カテゴリ:近世中国の文化( 8 )

台南の古廟


 2月の下旬に台南の古い廟をたくさん見て廻った。台南を訪れるのは二度目で、前回は駆け足でよくある観光をしただけだったが、今回は少しゆっくり見物できた。

 台南にはたくさんの古い廟がある。そのことは、1930年代に台南に暮らした前嶋信次の『〈華麗島〉台湾からの眺望』や四方田犬彦『台湾の歓び』(2015年)などを読んで、かねて知識としては知っていたが、実際に台南の古い市街を歩いてみると、想像をはるかに超えて、街のそこかしこで大小様々な廟に遭遇し続けた。細い路地のどんずまりにも、賑やかな市場のなかにも、ひっそりと静かな住宅街の一隅にも、古廟はあった。廟の密度は、京都市中における寺社の密度をはるかに上回るだろう。

 台南は、よく知られているように、台湾で最も古くから漢族が住みついた街である。中国本土が、とくに19世紀半ば以降何度も大規模な内乱と戦渦に巻き込まれたのとは対照的に、また本土の都市や台北が近代化・現代化のなかで急速に発展しその市街地の容貌を大きく変えてきたのとも異なり、台南では平和が続き都市化もゆるやかであった。大東和重氏の『台南の文学:日本統治期台湾・台南の日本人作家群像』(2015年)を読むと、日本統治時代も、台南を訪れた佐藤春夫が台南をノスタルジックに「廃市」としてその荒廃の美を描くほどに、台南の変化はゆるやかであったようだ。ちなみに、この本によれば、 「廃市」という魅惑的なイメージは、フランス語圏からの輸入品だが、廃市という漢語そのものは北原白秋がその故郷柳川をそう呼んだのが最初であろう、とのこと。

 むろん、今日の台南は「廃市」どころではなく、どのエリアも大いに賑わっている。しかしそれでも、その古い市街地を歩いていると、古い廟は大切に残され、今なお神々への信仰はしっかりと残っており、廃市ではないにしても、「古都」という名にはふさわしいと思われた。近年では、台湾の人たち自身もこの古都を大いに再評価しているらしく、『移民台南』(魚夫、2013年)という本が売れたりして、台南に「移住」するのが流行っているのだとか。実際、古い市街を再生したエリアである五條港には、お洒落なカフェや雑貨屋が多くみられた。

 さて、廟に祭られている神々は、廟によって異なりかなりの多様性をみせるが、最も人気のあるのは、やはり媽祖であるようだ。台南のなかでも早くに開けた地区である安平に、海に向かって建っている媽祖を祭る安平天后宮は、なかなか壮麗なもので、 遠慮しながら撮った下の写真ではあまり伝わらないかもしれないが、 内部の装飾の豪華さは、人々の篤い信仰ゆえのものであろう。台南には媽祖を祭る廟としては他にも大天后廟と開基天后宮が著名で、どちらも信仰を集めている様子だった。媽祖は様々な名で呼ばれるが、最も多く見かけたのは、「天上聖母」という表記だ。この名前に、人々の媽祖への篤い気持ちが表れていないだろうか。


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 また、関帝、観音菩薩、臨水夫人なども、なかなかりっぱな廟に祭られていた。全体に、台湾海峡を挟んだ海の向う、福建省近辺での信仰が移植されたものが多いようだ。他にも、孫悟空を「齊天大聖」とよんで祀っている廟もあったし、織姫とその姉妹たちを「七星娘娘」として祀っている廟もあった。台南市の北隣の嘉義市には、日本統治時代の警官が神となって祀られている廟もあるらしい。誰が神となるのか、その辺の事情なり気持ちというものを知りたく思うが、よくわからない。ただ、実在の人物が神となっていく場合、不幸な亡くなり方をした人、あるいは夭折した人が多いようだ(関羽、臨水夫人、廣澤尊王、五妃、森川清治郎など)

 このように、祭られている神は多様であるものの、実際に多くの廟の様子を見て廻ると、それぞれの廟による違いよりも、むしろどの廟も同じような雰囲気の佇まいであることが印象的であった。

 廟の前には、たいていは石畳の広場があって、老木が木陰をつくっていたりする。そこに古ぼけた木の椅子が置いてあって、お年寄りがのんびりと腰をかけていたりする。廟の外観は、たいていは凹型の曲線を描いて反り上がっていく屋根が目立つ。しばしば電光掲示板が目立つところにあって、イベントの告知をしていたりする。内部に入っていくと、正面手前には、日本のものよりずっと大振りの線香が香炉のなかにたくさん刺され燃えていて、落ち着く匂いがする。その左右には必ず大振りで派手な色の生花がたくさん供えられている。かなり熱心に信仰している人たちがいる証であろう。香炉と生花の手前には、跪いてお祈りする人たちのための膝置きがある。どこでみたのも、茶色いビニール風の生地で覆われたクッションであった。実際に、跪いて、あるいは立ったまま、お祈りしている人たちがたくさんいて、お年寄りばかりではなく、ごく若い人たちも熱心にお祈りをしていた。

 祈る先には、もちろん神様がいらっしゃる。どの神様であれ、必ず、たいへん派手は衣装をお召しになっている。刺繍で華やかに飾らた、たいていは黄色を主体に原色を多用したもので、決して古びてはおらず、真新しい。しかし、神像のお顔は、対照的に、長い年月を経たように黒光りをしている。表情の造形は、かなり繊細なもので、射奇峰『台湾神明図鑑』(2014年)によれば、清代より今日にいたるまで、台南には仏像を彫る職人たちがいてその高度な技術が継承されてきたらしい。とてもよいお顔の神様をたくさん拝見することができた。

 正面の神様の他に、ほとんどの廟には左右に神様が祭られている。またしばしば、奥に別の棟があって、そこにも神々が祭られている。また二階があってそこにまた別の神様が祭られていることもある。これらの、配祀(従祀というべきか)された、左右・奥・階上の神々は、いわば脇役になるわけだが、よく祭られていたのは、観世音菩薩と註生娘娘であった。 

 造形も色使いも派手な中国式の宗教建築と祭器の数々は、わびさびた渋いものをよしとする傾向のある日本人には落ち着かないように感じられるが、台南の街で廟を見慣れてくると、華やかな装飾でありながら、次第にそこに懐かしい落ち着きのようなものを感じるようになってきたのは、意外な体験であった。装飾と生花に彩られた、気配りの行き届いた静かな空間のなかで、男女の神々がこちらを斜め上からご覧になっていて、どこか懐かしい匂いにつつまれて、もはや存在しないはずの、自分が子どものころの家に帰ってきたよう安心感に包まれるような感じがした。あるいはそれが、台南の、あるいは漢民族の、廟の魅力の中心なのかもしれない。

 また、廟の内部の左右には、王爺とよばれる、大きな神像が一体ずつ置かれていることが多かった。この王爺は、瘟疫神として台湾全土で祀られているらしいが、他の神像とは異なって、内部が空洞の、いわゆる「はりぼて」でできている。前嶋信次の前掲書によれば、この王爺像は、船に乗せられて流される(これを「送瘟」といって、疫病を払う効果があったと信じられていた)ものなのだが、今でもそうした習俗は行われているのだろうか。お顔のつくりもごくおおざっぱで、ベロを出したりしておどけた顔をしているのは、災厄をもたらす疫神を戯画化しているのだろう。

 ちなみに、仏教系であるはずの観世音菩薩を祀る廟と道教系の神を祀る廟とのあいだにはとくに違いはない。日本の神仏習合よりもいっそう、儒・仏・道は混淆して区別がつかないが、仏教系で祀られているのは、私がみた範囲では他に地蔵菩薩のみで、儒教系は孔子廟だけで、この廟は、拝観料を徴収するせいか、生花も飾られておらず、地元の人に信仰されている様子があまりなかった。大ざっぱにいえば、すべて道教的な方向に収斂していったということだろうか。

 これらの廟には、どうやら専従の僧侶というものはいないようだ。僧侶なり道士といった、その廟に専従している人、あるいはその廟の所有者といった人みあたらず、その代わりに、たいていは「◯◯管理委員会」というところがそれぞれの廟の管理をやっていることになっている。◯◯には、「開隆宮」などといった具合に廟の名前が入る。この管理委員会がどういった法的な地位にあるのかわからないが、おそらくその実質的な運営の主体は、近所のお年寄りたちであろう。

 日本の小さな寺を訪れると、個人宅にお邪魔してしまような感じになることがあるが、台南の廟にはそういう感じはないし、また政府なり自治体が管理している様子もまったくなくて、どの廟もみな、地元の人たちの共有のもの、といった趣が強い。拝観料も、私が訪れた範囲でいえば孔子廟を除いて、まったくとらない。

 近所の人が大切に管理しているという点で日本の寺よりも神社に近いが、神社よりははるかに参拝する人が多く、よく手入れされている。 台南の廟は、宗派や国家権力ではなく、台南の人々の自立的な信仰によって育まれてきたということ、そして人々の生活のなかに今でもしっかりと根ざしているということだろう。

 今回の台南では、幸運にも元宵節の祭りをみることができた。元宵節の祭りは農歴の正月十五日に燈籠を灯して楽しむ祭りで、漢民族でははるか漢の時代にまで遡れるものである。

 

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 写真は、府城普濟殿という廟へと続く國華街の路上に飾られた燈籠。地元の小学生たちが描いたものらしい。とれくらい古態を留めているのか、わからない。台南の廟のなかには荒廃していたものを近年になって修復しなおしたものも多いらしいので、こうしたお祭りも、あるいは最近になって新たにはじめたものかもしれない。 





by kohkawata | 2016-03-25 16:31 | 近世中国の文化 | Comments(2)

満街聖人

 ここ半年ほど、王陽明の「満街聖人」という言葉をよく思い出す。これは、街中の人みんな聖人だ、という意味。

 本来、「聖人」とは儒教徒にとってかなり重たいことばである。 それは最も理想的な人格者であり、堯や舜といった神話的君主がその言葉にふさわしい。孔子は端的に「自分は聖人に会ったことはない」と言っている。にもかかわらず、街中が聖人だなんて、おめでたすぎる言葉にも響く。なのになぜか、それはそうだなあ、本当にそうなんだろうな、としきりと思う。

 「満街」という表現が、たくさんの人々が気ままに自由に行き交う、活力に満ちた感じでとてもいい。以前は私はこの言葉から、何となく、台湾の夜市の光景を思い出すことが多かった。南国の暖かい夜に人々の賑わうさまはとてもよいものだ。酒を出さないせいか、日本の盛り場のような怪しげさは少しもなくて、老若男女が楽しく集っているようにみえ、本当に「街中いい人ばかり」という感じがする。

 ところが、とくに理由も思い当たらないのだが、最近になって世界のどこだって日本だって、「満街聖人」だと感じるようになった。結局のところ、あの人もどの人も聖人なのであり、かつてそう感じられなかったのはむしろ自分の側の問題なのではないだろうか、と。こうした「満街聖人」の感覚は、前回書いた、同じ明代中期の、沈周の愉悦に満ちた桃源郷的な絵画の世界にも通じるようにも思われる。

 ところで、この言葉が出てくる王陽明の『伝習録』を読むと、この四語にはもう少し含蓄があるようだ。

 弟子の一人が「出遊」して帰ってきたのをみて、陽明先生は何を見たかと問う。すると、弟子は「満街人都是聖人(街中の人、みんな聖人でした)」と答える。それにたいして先生は「街の人も君が聖人であると見てとっていただろうよ」と応じる。また別のとき、別の弟子が帰ってきて、「めずらしいことに出合いました」と言う。陽明先生が「どんなめずらいことか」と問うと今度の弟子も「満街人都是聖人」と答える。先生は「そんなことは当たり前だ、何もめずらしいことではない」と応じる。

 「出遊」して見たのが、仏陀のように生老病死だったのではなく、聖人であったとは、やはりすごいことを言い放つなと思う。しかし、なぜ王陽明は異なる応じ方をしたのだろうか。この前後には答えは見当たらないが、『伝習録』全体の読解から私は次のように考えるのがよいと思う。

 陽明の考え方を表面的にでも知っていれば、「満街聖人」ということは、発想としては必ずしも理解し難いわけではない。陽明は、すべての人には善なる本性である「良知」が生まれつき備わっており、子どもたちや「愚夫愚婦」にもそれがある、いや彼らこそそれをよく体現している、と言っている。だから、「満街聖人」であること自体は、めずらしくもなく、「当たり前」なのだ。だが、陽明的に考えるならば、大事なのは知識や言葉による知的な認識などではなく、本当に「満街聖人」と実感できること、つまりすべての人の「聖人性」つまり「良知」を感得できる、ということだ。しかるべき「功夫」(香港映画でいう「カンフー」のことであり、平たくいえば修行である)を積み重ねて、しかる後に、良知を取り戻し磨きをかけたとき、はじめて「満街聖人」だと実感・感得できるのであって、その境地にあるものこそが本当の「聖人」だ、そして誰もその意味で聖人たりうる、ということであろう。

 『伝習録』には次のような言葉もある。「天下の人の心は、すべて自分の心であります。天下に狂気を病む人があるかぎり、どうしてわたし一人がそれを免れることができましょう」(溝口雄三訳『伝習録』中公クラシックス、2005年、272頁)。そもそも自他の区別は本質的なものではなく、自他を超えたある種の境地のなかでは、狂気をも含み込んだ「満街聖人」の世界が広がっている、ということなのだろう。

 だが、狂気をも含んだ聖人とは何事なのか、これは確かに知的には理解しにくい。しかし、陽明的には、にもかかわらず、人の本質は狂気などではなく良知にあるのだ、それは理屈では説明しがたいが、「功夫」によって実感とともに体得する真実なのだ、その時には自分の良知も他人の良知も区別なく渾然一体とした「満街聖人」の世界とともにある、ということになるのだろう。これはやはり、今日的な意味での学者の言葉というよりは、むしろ「宗教的体験」(W.ジェイムズ)、つまりある種の「回心」を経た宗教者の言葉に近いのだろうと私には思える。

 私はむろん、そんな回心を経験したわけではまったくない。ただ最近なぜか、どうしようもない人というのはたしかにいるが、しかしなお「満街聖人」であるとなんとなく感じるのである。これは奇妙だが、相当に幸せな感覚でもある。もっとも、そういう感覚をもつのは、王陽明とは異なり、単に中年の男の気に緩みのせいなのかもしれない。


 ところで、また論文を発表した。

 「「白蛇伝」にみる近代の胎動」というタイトルである。

 これは、蛇をめぐる中国の文化史・心性史のようなもの。とくに「白蛇伝」という、王陽明や沈周の時代の少しあと、明末から清朝初期に最高潮を迎える、様々に変異した物語の変遷を辿っている。皇帝を殺す複数の物語群のなかに、近世中国の人々の心性のダイナミズムを読み込もうとした、前回発表の「皇帝を殺す」の姉妹編のようなものになる。

 思えば、「白蛇伝」を初めて読んだのは、大阪のアジア図書館の書架にそれをみつけた2000年のことで、「白蛇伝」の演劇を初めて観たのは、2002年の夏に訪れた北京の、たしか正乙祠戯楼という名の小さい京劇の劇場でのことだった(「盗仙草」の段だった)。以来「白蛇伝」には心惹かれてきたが、これをテーマにする論文を書こうと思い立ったのはようやく2011年のことだった。ずいぶん時間をかけて暖めてきたテーマなので、まだ不十分な点は多々あるが、まずは報告しておこうと思った次第である。

 ご一読いただければ幸いです。こちらです。

 なお、 「白蛇伝」は抜群に面白い物語なので、研究も中日でずいぶんなされてきたが、清代以降は多様な芸能のジャンルに流入し文献も増え、私の論文もふくめてその部分についてはまだ十分研究が進んでいない。この時代の芸能にかんして予備知識がある程度あれば、清代・民国期の「白蛇伝」は、トライするべき未踏の分野だろう。
by kohkawata | 2014-05-17 13:38 | 近世中国の文化 | Comments(0)

沈周


 少し前、初春に、台北の故宮博物院で沈周の特別展を観る機会があった。

 沈周は、「しんしゅう」とよむ。明の四大家の一人でありその代表。

 私は、とくに吉川幸次郎の社会学的でもある文章「沈石田」によって、この人の文化史的な重要性を知ってはいた(『吉川幸次郎全集』第15巻)。曰く、彼は、中国文明の中心になりつつあった揚子江下流地域の、その中心の一つである蘇州の北郊に位置する水郷の、富裕な郷紳の家に生まれ育ち、絵画はもちろん詩においても大家であり、書もその時代を代表する。また、尊敬される大教養人でありながら、官吏の道をまったく歩もうとせず生涯を純粋の市民として通したこと、それはこの時代に市民が文化の主たる担い手となったことの一つの現れであり、そのことに中国文明の爛熟がみられる、云々。

 かく重要な人でありながら、彼の絵画を直にみるのは私には今回がまったく初めてであった。

 展覧会では五十点ほどの彼の作品が並べられていたが、そのすべてに私は圧倒され、非常に興奮し幸せな時間をすごすことができた。彼の絵画の素晴らしさを言葉で表現することはとうていできないが、とにかくすべての絵画が創造的な愉悦に満ちていていた。複製でみると現代の私たちにはどうしてもその伝統的な様式の印象が強くなってしまうのだが、実物はそのような様式を超えて、創造的でユーモアさえもあふれる非常に楽しいものであった。

 とりわけ山水画はそうで、確かに、隠者が桃源郷を訪れるといったような、よくあるモチーフではあるのだが、沈周はそれを完全に自分の世界として再創造していると感じられる。もっといえば、彼の筆にかかれば、世界は喜びと楽しさに満ちたその本来の姿を回復するのだ、とさえ思う。とくに気に入ったのが、「畫雪景」という大きな絵(下図)。折り重なる雪の山々、その間をぬっていく渓谷の川、冷たい水を静かに湛える湖、橋を渡る小さな人影、遠くに霞む山影と曇った空、それらのすべてがうっとりとするほど美しく楽しく、そこにある。

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 こうした山水画はともすると作者の思想や境地などのある種の内面の表現なのだという解釈を下しがちで、今回の展覧会の会場での解説文などもそうした傾向が強かった。しかし、私が本物を目の当たりにして素人なりに感じたのは、内面の表現というよりは、喜びに満ちた我々の世界の形象の再創造ということなのである。膨大な教養を自らのものにしつつ、かつあらゆることを自己流に表現できるという点で、日本でいえば富岡鐵齋などにも似ていると思うが、しかし沈周には、鐵齋や日本の文人たちによくみられる偏屈な俗臭のようなもの ― あるいは貧乏臭い爺むささというか ― がまったくみられない。むしろ、沈周は開放的で向日的で豊饒であり、つまり、陳腐な言葉だが、まったくの天才だと感じられる。例えば、「雨意」という画があったのだが、深い山のなかにふりしきる雨を、墨の濃淡だけで表現しており、その表現力の豊かさに、そしてそこに現前する世界の豊かさに、圧倒される思いがした。

 今回の展覧会では、彼のスケッチの意義が比較的強調されていたが、これらの小品には彼の天才ぶりがよりわかりやくす示されているように思う。彼の手にかかえれば、山水だけではなく、馬も猫も海老も葡萄も、すべて隅々まで楽しく可愛らしい。そして、どこかに他所に桃源郷があるのでもなければ、どこにもないのでもなく、本来世界のすべてはそのように楽しく可愛らしく喜びに満ちたものなのだと思わせる。

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 吉川幸次郎は、沈周の詩を辿って、とくに彼が庶民への同情を示していることに、新しい時代の市民にふさわしいある種の近代的な情感の萌芽を見いだしているが、彼の絵画をみたうえで彼の詩を読むと、そうした解釈もまたずれているように感じられる。


 東園阿弟看落筆 東園の阿弟 落筆を看る

 神驚眼駭走魑魅 たましい驚き眼おどろきて魑魅を走らす

 堂中宛宛開徂徠 堂中に苑苑として徂徠を開くも

 不知老兄作遊戯 知らず 老兄遊戯をなすなり

 夜来明月奪江光 夜来 明月 江の光りを奪わば

 満巻飛蛟称怪事 満巻の飛ぶ蛟 怪事と称せん 


 これは、「市隠」あるいは「松巻為徳韞弟作」と題される、吉川も引用している、自らの絵を誇る彼の詩の一部分。彼にとって世界は恵まれた人とそうでない人がいる、などといった単純で退屈なものなのではなく、むしろこの世界は、たとえ狭い部屋のなかにあっても、山河が広がり魍魎がうごめき蛟竜が飛び交う、光と遊びと喜びに満ちあふれた怪しくも豊かな時空なのではないだろうか。

 故宮博物院に来るといつも思うのだが、私たち現代人は中国文明の最も豊かな遺産を引き継ぐことがほとんどできていないのかもしれないと思う。少なくとも私は、沈周という、その時代の狭い了簡も現代のそれすらも突き抜けていく、この東アジアの天才のことを、今までまったくわかっていなかった。


by kohkawata | 2014-04-11 16:21 | 近世中国の文化 | Comments(0)

皇帝を殺す

  しばらくぶりに論文を発表した。タイトルは・・・

「皇帝を殺す~中国における至高者を殺害する物語についての予備的研究」

 この論文のそもそもの始まりは、10数年前に北京を訪れたさいに、京劇の「閙天」や「盗仙草」の段を初めて観て、秩序転覆的とでもいうべきその大胆なプロットに驚いたことにある

 「閙天」は「西遊記」の一部。孫悟空は、一個食べたら何万年も生きられるようになるという桃、しかも千年に一度しかならないというとんでもなく珍重な桃を、食べてはいけないのに、欲のままにさっさとたくさん食べてしまう。それで、天帝が激怒して悟空を成敗しようと神兵たちを差し向けるのだが、悟空は成敗されたりしないでそれと闘って勝ってしまうのである。

  「盗仙草」は「白蛇伝」の一部。息絶えた夫を蘇らせるために、蛇の化身である白娘子が天上の貴重な薬草を勝手にむしり取って、成敗しにきた連中と戦って、やはり勝ってしまうという話。

   この時はいくつかの劇場を渡り歩いたが、いずれも観光客で賑わう、湖広会館や正乙祠戯楼、あるいは梨園劇場であって、今にして思えば、「閙天」も「盗仙草」もどちらもいかにも外国人にも分かりやすい、ベタで有名な演目である。私の記憶のなかでは白娘子は一方的に勝つのだが、今の私が知るかぎりでは、たいていの「白蛇伝」のこの段では最後には「南極仙翁」が白娘子の深情を汲んで助けてくれるというプロットになっているはずで、今書いたプロットの概略は正確でないかもしれない。

   それはともかく、当時の私はこの二つの演目にとくに強い印象をもった。どちらも、この世界のルールを平然と踏みにじって、結局は罰せられもしないし、反省もしない、というありえない展開なのである。命には限りがあり、死んだものは二度と蘇らない、という生き物の根本的な原理でさえ平然と突き抜けてしまっているかのようだ。むろん『西遊記』がとんでもなく型破りな話だということは前から知っていたが、『白蛇伝』の方は、以前に読んでいたものの、その大胆な秩序転覆性に今ひとつ気がついていなかった。しかし、このとき演劇でみて、天上の聖なる薬草を、女性の主人公がまんまと盗んでしまって少しも後ろめたくなさそうなのは、日本の伝統的な物語に親しんできたものにとってはちょっとした衝撃であった。私はそれまで、前近代における民衆向けの物語というのは、なんだかんだいって結局は、世の秩序を乱したりしないものだと思っていたのだ。

   そのあと、民話の類をいろいろと読んでみると、閻魔大王をだしぬいたり、ならず者が皇帝になるなど、中国にはどうもかなり秩序転覆的な志向をもった物語が多いことがわかってきた。そして、たまたま読んだ「神筆馬良」というタイトルのお話では、主人公の少年が皇帝を溺死させてしまって、私はそんな不敬な民話がありえるのかとかなり驚いた。あとになってこれは民話ではなくて、洪汛濤という人によって1952年に創作されたものだと知ったが、古くからの民話のなかにも、同じように皇帝を溺死させてしまう「十兄弟」と通称される系統のものがあって、広く伝わっていることがわかった(この「十兄弟」については、君島久子氏の『「王さまと九人の兄弟」の世界』(岩波書店、2009年)という本が詳しくて、とても楽しい)。

  調べてみたところ、皇帝を殺してしまう民話は他にもあって、日本にも伝播している、「百鳥衣」系統のものはとくに興味深いことがわかった。私は以前に近世日本における「父殺し」の物語の研究をしたこともあるので、その日中の異同はなかなか面白かった。簡単にいえば、中国では皇帝はあっさりと殺され、日本では、中国の皇帝と同じ役回りの殿様は決して殺されないのである。天皇や将軍はそもそも登場しない。

   そんなこんなで、中国における皇帝や王を殺してしまう話を数年かけていろいろと調べてみたのだった。まだもっと調べるべきなのだが、これは期待以上にいろいろな展開が可能なテーマだということがわかってきたし、それに科研費を頂いて研究をしてきたので、その成果を早めに公表するのが義務であるようにも思い、いったん論文としてまとめてみることになった次第である。

   論文としての完成度には自信があまりないが、「挑戦的萌芽研究」という科研費の名目にはふさわしい内容かなと自分では思っている。

   今後もこの周辺のテーマを探求したいと思っている。

 ネット上で読めます。

http://www.kyotogakuen.ac.jp/~o_econ/society/treatises/pdf/23-1-kawata.pdf

   どなたでも、ご一読いただき、ご意見を頂ければ幸いです。


 



by kohkawata | 2014-01-14 15:31 | 近世中国の文化 | Comments(0)

ベトナムの叙事詩など

 
 震災と原発事故のその後のなりゆきに胸を痛めたり失望したりしながら、ここ数ヶ月はいつになく忙しい日々であった。なにより、編集者の方にあれこれ相談させていただきながら、『愛の映画』の詰めの作業をしてきた(初校終了)。これには時間と根気を費やしてきたが、たいへん楽しいものでもあった。また、今年度は例年以上に大学の行政的な仕事が多く、気ぜわしかった。
 今日はどちらも小休止の日曜日。この間、忙しいなか読んで、どれも十分には消化できていないのだが、格別おもしろかった翻訳書を列挙してみよう。

 グエン・ズー(レ・スァン・トゥイ、佐藤清二、黒田佳子訳)『トゥイ・キォウの物語』吉備人出版、2005年。
 ベトナム人の解説者によれば、「ベトナムでは、たいていの人が『トゥイ・キォウの物語』を諳んじています」という。原作は中国のもので舞台も中国なのだが、グエン・ズーというベトナムの大詩人が19世紀の初めに長編詩としたのが本書であるそうだ。美貌と才能に恵まれながら苦労を重ねる女性が主人公の、繊細なポエジーと民衆的なルサンチマンとが融合した、希有な物語。中心的な訳者である佐藤氏は、奥付の経歴によれば、ベトナムでの仕事の経験があって、岡山県庁にお勤めの方であるそうだ。この長編叙事詩が美しいものであろうことは訳からもよく伝わってくる。
 「夕暮れ時、鳥たちが一羽ずつ森に戻り始めました。遅れて現れた月は、椿の花房に半分隠れて見えました。不意に、西の塀に映った枝の陰が僅かに踊りました。キォウは窓を開け、音もなくこっそりと上がってくるスー・カインを見ました。」

 アンヌ・チャン(志野好伸・中島隆博・廣瀬玲子訳)『中国思想史』知泉書館、2010年。
 中国系フランス人がフランス語で書いた、中国の思想についての、簡にして要を得た、すばらしい入門書。それでも2000年を超える中国思想の長い歴史にふさわしく、実に浩瀚で、辞書としても使えるだろう。677頁、7500円。よくこれを訳したなと驚かされるし、よくこれを出版したなと感心させられる。

 ウラジミール・ジャンケレヴィッチ(合田正人訳)『最初と最後のページ』みすず書房、1996年。
 題名は、作者の最初期の論文から、紙片に走り書きされていたという最後の文章までを収めていることを示している。高度にインテリ好みの本だが、ベルグソン論をはじめそこに現れた思想には、何かへの純朴な憧憬が感じられる。とりわけ、次のようなナイーブな、しかしきっぱりとした言葉を見いだすのは楽しいことだ。「愛するために愛することはできない。愛される者のために愛するのだ」

 フロイト(金関猛訳)『シュレーバー症例論』中公クラシックス、2010年。
 フロイトの文章を読むといつも、もしかしたらこの人の分析は根本的に間違っているのではないかとハラハラさせられる。精緻だが観念的な自分の理論図式に引きずられすぎて、対象のことを本質的にとらえ損なっているのではないか、などと疑わしくなる。それでいながら、読み進めていくとしばしば、いつのまにかたいへんな知的な刺激を受けていて、ちょっとした興奮状態にさせられてしまう。そうしたフロイトの分析の一つであるこのシュレーバー論は、もちろん有名すぎるほど有名だが、この新訳の注釈は実に精緻で、フロイト研究にはたいへんな蓄積があることが改めて確認できる。フロイトは今でも世界のインテリのリビドーを活性化し続けているようだ。

 パウロ・コエーリョ(山川紘矢・山川亜希子訳)『アルケミスト』角川文庫、1997年。
 私の授業に出席している学生に教えてもらった本。作者はブラジルの人。スペインの羊飼いの少年が、宝物を探しにピラミッドへ向かう冒険譚。日本もふくめて世界でよく読まれてきたらしい。取り寄せたこの文庫には36版とある。この現代的な童話のテーマは、自らの「運命」ゆえに追い求めずにはいられない人生の本当の宝物とは何か、ということのようだ。前半と後半に別れているのだが、とくに、迷いためらいながらも思い切って過去を捨てて夢を追い求める旅にでて、しかし挫折してしまう、前半の苦い物語に惹かれた。
by kohkawata | 2011-06-19 12:20 | 近世中国の文化 | Comments(0)

『東方見聞録』


マルコ・ポーロ『完訳東方見聞録』1・2(愛宕松男訳注、平凡社ライブラリー、2000年) 

 この世界史的な大旅行記をいまごろはじめて読んだ。

 この本を読んでいくと、私(たち)が教科書的な知識で知っている歴史的な世界と非常に異なる、多様で豊かな世界が立ち上がってくる。マルコ・ポーロは行く先々で、「広大な王国」を通過し、「とてもりっぱな大都市」に遭遇し、「雑多な人種」や豊富な産物を目にする。あるいはこんな楽しげな記述もある。「騎行すること七日間でこの平原を横断し終わると、そのはずれに巨山がある。この巨山を越えると道は長い下り坂となる。まる二日間というものを下り続けるのだが、この間を通じて至る所、さまざまな果実がおびただしく実り続けている」(116頁)。今のイラン中央部辺りの記述であるようだ。あまりに多くの魅力的な国・都市・文物・景勝が出てくるので、彼が旅したアジアとはどこか他の惑星のことであるかのように思われる。

 なかでも、彼の描く「キンサイ」(=杭州)の繁栄ぶりは魅力的である。この旧都は、周囲100マイルに及び、総戸数は160万戸、城内には大小無数の運河が掘削され、その運河には12000もの橋が架かっている、と彼は記述する。商工業も極めて盛んで、例えば工匠組合は12あり、それぞれに12000ずつの工作店舗があり、それぞれの店舗には10人あまりの職人がいるという(だとすると、キンサイには職人だけで100万人以上いることになってしまうが)。市の南側には周回30マイルの湖水があり、湖上の遊覧船には清遊にふける客でいつも満員である、云々。

 アジアを放浪する欧米からのバックパッカーたちのなかにはこの本に触発された人が多いとどこかできいたが ― 本当かどうか知らない ― 、なるほどこれは世界中を旅したいという衝動を若い人にもたらすような、壮大なおもしろさがある。西洋の、中世の、商人の目を通してみた「オリエント」が、我々が一応知っていると思っている歴史的世界とは別に、茫々と広がっている。

 同時に、マルコ・ポーロという人が、人間の愚かさというものをたっぷりと体現していることにもまた、ある種のおかしみがある。最も目立つのは、彼が、キリスト教以外の宗教の信者たちを無反省に蔑視していることだ。なかでもイスラム教徒にたいしては「とても人が悪くて信用できない」などと敵愾心が顕わであるし、中国の諸民族や日本人はみな「偶像教徒」と一括して、わざわざ嫌うほどでもない一段下の存在であるかのようにみなしている。また、彼は元の皇帝「カーン」(フビライ・カーンのこと)の途方もなく強大な権力に敬服しきっていて、何にたいしてもカーンの視点から、つまりとんでもない「上から目線」で見下す傾向が強い。また自分を誇大にみせるのも好きなようで、例えば元が南宋を征服した一つの契機は、カーンにたいして自分が適切な軍事技術上の助言をしたことにある、などと大嘘を並べてみたりもしている。

 この旅行記の本筋ではないが、『東方見聞録』のなかで私がとくに惹かれたのは、ポーロが道中の人たちから聞いたという「山の老人」の逸話である。よく知られたているのかもしれないが、こんな話だ。

  「山の老人」は、狙った人物は必ず殺すという暗殺集団のボスであり、数多くの国王や領主たちは彼に殺されることを恐れて、友好関係を築こうとして貢ぎ物を欠かさない。山の老人は次のようにして暗殺者たちを養成している。老人は、ペルシア北部にあるムレヘットという国にある、二つの山脈にはさまれた峡谷に、壮大美麗にして贅をこらした庭園と邸宅のある宮苑をつくった。老人は、12歳から20歳の若い男たちを手なずけ老人のことを真の預言者だと信じさせたうえで、秘かに一服の薬を飲ませ昏睡させ、この宮苑のなかで目覚めさせる。すると若者たちは、そこがあまりに美しい場所で、しかも絶世の美女たちが集まっているので、自分たちは天国に来たのだと信じ込む。「美女たちは終日そのかたわらに侍って音楽を奏し歌を歌い、珍味佳肴の饗宴に給仕する。若者たちはこれらの美女を相手に存分の快楽を享受する。かかる次第で、若者たちはしたい放題できるものだから、この宮苑を去りたいなどとはつゆほども望まないのである」(上巻、138頁)。しかし、老人は、しかるべき時に若者たちに再び薬を飲ませ、老人のもとに運ばせる。目が覚めた若者たちは自分が天国にいないことにがっかりする。そこで預言者を装う老人は次のように告げる。「もう一度お前たちをあの天国にやってやりたいと思うから、特にお前たちを選んでこの使命を託するのだ。さあ行け。ただ某某を殺しさえすればよいのだ。万一お前たちが失敗して死ぬようなことがあっても、そのまままっすぐ天国に行けることは疑いない」(上巻、141-2頁)。かくして若者たちは天国を夢みて驚喜しながら、老人に命じられるがままに暗殺を遂行するのである。

 この「山の老人」の話は、多くの人の心をとらえるようで、ネット上などでもテロリズムとの関係などでよく言及されているし、私もだいぶ昔にテレビなどで聞いたことがあるように思う。この話は、注釈によれば ― なお、愛宕松男という人による詳細な注釈はたいへん高い水準のものだと思われる ― 、「新イスマーイール派」という名のイスラム教の一宗派が反対派の要人を倒して教勢を拡大するために刺客の養成をやっていた、という歴史的な事実に起源をもつとのことである。そして、英語で暗殺者を意味する assassin は、この一派が使った麻薬の名 hashish を語源とするそうで、このことからも、この逸話周辺のことが昔から遠くへもよく伝わっていたことがわかる。

 この話がなぜ私も含めて多くの人を惹きつけてきたのかを考えると、一見したところ、魅力的な悪役が活躍する奇想天外で安っぽいアクション映画のような話でありながら、同時に、この暗殺者たちの悲しい運命が私たちの、とりわけ男たちの人生の寓話にもなっているからではないか、と思われる。男たちの人生とは、天国・幸福・永遠・快楽・栄達・名誉・承認・安心などを夢みて、時間や苦労や危険などを顧みず何かをやり遂げようとするのだが、結局は何も得られずに終わっていくのであり、そのような普遍的な運命を若い暗殺者たちは体現しているのではないかと思うのだが、どうだろうか。
by kohkawata | 2010-02-05 15:46 | 近世中国の文化 | Comments(0)

詞のアンソロジー


 詞についてのよい本をようやくみつけた。村上哲見注『李煜』(岩波書店、1959年)である。

 この本は、吉川幸次郎・小川環樹編集校閲『中国詩人選集』全32巻の一冊である。この選集ははるか半世紀も前のものだが、白いカバーの装幀はたいへん美しく、内容もいまだに古びていないよいもので、長く私の愛読のシリーズであり、その一冊『宋詩概説』を初め何度も読んでいる卷もある。

 しかしこの中の『李煜』は読んでおらず、選集中唯一の、「詩」ではない「詞」の本であるとは、うかつにも気がつかなかった。前半は李煜の詞の紹介・注釈が中心だが詞一般の解説も含まれており、後半は李白にはじまり李煜の父李璟にいたる詞 ― それは『花間集』という現存する詞の最古のアンソロジーとほぼ重なるものである ― とその注釈からなる。この本は日本で最初のある程度本格的な詞の本のようで、また今日でも最もよい詞の入門書であると思う(同じ村上氏に『宋詞の世界 ― 中国近世の抒情歌曲』大修館書店、2002年、という一般の人を対象にした本もあるけれども、ちょっとわかりにくい)。

 以前から、私は宋詞のことが気になっていた。

 中国語圏の大きな書店にいくと、唐詩・宋詞・元曲はそれぞれたくさんのアンソロジーが並んでいる。あるいは、漢文・唐詩・宋詞・元曲と四つが並び称されることも多い。だが、日本で広く知られているのは漢文と唐詩であり、宋詞と元曲はほとんど紹介されていない。私は、宋詞や元曲のアンソロジーを何冊か買って帰って読んでみたが、貧しい語学力のせいか、その味わいはよくわかなかった。

 なるほど詞とはこういうものか、と生半可ながらも理解できるような気になったのは、詞の朗読をはじめて聞いた時である。「パンダと学ぶ中国語」というサイトで詞の朗読を聞くことができて(i-tuneでも同じ朗読を拾える)、かなり美しい響きであることがわかる。もっともこの朗読が詞の朗読として標準的なものなのかどうかわからないし、そもそも詞には、中国でも早くに喪われたのだが、元来メロディーがあったという。それでも、韻文は音をもって楽しむものであり、ごく僅かとはいえ詞の朗読を聞くことができるのはありがたかった。

 この「パンダと学ぶ中国語」にもあるが、私の好きな詞には例えば、宋代の李清照(1084年生まれ)の「如夢令」というのがある。訳は試訳である。

昨夜雨疎風驟   昨夜、雨はさほどではなかったが、風はひどく強かった
濃睡不消残酒   深く眠ったつもりだったが、昨夜の酒はまだ残っているようだ
試問捲簾人     御簾をあげにきた侍女に聞いてみると
却道海棠依旧   庭の海棠の花は散らずにまだきれいに咲いていますよ、という
是否、是否      そうだろうか、そうだろうか
応是緑肥紅痩   きのうよりも緑が濃くなり、花はしぼんでいるはずだ

 『李煜』を読むと、この李清照らの宋詞へと展開していく詞の流れがよくわかる。この本のなかでとくに印象的であったのは、李煜の次の「虞美人」という詞である(なお、詞のタイトルは元々存在したメロディーに対応しているので、内容とは基本的に無関係)。訳はこの本にあるもの。

春花秋月何時了      春の花、秋の月、それらは昔も今も変わることなく、尽きること
               を知らずめぐりきて季節をいろどる。
往事知多少         それにひきかえ変わりはてたこの身、花をみるにつけ、月を見
               るにつけ、過ぎし日の思い出のみは数限りない。
小楼昨夜又東風      このわびしき高殿に、昨夜またしてもそよぎくる春風。

故国不堪回首 月明中  はるかなる故郷、眺めやりてものおもう悲しみにどうして堪えら
               れよう、さえわたる月明かりの下に。
雕闌玉砌依然在      雕(えり)せし欄干、玉の砌(みぎり)、豪奢な宮殿は今もその
               ままに在るだろうに、
只是朱顔改         ただこの身だけは、若き日の輝やかしい容姿はどこへやら、み
               じめに変わりはててしまった。
問君都有幾多愁      わが胸に満ちる悲しみはいったいどれほどといえばよかろう
               か。
恰似一江春水 向東流  長江の満ち溢れる春の水が、東を指して流れてゆくさまをその
               ままに、こんこんと流れて尽きるときを知らないのだ。

 李煜は、皇帝になる人の息子として937年に生まれ、25才で皇帝となり、在位の14年間、豪奢な歓楽を尽くした人である、という。だが、南唐という彼の帝国が宋によって滅ぼされ、その虜囚となっていた2年ほどの晩年に、彼はその生涯でもっとも優れた詞を残すことになる。そのなかでも、この「虞美人」は李煜の詞を代表する名作とされてきたそうだ。

 私もまた『李煜』を通読した限りでいえばやはりこの詞がもっともいいと思うし、深い嘆きと諦念のなかに不思議な華やぎがあると思う。遙か後に映画のタイトルともなった最後の行がなかでも忘れがたい。この詞が42才で亡くなる彼の最後の詞だという説が本当であるならば、李煜は、最後に最高の詞を創造した、ということになる。

 私が読んだ範囲だけでも、李清照や李煜のほかにも、晩唐の温庭筠や李煜の父親李璟、宋代の柳永などよさそうな詞人は数多い。と同時に、詞の世界には、詞人の個性を超えて、ある一つの小宇宙的なまとまり ― それを簡単に表現することは難しいが ― が感じられる。日本語の詩的な才能にも恵まれた人が、詞のアンソロジーを編んで、この美しい小宇宙を世に贈り届けてくれたら、と思う。
by kohkawata | 2010-01-12 18:52 | 近世中国の文化 | Comments(0)

元雑劇を読む


 最近は中国の元の時代の演劇(元雑劇)の脚本をいろいろ読んでいる。全部で百数十種が伝わっており、私の知るかぎり十種ほどは邦訳されている。

 いろいろなテーマのものがあるが、私におもしろかったのは恋愛譚の部類で、著名な「西廂記」はユーモアたっぷりでさすがにかなりおもしろいが、「金銭記」というのも楽しかった。

 これは、科挙の受験生で色好みの青年韓飛卿が、帝の御意による花見の宴で、都長安の長官の一人娘柳眉児家を見初め、柳眉児もまんざらでもない様子で、彼がなんとかしてこの深窓の令嬢にお近づきになろうとする話。この主人公はちょっと軽率な酒飲みでもあって、酔って失敗をやらかしてお嬢さんの父親に叱られたりするのだが、その窮状を賢い友人賀知章が機転をきかせてうまいこと救ってやる所が見所であろう。結局、韓は状元(科挙の主席合格)となり、父親も状元殿を婿に迎えられると大喜びで二人の結婚を許し、最後には韓飛卿と賀知章二人の親友である李白が登場し、帝からの祝意を伝え二人の結婚と出世を言祝いで終わる。

 帝主催の花見、才子佳人のなれそめ、さわやかな友情、見事な出世、そして最後に祝福されての結婚、と実にお目出度い話であり、この話が朗々と歌い上げられながら演じられていくのであるから、実際の劇はさぞ楽しく華やかなものであっただろうと想像される。あの明るい天才李白の登場も効果的であったであろう。

 この戯曲の翻訳は『戯曲集(上)』(中国古典文学大系第52巻、平凡社、1970年)にあり、詳細な注釈が『吉川幸次郎全集』第14巻(筑摩書房、1968年)にある。
by kohkawata | 2009-12-20 19:44 | 近世中国の文化 | Comments(0)