カテゴリ:近世日本の文化( 5 )

浄瑠璃の本、二冊

 人形浄瑠璃について、二つの、新しくおもしろい文献を読んだ。

 一つは、橋本治『浄瑠璃を読もう』(新潮社、2012年)。これは、現代の日本を代表するのであろう思想家にして江戸芸能のかなりの愛好家でもある橋本治による、浄瑠璃についての「大人の感想文」のようなもの。「感想文」というのは、様々に開陳される自説にさほどの根拠も示そうともせず、「私はこう感じた」で押し通しているからだが、それでも、「日本人のメンタリティの深層部はこれ[人形浄瑠璃のドラマ]を共有するこによって形成されて来た」という大胆な前提から出発する本書は、私にはたいへん面白いものであった。

 取り上げている作品は、浄瑠璃の代表的な作品8本であるが、中心になるのは、浄瑠璃全盛期の代表作と目される三本、『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』、についての三つの章であろう。この三本は、浄瑠璃史上の代表作であるだけでなく今でも文楽で(多分)最もよく上演されるものであるにもかかわらず、現代人にはなかなか理解しがたい話法があり、共感しにくいドラマでもあるのだが、それを橋本は、にもかかわらず現代的なドラマでもありえる、という視点から丁寧に読解、説明していく。

 とりわけ私におもしろいと思われたのは、『忠臣蔵』のお軽と勘平の二人を、悲運にみまわれた武家に仕えているにも関わらず、実は忠義やら敵討ちなどといった武士の倫理が身にしみず、つい恋などにうつつをぬかしてしまうような、「現代人」、つまり江戸の現代人でもあり平成の現代人にも通じる人間像なのだ、と橋本が読んでいる部分だ。お軽は勘平とのことにしか興味のない「軽い」女だし、勘平は自分の体面ばかりを気にする軽薄な男だ。浄瑠璃の作者たちは、こうした人間を、愚かしく描きながらも、大星由良助(=大石内蔵助)をほとんどさしおいて、わざわざ主人公にしている。だから、『仮名手本忠臣蔵』という浄瑠璃の代表作が中心的に描いているのは、実のところ主君の仇を討つ忠臣といいうよりは、「義理も人情もへったくれも」ない、町人的で現代的で「生々しい」人間なのだ、と橋本は言う。

 また、近松門左衛門の『冥土の飛脚』も紹介しているが、これもおもしろい。梅川と忠兵衛の悲劇を、近松は徹底的に突き放している、そこに圧倒的な文学性があるのだ、と橋本は主張している。例えば、中之巻の冒頭に「浮気烏が月夜も闇も、首尾を求めて逢おう逢おうとさ」とあるのだが、この「逢おう」は烏の鳴き声「阿呆」に掛けられており、橋本はこの笑えない駄洒落に、公金を預かったままふらふらと梅川に逢いに行ってしまう忠兵衛にたいする、作者近松の突っ放した冷淡さをみる。橋本の「あほう」の説明に導かれて、忠兵衛のように愚かなまま死んで行く人間の運命に、改めて慄然とさせらた。考えてみれば、「冥土の飛脚」というタイトルからして、突き放しきった、薄気味悪いほど残酷な、しかしどこかユーモアのただよう文学性をもっているではないか。

 橋本の説明はそのすべてが説得的というわけではないが、いずれにせよ通読してみて改めて感じるのは、この全盛期辺り以降の浄瑠璃・歌舞伎をはじめとする江戸後期の、奇妙に被虐的だったり不条理に残忍であったりする文化の諸表現は、やはりなかなか難解だな、ということである。そのわかりにくくどこか愚かしげな江戸後期の文化の様子は、今のじわじわと頽落していくようにもみえる日本の社会とも重なってみえるようで、その点でも私はこの本の浄瑠璃の現代的な読み方に興味をもつ。


 もう一つは、細田明宏編『二〇世紀における人形浄瑠璃の総合的研究』(2012年)。科研費の報告書として作成されたこの冊子は、橋本の本とは対照的に、かなり専門性の高い論文集で、人形操法の心得を和歌の形式で記した『操曲入門口伝巻』という文書についての共同研究を中心に(とくに現代の操法との違いに詳しい)、近代以降の浄瑠璃についての丁寧な研究の成果が示されており、こういうふうに学問研究というのはしっかりと進展していくのだな、と感心させられる。

 この冊子のなかには、論文だけではなく、下伊那地方の素人義太夫(義太夫は浄瑠璃にほぼ同義)の担い手であった人たちへの細田氏によるインタヴューも収録されており、その一つが飯田の金井はま子という女性へのインタヴューなのであるが、そこから浮かび上がってきた彼女の人生には、ある種の感慨を覚えた。

 この人は1913年の生まれで、小さい頃にトロッコに触れて左腕を切断する大怪我をしてしまう。責任を感じた親が、「年をとってからの楽しみに」と思って彼女に義太夫を習わせたのだという。詳しいことはわからないが、かつて浄瑠璃というものが、楽しみの少ないであろう人生に慰めをもたらすものとみなされていたことが推察できる。

 ところがおもしろいことに、両親の心配をよそに、どうもこの人はそれなりに充実した人生を送ってきたようなのである。彼女は、片腕を失ったし、戦争で未亡人になるし、飯田の大火に被災するなど、ずいぶん苦労を重ねているのだが、その一方で、子ども三人を育て、義太夫を通じて交友関係を広げながら地域の義太夫グループの一員として活動を続ける。大阪の文楽を抜けて流れ流れて飯田にきたという師匠とのエピソードもニヤニヤという感じで語ったりもしている。浄瑠璃というものを一つのきっかけにしながら、なかなか悪くない人生じゃないか、人生は人智を超えるんだなあ、と感じた。それもまた浄瑠璃的人生観というべきか。


追記:この『二〇世紀における人形浄瑠璃の総合的研究』はネット上で読めることを発見しました。こちらです
by kohkawata | 2012-09-08 20:23 | 近世日本の文化 | Comments(0)

石田梅岩、再び

 
 先月、私の論文が入っている、片岡龍・金泰昌編『公共する人間 第2巻 石田梅岩:公共商道の志を実践した町人教育者』が出版された。

 私の論文「石田梅岩の普遍主義 ー 閉ざされた国家的秩序の中から」は、私にとっては4本目となる石田梅岩についての論文である。香港映画についての本を出した人間が近世日本の儒者を扱うとはどういうことか、と怪訝に思われるかもしれない。その辺のことは、例えば、最近掲載された、「研究室の窓」という私の研究についての文章を読めば、多少はわかってもらえるかもしれない。これは高校生に読んでもらうために企画された、勤め先の大学のweb上の文章。

 私はいつも、『愛の映画』で論じた5人の映画作家をはじめ、論じるに値すると自分自身が判断して勝手に研究している。しかし、梅岩に関しては例外で、ずっと人から依頼されて書いたりしゃべったり、ということが続いてきた。最初は、私が1997年に京都学園大学の講師となった直後で、当時学長であった傳田功先生から、梅岩について書いてくれと依頼されたのだった。傳田先生は、農業経済学者で、とくに明治期日本の農業経済史を専門とされていた。この時期の農業を理解するうえで欠かせない老農たちの活動の起源の一つには心学があり、それもあって梅岩を重要な人物であると考えておられたのだだろう。その後も、二年に一度くらいのわりあいで、学内外の人なり機関から梅岩について書いてくれとかしゃべってくれと依頼されてきた。これもご縁と思ってだいたい引き受けて来たが、こういった具合に何度も頼まれるのは、勤め先の大学が梅岩の生まれた亀岡にあるためであり、またおそらく、梅岩については多くの人が関心をもちながらも専門的に研究している現役の研究者が存在しないといっていい、という事情もあるのだろう。

 今回は、「公共哲学京都フォーラム」という研究団体と東北大学の日本思想史家の片岡龍先生からの依頼で、論考を準備し、シンポジウムに参加して議論する、ということになった。このシンポジウムは去年の夏に開催されたのだが、そのときの記録が今回の本の元になっている。

 この「公共哲学京都フォーラム」には、梅岩を取り上げた回の前後数回に参加させてもらったのだが、驚きの連続であった。まず、活動の形式がハードであった。様々なテーマで年に5、6回開催されているようだが、その1回が3泊3日の日程で、毎日9時から5時、6時まで討議するのである。さらに、参加者が、韓国出身の哲学者金泰昌(キム・テチャン)先生をはじめ、国内外の錚々たるメンバーが揃っていて、まるで「賢人会議」であるかのようであった(といってもよく存じ上げない方もいたが、肩書きが、東京大学名誉教授とか、りっぱな人が不思議なほど多かった)。当然、石田梅岩を捉える関心や学問的なスタイルも、これまでになく、かなり多様でアカデミックなものとなった。

 そんなこともあって、このフォーラムで発表するのには多少プレッシャーもあったけれども、おかげで改めて梅岩についてこれまで以上にしっかりと調べ考え直すことができた。その内容については、私の論文を読んでほしいが、一言でいえば、梅岩という学問的にもステレオタイプ化されてしまっている「偉人」を、特定の歴史的・社会的状況のなかに生きる、一人の人間としてよりリアルに、また多角的に捉えることができたように思えた、ということになるだろう。私が依頼に応じて散発的に行ってきた梅岩研究の決算報告書的なものにもなっていると思う。

 今後、梅岩に関わる研究はどんな方向に発展していくだろうか。石田梅岩その人については、この本でだいたい重要な論点は出そろったように思われる(もちろん、後世畏るべし、まったく新しい視点で梅岩を読み直す、ということが行われるかもしれないけれども)。これらの論点を発展させていくのも一つの道筋かもしれないが(例えば、梅岩の言語のより詳細な思想史的解析の仕事はまだ残っているだろう)、それ以上に成果が期待できるのは、梅岩以降の石門心学の発展と衰退の歴史であろう。これについてはもちろん、石川謙による、おそらくは誰にも超えられなような大きな仕事があるのだが、もうずいぶん昔の研究である。この間、国家や思想史についての一般的・学問的な理解はそれなりに深まり、心学周辺の諸研究も諸々の蓄積があるだろう。それゆえ、若くて勤勉で優秀な研究者がこのテーマに取り組み直せば、かなりいい研究ができるかもしれない。私はこのテーマについては、修士課程の学生のころ部分的に取り組んで、1994年の修士論文と単発の論文「道徳と主体」にまとめたが、もちろん若書きだし、それ以降手をほとんどつけておらず、残念ながら今後もトライする時間はないだろう。どなたか挑戦してみてはどうでしょうか。

 なおこの本には、フォーラムのなかで口頭で行われた討議の様子も収録されており、私の発言も載ってしまっているのだが、そのしゃべりぶりを読み直すと、奇妙にぶっきらぼうだったり冗長だったりして、ちょっとがっかりした。私は、こういうたくさんの人が集まっている場でしゃべるときに、いろいろなことにつまらない配慮をしてしまう弱さがあるようだ。本来は、錚々たるメンバーであっても、肩書きや年齢と関係なく対等に遠慮なく議論するべきだし、黙してかまわないことは黙してさっさと前に進まなければならないと思う。いい年をしてまだまだ修行が足りないのであった。
by kohkawata | 2011-11-28 00:19 | 近世日本の文化 | Comments(0)

「通俗道徳の役割」

 「通俗道徳の役割」という題の私の文章が載っている、井上俊・伊藤公雄編『日本の社会と文化』(世界思想社)が今週辺りに本屋に出るそうだ。
 
 この本は、全部で11冊からなる『社会学ベーシックス』というシリーズの一冊で、このシリーズは全部で270点ほどの社会学関連の基本文献の解題をしている。編者によれば、社会学の知的遺産の目録となることを企てているという。

 通俗道徳とは歴史家・思想史家である安丸良夫氏の命名であり、近世中期に始まり次第に日本全域で支配的となっていく民衆道徳のことで、安丸氏は『日本の近代化と民衆思想』という本のなかでこの通俗道徳についてかなり詳細に分析している。私の短文は氏のこの通俗道徳論を紹介するとともに、安丸氏のその後の研究についても短くまとめている。
 
 私が安丸氏の研究にはじめてふれたのは、大学院に進学したばかりの1992年の春であったと思う。とある小さな読書会で、メンバーの一人が中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会、1982年)を取りあげて、そこに安丸良夫の研究がわりと詳しく詳細・分析されていたのである(後で知ったのだが、中井氏と安丸氏は、学生時代の知人であったそうだ)。

  品切れだったので古本屋で探し出した『日本の近代化と民衆思想』を読んで、大学を卒業したばかりの若造の感想としては滑稽なほど僭越だが、これは非常に論理的でクレバーな研究だと思った。当時私はアルチュセールのイデオロギー論などを読んで、社会的な次元の諸力がどのように個々の人間に働きかけるのかといったことに興味をもっていたのだが、安丸氏の通俗道徳論は、イデオロギー的なものと人々の言動との複雑な関係をかなり見事に分析しており、日本のその後の近代化全体への明晰な展望も示している、と思った。

 当時は氏の研究の重要性は、歴史学・思想史学以外の人は、十分には理解されていなかったと思う。しかしその後、次第に広く理解されるようになり、とくにここ数年は氏の古い本が相次いで新書化されたり、氏の研究についての専書(安丸良夫・磯前順一編『安丸思想史への対論』(ぺりかん社、2010年)が出たりと、相当にしっかりと再評価が進んでいる。

  その後私はこの通俗道徳周辺の、近世前期の民衆の心性を自分なりに研究して、次第に通俗道徳論のいくつかの重要な論点について異なる理解をするようになった。それについては拙著『隠された国家』で詳しく書いたので、ここでは繰り返さない。それでもやはり氏の通俗道徳論は今でも、これ以上おもしろい日本の思想史はないといえるほどのものだと思う。

 今回、執筆のために安丸氏の論文をほぼすべて読み直してみたのだが、個人的にとくにおもしろいと思いながら短文には(詳しくは)書かなかったことが二つある。

  一つは、安丸氏の人物伝はとりわけすぐれているということ。『出口なお』(朝日新聞社、1977年)や、短文ながら石田梅岩論(「生活思想における「自然」と「自由」」『文明化の経験』岩波書店、2007年)はとてもおもしろい。石田梅岩関係の文献は一通り読んでいるつもりだが、安丸氏のものが人間としての梅岩をもっともよくとらえていると思った。通俗道徳論をはじめ、安丸氏の思想史というものも、こうした一人一人の人物への洞察というものに支えられていことがよくわかった。

  もう一つは、安丸氏の通俗道徳論というのが、結局は自分の話にもなっている、ということである。彼は富山の砺波地方の農村の出身であり、ここは伝統的に真宗信者の勤勉な人々の多い「通俗道徳」的な地域なのであるが、この地で生まれ育った安丸氏の研究もまた、繊細な他者への共感能力とともに、勤勉な営みの積み重ねの結果である。客観的な歴史研究のはずの氏の文章が自分史・生活史にもなっている、ということは、氏自身が「砺波人の心性」(『文明化の経験』)という論文 ― これは砺波という地域についての出色の分析 ― で回顧しつつ語っていることでもある。

  私もたまたま高校時代の三年間、砺波地方に住んでいたのだが、たしかにこの砺波の風土は特別に深く通俗道徳的なものだと感じられる。大きな扇状地にすみずみまでひろがった田園の風景のなかには、古木に囲まれた宏壮な家屋敷が散在しており、きれいに舗装された道路が、おそらくは自民党への強い支持を背景に、網の目状に張り巡らされていた。これらは多分に、この地域の人々の勤勉や倹約、あるいは権威への従順さなどといった通俗道徳的な姿勢がもたらしたものであろう。

 勤勉とか倹約というと、いくらかせこく未成熟な感じがするが、私が知り合った砺波地方の同級生たちは、たしかに真面目な人ばかりであったが、概してかなり大人びていた。家族や地域の期待をしっかり受け止めていて、その上にたって人生を展望しつつ高校生を勤めている、といった感じの大人である。今の日本の大部分の地域が大幅に失ったようにみえる、ある種の伝統的で道徳的なハビトゥス(習慣)が、この地方にはまだある程度生きていて、私はその残像を垣間見たのかもしれない。

 お釈迦様の大きな腕のなかで飛び回った孫悟空のように、生涯をかけて成し遂げられた極めて質の高い人文研究が実は自分のお話でした、というのは、別に悪いことでも矛盾したことでもないと思う。それほど他者の理解は難しいということでもあり、同時に誰もが他者たちと多くを共有している、大きな宇宙なのだ、ということもあると思う。
by kohkawata | 2010-09-15 13:46 | 近世日本の文化 | Comments(0)

渡辺保『江戸演劇史』


 今年の4月もひどく忙しく、このブログの更新もできなかった。新入生たちを迎え入れ、新しい授業をはじめ、新しい会議にもでなければならない。桜が咲いて散っていくのがいっそう怱忙と感じられて、ただでさえ移ろいやすいこの季節を年の変わり目とする日本の慣習に八つ当たり的に恨めしい思いを抱いてしまう。

 それでもこの4月は例年以上にたくさんの人たちと出会うことができたことは振り返ってみればよいことであった。個人的に知りあった人のことをブログで書くのはやめておこうと思うが、とくに外国から来た人たちといろいろとしゃべれたことは楽しい経験であった。

 忙しい合間に読んだ本で印象に残ったのは渡辺保『江戸演劇史』(上・下巻、講談社、2009年)。言うまでもなく、博識にして鋭敏な、歌舞伎研究の第一人者であり、この人の本はどれもおもしろいが、この新作はもう名人芸の域だと思う。

 今回の本は歌舞伎だけではなく江戸時代の演劇全般を扱っているのだが、その語り口自体がひどく演劇的で、正確な表現・分析とはいえないのではないかと思うところも多々があるが、しかし演劇が好きな人が読めば、たまらなくおもしろいと思うだろう。

 例えば、近松の『曽根崎心中』にふれた章で、渡辺は、そのもととなった実際に起こった心中事件のあらましを紹介してこう書いている。


  元禄十六年(一七〇三)四月七日、曾根崎の森で、男女二人の死体が発見された。心中である。
  男は、大坂で一番といわれた醤油屋平野屋忠右衛門の手代徳兵衛。二十五歳。手代といっても忠右衛門の兄の息子だから血縁の甥になる。
  女は曾根崎新地天満屋抱えお初。二十一歳。評判の売れっ妓である。
  二人の心中の原因は、男の転勤と女の身請け話のためであった。
 平野屋は江戸へも販路を拡張していた。江戸支店。ところがその江戸支店で事件がおこった。責任者が百八十五両という大金をもって逃亡した。忠右衛門はやはり血縁の者を江戸の責任者にしたいと思った。 当然である。それには十二人の手代のうち徳兵衛を養子の娘と結婚させて江戸へ行かせたい。転勤と縁談が一度にふりかかった。
 大坂での徳兵衛の担当は十二人の手代のうちで曾根崎新地一帯であった。
 天満屋のお初は一ト目で徳兵衛の地味で、さり気ないが隙の身ごしらえ、態度に惚れて、徳兵衛と恋仲になった。ついぞ客にいったことがない「将来をたのみます」つまり女房になりたいといった。それが徳兵衛を動かして深い馴染みになった。
  そこへふって湧いたように九州豊後国の客がお初を身請けして、今日明日にも本国へ下りたい。むろん天満屋は大喜びである。
  江戸と豊後。
  もう二人は一生逢えないかも知れない。そこで二人は心中した。(上巻、188-9頁)


  近松の『曾根崎心中』にはない、徳兵衛の転勤話を少し詳しく織り込みながら、二人が心中に至る様子を簡潔に、しかし劇的に書いている。「将来をたのみます」と本当に言ったのか、典拠は何だ、文章の主述が整っていないではないか・・・などといった疑問はでてくるものの、それでもそうか、徳様ではなくお初が口説いたのか、江戸と豊後だったのか、などと思わされ、読み物としてたいへんおもしろい。

  全編この調子で、あまりに長い間演劇の世界にどっぷり浸かってきたので、この巨匠はもうすべてが演劇的になっているのだと推察される。演劇を演劇的に語る通史 ― 日本の演劇研究には類例のない本だ。
by kohkawata | 2010-05-01 15:10 | 近世日本の文化 | Comments(0)

絵師金蔵

 先月末、高知県香南市の赤岡町にある、「絵金蔵」を見学した。研究者の知人(どなただったか忘れてしまった・・・)がここはおもしろいと教えてくれたのが一つの動機であった。絵師金蔵、略して絵金は、幕末前後に土佐で活躍した絵師で、彼の描いた「芝居絵屏風」がこの絵金蔵という古い米蔵を改装した小さな美術館に収められている。

 高知城下の髪結いの家に1812(文化9)年に生まれた絵金は、若くして江戸にでて狩野派に学び、土佐藩家老の御用絵師になったのだが、陰謀めいたもののために追放となり、民間の絵描きとなる。放浪ののち、赤岡のおばの許に身を寄せて、浄瑠璃・歌舞伎の物語を一幅の絵に凝集させた芝居絵屏風を数多く生み出し、土佐で広く好まれたようだ。

 Googleなどで検索しても見ることができるが、絵金の絵は、少し後の月岡芳年にも通じる、かなり露悪的なもので、私は元々あまり好きではなかった。どの絵も、浄瑠璃・歌舞伎の、もっとも残忍な場面を中心にすえて大げさに描いており(細部で物語の他の部分を再現していておかしみがあるのだが)、お約束のように真っ赤な流血がある。そもそも私は江戸時代も下った時期の芝居一般に十分な共感ができないのだから、絵金が好きになれなかったのも当然である。

 けれども今回絵金の絵を直に見て、また彼の来歴も知って、少し共感できるように思えた。一端をふれただけの印象だが、絵金は非凡な絵の才能をもっている人で、本当はどんな画材でも描けるのだが ― ちょっとしたスケッチなどにも彼の並々ならぬ才能があふれている ― 、時代の要求に従って、芝居絵をものした、ということではないだろうか。彼は土佐藩の御用絵師の地位を失わなくても、十分に優れた作品を生みだし続けたであろう。しかし同時に、おそらくはかなりの失意のなかで上方で歌舞伎・浄瑠璃をたっぷりと楽しみ学んだことのある絵金(これは近森敏夫『絵金読本』改訂版(香南市商工水産課刊行、2006年)にある説。この本は絵もきれいで、解説もわかりやすい)は、同時代の露悪的な歌舞伎・浄瑠璃の世界をかなり深く自分のものにしていたのだと思う。だからこそ、その芝居絵には、人形や役者による浄瑠璃・歌舞伎よりもいっそう生々しい迫真性が備わっているのだと思う。絵金の絵も江戸の終わり頃の歌舞伎も、人がいとも簡単に自害したり人を殺害するという露悪的なものであり、いかにも趣味の悪い作者と退屈しきった観衆との不毛な共犯の揚げ句、といった感じはある。けれども、そのようにして徹底して人間の悪を描くことの裏にはやはりそれなりの情念があるのだ。社会のまともな一員でなければならない、人を裏切ってはならない、人を殺してはいけない、といった普遍的な掟を侵犯してしまう、どうしようもない人間の性(さが)への共感が絵金の絵の迫真性を支えているように思う。

 私にはなかでも「浮世柄比翼稲妻」が印象的であった。わけあって脱藩して江戸に向かう途中に追っ手を見事に惨殺した美青年と、その美青年に同性愛的に惚れ込む侠客、という極めて頽廃したモチーフなのであるが、その頽廃がなお様式を保ちながら見事に描かれていると思う。

 ところで、この「絵金蔵」という絵金専門の美術館は、2005年に開館したもので、小さいながらもいろいろな工夫がこらしてあってとても楽しい所であった。また同館が発行を続けている「蔵通信」という小冊子も、おしゃれで楽しい冊子である(その一部はネット上でみられる)。私は少し前にある自治体の文化振興関係の委員をやっていたこともあって、地域の文化振興というのはともすると空疎なものになりかねない事情(官僚制と文化とは原理的に相性が悪いのだ、もちろん)を多少は知っているのだが、赤岡町のこの取り組みはたいへん優れた、模範的なものであるように思う。「旧長宗我部遺臣団の反山内体制の気風をうちに秘め、廻船問屋、商工業者の財力」(前掲『絵金読本』5頁)をもって栄えたこの町の歴史が、絵金を通じて立ちあがってくる。
by kohkawata | 2010-01-03 18:23 | 近世日本の文化 | Comments(0)