立ち寄るのが誠品書店。十年ほど前に、この書店の敦南店をはじめて訪れて以来、すっかりこの書店のファンなのだが、今回もつくづくいい本屋だと感心し楽しんだ。

 台北にある信義旗艦店というのが今は一番大きいようだ。本の量からいえば、例えばジュンク堂の梅田店をいくらか下回る程度だろうか。しかし、本の見せ方や照明の工夫も含めて空間全体の使い方がとても上手で、購入前の本をゆっくり読めるスペースも設けられていて、長い時間いても苦にならない。しかも、売っているのは本だけではなく、例えば演劇のコーナーには、演劇関係のDVDもあるし、違う階にいけば、文具や飲食店や少しスノッブな服飾関係の店もいろいろと揃っていて、本を選んで買うのが好きな人のニーズをよくわかってるなあと思う。実際、深夜に至るまで(この日は12時閉店だった)この店は多くの老若男女で賑わっていた。

 とりわけ私に嬉しいのは、セレクションの趣味がいいなあと感じられるところだ。例えば、映画のDVDのコーナーに正面を見せる形で並んでいるのが、李安の「お父さん」三部作だったり、許鞍華の『天水圍的日與夜』、あるいは羅啓鋭『歳月神偷』や婁燁『春風沈酔的夜晩』だったりする。いずれも私がずばらしいと思う映画であり、そういうふうに現代的な作品をきちんと古典として扱っているのであろうことに、この書店の確かな見識を感じる。 あるいは、劉若英や李康生の若いころの主演の旧作があったりして、マイナーな作品だが台湾映画が好きならなるほど見てみたくなる映画で、かゆい所に手が届いているという感じ。

 趣味がいい、というよりは、単に私のようなタイプの人間を的確にマーケティングしているだけかもしれないけれども、許鞍華の、またしても傑作とも伝え聞く新作『桃姐』の劇場公開の宣伝ポスターを書店の最も目立つ所に飾っているのを発見したりすると、ついつい嬉しくなってしまう。量だけではなく学ぶべき見識を兼ね備えた本屋なのだと思わされる。元々台湾の本は上品で美しいつくりのものが多いのだから、この書店のよさは日本人の目にはなおさら際立って見える。

 この質の高い書店が台湾全土に展開していることからは、台湾に高いレベルの知的公衆がいること、さらにこの書店に英語の学術書や日本語の本も多いことも考え合わせれば、彼らが外に開かれた風通しのいい知性をもっているであろうことが伺われる。開かれているとは閉じることができないということであり、そこには小国ゆえの悲哀もあるのかもしれないが。

 一通り楽しんで、地階の軽食のフロアで魯肉飯をおいしくいただいていたら、つくづくと楽しい気分になって、もし私にもっと中国語の能力があって台湾に住んでいたら、ボルヘスの図書館のように、このビルのなかだけで望んで生涯を終わることができるかもしれない、と馬鹿げた夢想に捕われた。D.W.ウィニコットがどこかで言っているように、本や映画といった文化的な幻想を誰かと共有できる、というのは人生における大きな幸せの一つであろう。昔はそれを大学の書庫や三月書房やボーダーズなどに感じることもあったが、どれもいつの間にか卒業してしまい、今ではそれを異国の誠品書店に感じる。もちろん、異国でしか感じられないのはちょっとさびいしいことだし、ネット世界が拡大するなか、このユートピアめいた書店もいずれは人影が疎らになる日もあるかもしれない。音楽CDのコーナーは、前回訪れた3年前と比べてだいぶ閑散としていた。
a0152719_164268.jpg


 写真はこの書店の台中中友店。この書店の、書籍を収蔵する空間構成にたいする意気込みが伝わってくる。アマゾンではどうして感じられないものだ。

 ところで、台湾では本屋に入り浸ってばかりいたわけではなくて、入試の説明で提携校である二つの高校も訪問した。というよりそちらが本務であった。台湾の高校は映画では何度も見て来たが、実際に台湾の高校を訪れたのは今回が初めてで、少々感慨があった。

 台湾の映画はどうしたわけか高校生を主役とするものに傑作が多く、とりわけ私が好きなのは、『藍色大門』という映画(易智言監督、2002年、邦題『藍色夏恋』)で、必ずしも高く評価されていないようだが、たいへん完成度の高い繊細な青春映画だと思う。この映画がどのような心理劇になっているのか機会があれば論じてみたいと思うが、ここでは、このタイトルが、大人になるという大きな門の前で戸惑う高校生の姿をたった四文字で見事に表現している、ということを指摘しておきたい。

 3月1日に私が訪問した彰化という街にある高校には、『藍色大門』の高校と同じように広いグランドと天井の高い大振りな校舎があり、見たことのない小鳥のさえずるガジュマルの大木が生徒たちを見守るかのようにいくつも生えていた。この学校の生徒たちは、その前に訪れた揚梅という町の高校の生徒たちと同様に、お互いに仲良く朗らかで気さくな様子であるように感じられたが、それもまた台湾の青春映画から受ける印象と矛盾しなかった。校庭の近くには、低木に赤い花がちょうど見頃のように咲いていたが、後で調べたら、山桜花という南方系の桜であったようだ。かつて日本人の手によってよく植えられたらしい(黄霊芝『台湾俳句歳時記』言叢社、2003年、による。ちなみにこれは、台湾で生まれ育った著者が日本語で書いた、台湾の季節感が溢れる貴重なすばらしい本)

 まぶしく美しい南国の風景を見ながら、台湾の映画人たちが高校時代に思いが深い理由もわかったような気がした。彼らにとって高校時代とは、未知の世界へと開かれていながらまだどこか守られた、もう子どもでもなくまだ大人でもない、格別に映画的な時空なのかもしれない。

 未来はそんな所から巣立って行く若い人たちのためにあるのであって、書店やら本やらの趣味のよさに関心してばかりいてはいけないな、ともこの文章を書いていて反省してきた。
by kohkawata | 2012-03-10 01:10 | 現代中国の映画 | Comments(3)

おばあちゃんを歌う

  この年末年始は、この春にでるはずの拙著 ― 香港の映画についての本 ― の最終的な詰めの作業にだいたい専念していた。この本にまとめているテーマについてはずっととても楽しく研究し執筆してきたのだが、今は細かいミスを消していくなど、ちょっとさえない工程である。まだ終わらないが、終わりは近いと思って、もうひとがんばりしよう。

 ところで、年末の紅白では植村花菜の「トイレの神様」が注目されたらしい。私も作業をしながらたまたま聴いていた。亡くなった祖母への追悼の歌で、おばあちゃんのことをテーマにした歌謡曲が流行るのは日本ではめずらしいことかもしれない。涙目で「おばあちゃん、ありがとう」などと歌われると、あまりのベタさにひるんでしまうが、素直なのは悪いことではないし、多くの人が共感するのもわかるように思う。
 
 おばあちゃんを歌ったもので私が思い出すのは、孫燕姿(Stefanie Sun)の「天黑黑」である。彼女はシンガポール生まれで台湾を拠点に活動してきた歌手で、この曲は代表作の一つである。詞は廖瑩如とApril、曲は李偲菘、2002年の発表。

 歌詞は以下の通りで、翻訳してみた(わりと意訳です)。

我的小時候 吵鬧任性的時候 子どものころ、遊び回ってわがままいっぱいだったころ
我的外婆 總會唱歌哄我    おばあちゃんはいつも歌ってわたしをあやしてくれた
夏天的午后 老老的歌安慰我 夏の日の昼下がり、なつかしいあの歌はわたしをなぐさめ
                     てくれた
那首歌 好像這樣唱的     その歌はこんな感じだった

天黑黑 欲落雨 天黑黑 黑黑 空が暗くなってきた いまにも雨が降りそうだ
                     空が暗くなってきた ますます暗くなってきた

離開小時候 有了自已的生活  幼い日々が過ぎ去ると、自分の生活ができた
新鮮的歌 新鮮的念頭      新鮮な歌があり、新鮮な考え方に夢中になった
任性和衝動無法控制的時候   激しい気持ちに揺り動かされてどうしようもなくなった
我忘記還有這樣的歌       そしていつのまにか忘れてしまった、こんな歌があったこ
                       とを

天黑黑 欲落雨 天黑黑 黑黑   空が暗くなってきた もうすぐ雨が降る
                      空が暗くなってきた ますます暗くなってきた

我愛上讓我奮不顧身的一個人  自分なんかどうなってもかまわないと思えるほど人を愛
                       した
我以為這就是我所追求的世界  これこそ追い求めるべき世界だと思った
然而橫衝直撞被誤解被騙     懸命にがんばった、でも誤解され、騙された
是否成人的世界背後 總有殘缺 大人の世界の背後には、どうしようもない何かがある
                       のだろうか

我走在每天必須面對的分岔路  毎日のようにわかれ道を歩き続けなければならな
                       かった
我懷念 過去單純美好的小幸福 そんな時、昔の単純で美しい小さな幸福をなつかしく
                       想い返す 
愛總是讓人哭讓人覺不滿足   愛のために人は泣き、愛のために満足することがない
天空很大卻看不清楚 好孤獨  空はどこまでも広いはずなのに、よく見えなくて どうし
                       ようもなくさびしい

天黑的時候 我又想起那首歌  空が暗くなってくると 思い出す あの歌を
突然期待下起安靜的雨      そして、ふと静かな雨が降ってくれればと願う
原來外婆的道理早就唱給我聽  そうだ、おばあちゃんは本当のことを歌ってきかせてく
                      れていたんだ
下起雨也要勇敢前進       雨が降っても前を向いて歩いていかなければならない、
                      と

我相信一切都會平息       きっとすべて穏やかに静まるだろうと信じたい
我現在好想回家去        いつかあの家に帰りたい。

天黑黑 欲落雨 天黑黑 黑黑  空が暗くなってきた もうすぐ雨が降る
                     空が暗くなってきた ますます暗くなってきた

 
  幼い頃自分をかわいがってくれたおばあちゃんにたいして、大人になった今、悔やみの気持ちを抱きながら感謝する、というテーマはたしかに「トイレの神様」と同じである。もっとも、「トイレの神様」が悔やみの念を全面に率直に出しているのと異なって、「天黑黑」は幼かった自分と今の大人になった自分とを短い言葉で凝集的・反省的に表現していて、ベタになりそうなテーマを巧みに詩的に表現していると思う。

  なかでも、おばあちゃんの歌を回想して繰り返し歌われる「天黑黑 欲落雨 天黑黑 黑黑」の部分はいいなと思う。このフレーズだけは普通話ではなく、方言(閩南語らしい)で歌われている(おばあちゃんのルーツが示されているわけだ)。「てぃーおーおー べいろぉほぉー てぃーおーおー おーおー」と聞こえ、「お」の音が脚韻となっているが、出だしのパラグラフ全体も「お」ないし「おぅ」を脚韻としており、他のパラグラフにも脚韻がみられ、そうした音の響きも歌のリリシズムを高めているように思う。このフレーズは、音だけではなく内容的にも、流動的な自然の情景を映し出すとともに、子どものころの不安感と祖母のたたずまいとを象徴的に表していて、効果的だと思う。

  一昔前までと異なり、中国語圏の歌は日本ではすっかり紹介されなくなった(この衰退のプロセスは文化社会学的に研究するとおもしろいかもしれない)。台湾をはじめ中国語圏で長く広く人気のある、この孫燕姿のCDの日本版は一枚も存在しない。

  もっともテクノロジーは国境という垣根をずいぶん低くした。「天黑黑」はi-tuneで簡単にダウンロードできる。

 「トイレの神様」とあわせていかがでしょう?
by kohkawata | 2011-01-10 23:22 | 現代中国の映画 | Comments(0)

ポスト満州の映画、など

 四方田犬彦・晏妮編『ポスト満州映画論:日中映画往還』(人文書院、2010年)

 私が一応会員になっている、「中国文芸研究会」の「映画の会」というところでこの本が先日「書評対象」となって討議された。私も参加しようと思って、この本を読んでみた。以下、思ったことを簡単に。

 前世紀、日中の歴史はマクロにみればずいぶんひどいものだったが、ミクロにみれば、いろんな交流があって、日中の先人たちはそれなりにがんばってきたんだなあ、と思う。当時の日本を代表する(と言ってよいのだろう)映画評論家の岩崎昶は、中国の左翼的な映画を継続的に紹介してきたし、満映のスタッフの一部は敗戦後も中国に留まり映画技術を中国人に教え共同で映画を撮ってきた。あるいは大島渚は満州帰りの日本人の運命を象徴的に描くなど、彼なりに日本社会の外と内が抱える異物を問題化しようとしていた。

 中国側の人たちもまた、満州に残った日本人を、「孤児」としてであれ技術者としてであれ、受け入れてきた。日本映画についても、中国における映画の中心地であった上海で技術的にも人的にもいろいろな形で受け入れてきたし、戦後も1950年代後半までは日本映画祭を行うなど、日本映画を紹介していた。この辺のことは、編者晏妮氏の著作『戦時日中交渉史』(岩波書店、2010年)に詳しいようだが、取り寄せているところでまだ読んでいない。

 中国のことを日本にいて想像するとき、とりわけちょっときな臭い事件があった時には、日中の数多く先人たちが今日よりもはるかにひどい大状況にもかかわらず相互的な影響や協力関係をそれぞれの情熱を込めて重ねてきたことを思い起こすことはいいことではないかと思う。そして、今もまたそうした努力をしている人は、とくに日中間にあっては、きっとたくさんいらっしゃるのだろう。

 ところで、一番印象に残ったのは、四方田氏の引用している、「日本国家は『満州国』の葬式を出していない」という竹内好による1963年の言葉。私の祖父母も満州で結婚し家庭をもった人だ。そしてたしかに、彼らの満州・中国での経験は、エピソード的な断片以外に、孫の私に不思議なほど伝わっていない。

 だが、葬式とは何だろうか。人であれ物であれ、何かが亡くなった時、どのみち満足できるような葬式はだせない。それに、満州がとりわけ服喪が足りないというのではない。日本が統治し侵略したすべての地域の服喪はないがしろなもののままだし、そもそもそんな大きな歴史からこぼれ落ちる無数の死が私たちの世界には充ち満ちている。思うに、歴史家の使命とは、大きめの事件・現象について、少し時間をおいてから、細部を正し全体を総括することによって、ちゃんとした葬式をだす、ということなのだろう。それは取りこぼしのある、あるいは取りこぼされてしまうものを生み出す、終わりのない作業であり、多分に呪術的な行為であるのかもしれない。

 などと自由連想的にいろいろ考えたのであった。

 ついでと言っては何だが、最近読んだ映画の本で特別におもしろかったのは、山下博司・岡光信子『アジアのハリウッド:グローバリゼーションとインド映画』(東京堂出版、2010年)。現在世界一の製作本数と入場者数を誇るインド映画の、歴史・多様性・地域性など、インド映画について信じられないほど詳しく書いてある。そしてインド映画を通じてインド社会の断面が立ち上がってくるようにも書かれている。私のインドとインド映画についての知識がほとんど皆無であることもあるのだろうが、この本の情報量はとにかく圧倒的。
by kohkawata | 2010-12-05 13:09 | 現代中国の映画 | Comments(0)

余華と霍建起など


 そろそろ新年度で、一年でもっとも忙しい時期になってきた。しかもこれから3ヶ月ほどかけて仕上げる予定の原稿もあるので、しばらくはブログを書く量は減るかもしれない・・・しかし、ブログを書くのは思っていた以上に楽しいので(言いたいことがいろいろあるらしい)、やはりそれなりに書くかもしれない。

 ここで書こうと思いながら、まだ書けていないのは、とりわけ中国の作家余華の『兄弟』(泉京鹿訳、上下巻、文藝春秋、2008年)のことと、映画監督霍建起(フォ・ジェンチイ)の、最近日本で公開された『台北飄雪』(2008年、邦題『台北に舞う雪』)のこと。

 前者は、ある兄弟の、文革から現代に至る、安易な叙情性などすべて吹き飛ばすような、苛烈な物語であり、それは現代中国人の戯画的な自画像としてふさわしいものなのだろうなと想像する。本土の中国の人々が歩んできた現代史を、教科書的にではなく感覚的に知りたいのであれば、同じ余華の『活きる』(飯塚容訳、角川書店、2002年)とあわせてこの小説を読むのが一番手っ取り早いかもしれない。

 後者は、対照的に、声を失った新人歌手の女の子が逃げ出した田舎の町で純朴な青年に出会って癒される、という日本の少女漫画のような抒情性たっぷりなもので、私には共感するのが難しいプロットではあるが、しかし隅々まで美しい映画であった。この監督は、日本でたいへん好評であった『那山、那人、那狗』(1999年、邦題『山の郵便配達』)以来、私の知るかぎりずっと、中国の奥地の山里、大都市重慶の下町、地方都市の住宅地といった、必ずしもさほど美しいと感じられてこなかった自然や街の風景を、甘いあるいは苦い人情話に織り込みながら、美しい情景に仕立てあげることに優れている。風景に抒情を溶け込ませることの好きな日本人には馴染みやすい演出の仕方だといっていいだろう。『情人結』(2005年、邦題『初恋の想い出』)のハイライト・シーンでは、息子の自立に怯える母親が窓越しに外をのぞきみると、ちょうど息子が恋人を自転車の荷台に乗せて過ぎ去っていくのがみえるのだが、その二人を取り囲んで祝福するように無数に咲き誇っている白いリラの花々が映し出される。散りゆくことを強く予感させる、この美しく悲しい情景は、霍建起の映画のなかでも私にはとくに印象的である。

 今回の『台北飄雪』の舞台となった平渓の風景はたしかに侯孝賢の『南國再見、南國』(1996年、邦題『憂鬱な楽園』)などによってすでに世に知られたものではあるが、霍建起はこの山間の町を箱庭的に美しくかわいらしいものに仕上げている。ちらと映し出される台北の夕暮れもすばらしい。監督自身満足のいく映画ではなかったというサインも読みとれたが、最後の青年の出立のモチーフは、甘い幻想から醒めた男が何を求めるのかなどといったことを考えさせる、味わい深いものであった。そういえば、『那山、那人、那狗』のテーマの一つは、息子がたくましく成長し自立していくことへの父親のアンビバレントな感情にあり、この監督はずっと同じようなことを表現しようとしてきたのかもしれない、と思う。
by kohkawata | 2010-03-22 01:05 | 現代中国の映画 | Comments(0)

最近おもしろかった映画関連、3本


『白銀帝国』(桃樹華監督、中国・香港、2009年)

 これは傑作の予感のある映画。19世紀から20世紀への世紀の転換期前後、山西で代々金融業を営んできた古い家の物語。
 まず、中国の近代化のなかで金融システムが揺らぎ治安も悪化して、金融業の旧家が時代の荒波にもまれる、という状況設定が興味深い(なぜ山西のような辺鄙な地域に金融業が栄えたのか、私には謎である)。そして、物語の主筋もかなりいい。この揺れる旧家の三男が西洋的な教養を身についた家庭教師の女性に惹かれ結婚を願うが、その彼女を三男の父親が自分の後妻にしてしまう。そのために三男は酒色に溺れるようになるが、彼女が巧に夫を欺き家を抜け出して・・・というものだ。あるいは、金融業が危機に陥ったが、実家の庭に実は先祖が埋めた銀が大量に埋まっていて・・・といったモチーフも楽しい。
 しかし残念なことに、主役たちの配役がよくなかった。三男を演じる郭冨城は、『父子』(譚家明監督、2006年)で迫真の演技をみせたのが忘れがたい香港出身の役者だが、この映画では不調。初恋を忘れられないこの青年はどう考えてももっと若い役者が演じなければ、文字通り「話にならない」。継母役の郝蕾も、「レッド・クリフ」の林志玲など最近の本土の女優によくあるタイプ、つまりモデル的にきれいだけれども演技は大根、という感じだった。もっとも、千両役者がいない、というのは現代の本土の中国映画全体が共有する問題でもあり、香港のベテラン俳優に頼っている点でもこの映画は典型的である。
 とはいえ、物語世界は、最近の中国映画によくみられることだが、実に豊かである。加えて、中国には成長する市場があり、撮影所を含めた撮影環境も充実しているようで、さらに香港や台湾など近隣地域の映画の人的・文化的伝統を活かすこともできているので ― ちなみにこの『白銀帝国』は『悲情城市』(侯孝賢監督、台湾、1989年)をかなり意識して構想したのではないだろうか ― 、中国本土のこうした流れのなかからいい映画が生まれてくることは大いに期待できるだろう。あとは、才能と魅力のある役者が新たに出てくれば、そして収益の短期的獲得の最大化を最優先にするような極端な「ハリウッド化」に多少は歯止めがかかれば、傑作が出現するのは時間の問題だと思う、というか、そうなればいいなと思う。


『映画でたのしく中国語 ― アン・リーの〈飲食男女〉』(信世昌主編・LiveABC製作東方書店、2009年)

 李安の『飲食男女』(1994年、台湾、邦題『恋人たちの食卓』)は何度見ても楽しい。細部まで配慮の行き渡った、高度な文学的エンターテイメントである。
 例えば、この映画は朱さんという中華料理の名コックが主人公なのだが、その三女の彼氏という脇役でさえも実に上手に描かれている。両親が金儲けのために海外を飛び回っているのでがらんとしたマンションに一人暮らしをしているという国倫という名の彼は、寝たきりになって意識のない祖母を病院に毎週見舞いにいき、祖母がカメラのフラッシュにだけは反応するようなので、いつも写真を撮って帰ってくる。その写真を現像して、人間的な表情を欠いた老いた老女の顔が浮かび上がってくるシーンは、この若い男の孤独と愛情を巧に示していると思う。
 この本はこの李安の傑作の正確なスクリプトとDVDの映像を使っての語学教材で、台湾師範大学の人たちと台北の会社が共同開発したもの日本語版である。セリフの細部もまた行き届いたものなので、中級の教材としてもとてもよいものであろう。もっとも、映画は台北が舞台で、登場人物たちの発音は普通話と少し違って、「国語」(台湾の標準語)ふうである。北京出身という設定の朱さんも、この教材には「北京なまりがある」と書いてあるが、北京出身の知人によれば「残念なことに発音がへん」だそうで、やはり国語的であるようだ。けれども普通話偏重の時代にそれはそれで貴重なことだと思う。
 ちなみに、『飲食男女』の続編が予定されているらしい。出演に帰亜蕾や周迅の名が伝えられている。李安はどうやら関わっていないようだが、少し楽しみ。とはいえ、あまり知られていないがこの映画の続編的な映画はすでに存在していて、『今天不回家』(張艾嘉監督、台湾、1996年)がある。これは『飲食男女』のフェミニズム的な批判にもなっていて、おもしろい。


『コロンビアのオイディプス』(原題Edipo Alcalde、ホルヘ・アリ・トリアーナ監督、コロンビア=スペイン=キューバ=メキシコ、1996年)

 これは「キューバ映画祭2009」の一本として東京と大阪で、日本では初公開されたもので、最後の公開になるかもしれない。私は先週の日曜日に十三の第七芸術劇場でみた。脚本は、ガルシア=マルケスで、ソフォクレスの『オイディプス王』を、現代のコロンビアに舞台を代えて再現したもの。たいへんおもしろかった。
 日本語による情報はあまりなさそうなので、話の大筋を書いておこう。
 三十才になる男が村長に任命されて、反政府ゲリラの活動などのために極度に治安が悪化している山間の村に入ろうとする。途中、橋の上で正体不明の一団に襲撃されるが、村長は同行の警官らとともに応戦し撃退する。村に入ると、村の有力者ラヨが何者かに殺される事件がおこったところで、村に和平をもたらそうと意気込む新任の村長は早速犯人探しに乗り出す。手がかりはなかなか見つからないが、村長はラヨの未亡人ヨカスタに、だいぶ年上ではあったが、誘惑され惹かれ、性関係をもつようになる。村長の勇敢な努力にも関わらず治安がますます悪化していくなか、ヨカスタの弟は、村長は実はラヨの息子なのだと仄めかす。そして、ラヨはかつて息子に橋の上で殺される夢をみて、生まれてきた息子を殺害するように配下の者に命じたのだ、とその妻であったヨカスタから知らされる。それは三十年前の話で、村長はちょうど三十才なのである。そして、ラヨの遺骸を調べてみると、そのこめかみに埋まっていた銃弾は、あの橋の上での応戦のさいに村長が放った銃弾であることが判明する。自分が殺したのは本当に父親なのか、そして自分の子を妊娠しているヨカスタは自分の母親なのか ― 村長は戦慄しつつ、ラヨの生まれたばかりの息子を殺したはずの老女を探しだして、事の真相を問いただす。老女は、ラヨの息子を秘かに他の夫婦に預けたことを告げ、その夫婦とはたしかに村長が自分の両親と思っていた夫婦なのであった。ヨカスタは、愛人=息子が真相を知ったことを知り、自殺する。村長は盲目の乞食となってコロンビアの都会を放浪する。
 この映画をみて思ったことの一つは、映画の感想としては的はずれなことかもしれないが、この映画はたしかに『オイディプス王』のかなり忠実な翻案ではあるものの、しかしフロイトたちのいうようないわゆる「エディプス・コンプレックス」の物語としては感じられなかった、ということである。例えば、魅惑的な未亡人として登場するヨカスタが実は生みの親であった、という設定には十分な迫真性がない。この映画でも再演されている、『オイディプス王』における、王国の秩序を揺るがせた殺人事件の犯人を探したらそれが実は自分自身であることがわかったとか、亡き王の妃と結婚したらそれが実は自分の母親であることがわかったといったモチーフは、たしかに信じがたいほど独創的である。しかし、こういった独創的で特異でもあるモチーフは、「エディプス・コンプレックス」という、単純にいえば、邪魔者をどかしてママを独占したいという幼い男の子の素朴な心理的現象とは、基本的に別の次元のものとして考えるべきなのではないだろうか。ただ、ソフォクレスの戯曲があまりに天才的で、読者のさまざまな感情を受けとめることができる大きなうつわなので、そこにエディプス・コンプレックス的なものや、禁忌ないし規範の侵犯といった人類学的・社会学的なテーマを感じとることもできる、ということなのだと思われる。しかし、この辺の問題はちゃんと論じようとすると、かなり長い話になりそうだ。
by kohkawata | 2010-01-18 14:44 | 現代中国の映画 | Comments(0)