広東語のおかしみ



 5、6年ほど前から広東語を少しずつ勉強してきてきた。

 勉強し始めてすぐにわかったのは、「メジャーな言語」と「マイナーな言語」とでは、言語としてのありように根本的な違いがある、ということである。広東語はむろんマイナーな言語であり、私にとっては初めてのマイナーな言語であった。

 これまでに私は英語、中国語(普通話)、フランス語などを勉強したことがあるが、それらはいずれもメジャーな言語である。ここでいう「メジャーな言語」とは、言語としての標準化がしっかりと行われているということであり、標準化されているとは、「正しい」言語がかなりの程度意図的・人工的に設定・整備されている、ということである。具体的には、正しい文法、正しい表記法、正しい発音・発声、正しい文章作法などが存在している(と話者たちが漠然と信じているような状態がある)ということであり、またその背景には、かなりの程度画一化された言語教育をはじめとした国家的な言語政策がある、ということもいえるだろう。

 広東語は、母語として5000万人ほどの使用者がいると言われており、その数からいえばそれなりにメジャーとも言えようが、しかしそのような標準化がほとんどなされておらず、その意味で「マイナーな言語」であるといえる。とりわけ目立つのは文字表記のレベルであり、広東語のなかには文字(漢字)に対応していないことばがあるし、対応していても当て字的なものが多く、地域や使用者によって異なっていたりする。例えば、複数であること(あるいは「もっと」の意味)を意味する、発音記号でいえば di などと表記されうることばにたいしては、「的」の左に小さく「口」をそえた広東語に独自の漢字によって表記するのがわりと一般的だが(広東語では、こうした口偏をそえることによって造語された漢字によって当て字的に表記することが多い)、香港の使用者によってはローマ字の「D」で表記したりすることがある。例えば「もっとたくさん」を意味することばが「多D」などと表記される。そんな表記は正しくない、とは誰も断言できないという状況が、言語の標準化がなされていない、ということなのである。

 外国語として広東語を学ぶ者がもっと困惑するのは、標準化された発音表記法が存在しない、ということである。日本人にとって広東語の難しさはとくにその発音にあり、発音記号なしには広東語の学習はほとんど不可能であるので、研究者や教育・研究機関がそれぞれに工夫して発音表記法を開発している。主なものだけでも、イェール式、常用字広州話読音表、千島式、あるいはライ式などがあり、日本でもそれらの発音表記法が併存している。しかも、日本で出版されている広東語のテキストや辞書はそれぞれに独自の工夫を追加していたりするので、結果として、著者の数だけ発音表記法がある、とさえいえるような状況である。これはもちろん、学ぶ者にとってたいへん不便なことである。

 不便だというだけではない。標準化されていないということは、言語のありかた自体に深く関わっている。すなわち、広東語が標準化されていないということは、「正しい広東語」なるものが存在せず、ただ地域や話者によって異なる広東語がばらばらに存在している、ということでもある。その結果、これはまた不便だという話にもなるが、学習者はどの広東語を学べばいいのか、わからなくなってしまう。広東語のテキストだとか広東語の辞典などと称していても、実際にはある特定の地域の、ある種の広東語 ― より口語的であったり、よりかしこまったりしている広東語など ― に偏っていることになる。それゆえ、例えば日本で出版されている広東語のテキストをみて、香港出身の人が「こんな広東語の表現は聞いたことがない」と驚くということがあったりするし、広東・広西の人にとっては英語由来の言葉がよくまざる香港の広東語はかなりおかしな広東語に聞こえるだろう。例えば、香港では生徒・学生が先生を呼びかけるときに(あるいは一般の人が警官をよびかけるときなどに)、 a sir と普通に言う。 a は阿などと表記する、敬意ないし親しみをあらわす広東語の接頭語で、 sir は英語由来の敬称で、これに対応する漢字はないようである。

 広東語が、話者が多いにも関わらず他の中国語方言と同様に標準化されていないのは、広東語がこれまで「国家の言語」になったことがないためであろう。歴史学や社会言語学などがしつこく跡付けてきたように、国民国家的な国家はその最初期の事業の一つとして国民全体が共有できる共通語をある程度人工的に作り出し、教育やマスメディアを通して言語の統一化を図ろうとした。それは多少の時間はかかるが、基本的に成功してきたのであり、結果として大多数の国民は共通語と方言との二重言語体制のなかを生きることになる。広東語もまた、例えば日本における関西弁と同様に、そういう共通語として採用されたことはなく、方言であり続けた。

 もっとも、広東語の位置づけは、日本の方言などとは多少異なる。広東語の話者の多くは、近代以降も共通語(=普通話)がしゃべれず広東語しかしゃべれない人が多かったようである。本土の広東語使用圏でも香港でも学校での「国語」の授業は広東語読みで行われてきたらしい。それゆえに広東語は、共通語によって公共性を大きく奪われた日本の方言などよりは、より公式的な場でも使用されるような、ある種の公共性・社会性をもより強くもつ方言であるということもいえる。例えば、広東のテレビ局のアナウンサーはやはり広東語(的なあらたまったことば)をしゃべるらしい。こうしたことが起きる背景には、発音のレベルでは、普通話と広東語の距離が日本での共通語と方言との距離などよりも大きいということ、しかも書き言葉のレベルではさほど違いがない、という特殊な言語的状況があるのだと思われる。

 香港においては、やや事情が異なる。返還前は、しゃべることばのレベルでは、英語と広東語の二重言語体制的な状況であったが、誰もが英語をしゃべれるわけではなく、広東語しかしゃべれない人も多かったし、今もそうである。他方、書き言葉のレベルでは、英語と並んで「中文」が返還前も返還後も公用語であるが、それは「中文」 ― この場合の「中文」とは何であるのか、というのは微妙な問題だが、いずれにしても文章語で、広東語圏以外の中国人も読解できるもの ― として表記されたものを公式の場でも広東語式の発音で読むということであり、いわゆる「広東語」を公用語にしていたとはいえない。広東語は基本的にはしゃべり言葉であり、公式的な書き言葉(=この場合の中文)とは異なる。例えば、先にもふれた di などといったしゃべり言葉的な表現は表記だけでなく発音のレベルでも、香港におけるこの「中文」では使われない。それでも、この「中文」は香港では公式の場でも広東語式で読まれるということが、日本の方言などとは異なる、広東語の独特の地位を示している。香港の歌手たちの歌う歌も、少し意外なことだが、中文を広東語式に読むというこのやり方と同様である。

 それゆえ、広東語には、日本の方言などとは異なり、よりしゃべり言葉的な広東語からより書き言葉に近い広東語までの広がりがあり、大雑把にいえば、広東語は共通語=普通話からの自律性が高い、といえるだろう。こうした広東語の独特の広がりと自律性は、広東語と広東語文化圏の力強さと深く関わっていると思われる。

 こうした広東語の若干特異な位置づけ(それは他の中国語方言と同様なのかもしれないが、私にはよくわからない)はともかくも、非国家的なマイナーな言語が標準化されていないこと、それゆえに正しい言語なるものも存在しないという状況の方は、わざわざ学ばなくても最初からわかりきったこと、研究者たちがくどくど強調してきたことではないか、と思う人もいるだろう。けれども、実際に私が学んでみて実感したのは、自分が知識としてはそうしたことを知っていても、それでも言語には「正しい言語表現」があるとどこかで信じていた、ということである。少し大げさにいえば、どこかに「正しい唯一の広東語」なるものがあって、テキストや辞典はその正しいものに基づいて編集されたものであり、広東語を学ぶとはその正しいものに無限に近づいていくということである、と漠然と信じていたのである。

 ふりかえって考えてみれば、英語であれフランス語であれ、私はそのような正しさの存在を前提にして学習してきたように思う。もっといえば、「母語」であるはずの日本語であっても、正しい日本語があるものと漠然と信じて身につけて使用してきたように思われる。あるいは教師としても学生のレポートを読んで、しばしば「これは話し言葉的な表現で、書き言葉では普通は・・・」などと添削している。我々は、結局のところ、共通語の人工性・恣意性を知識としては知っていたとしても、それでも国家化され標準化された、仮想上の「唯一の正しいことば」なるものの磁場のなかで言語活動を行っているのであり、それは意識のレベルを超えて深く身に染みついているのだと思われる。こうしたことは、国家的な秩序・力というものがいかに偏在的で深くにまで達しているかを示す、重要な現象であるといえるだろう・・・そのようなことを広東語を学びながら改めて気がついたのである。

 だから、せっかく標準化され多くの人に通じる便利な国家語があるのに、広東語のような標準化されていない言語、つまり無数に分枝している言語を母語としてではなく学ぶ、という行為にはどこか滑稽さがある。特定の地域や各人の固有の属性に根ざすことのない「正しい方言」なんか原理的にありえないのに、にもかかわらずあえてそれをしゃべろうとするのは不自然であり、ましてそれを正確に運用しようとすることは原理的に不可能なことである。外国人が例えば関西弁をしゃべるとどうしてもある種の滑稽な感じがするのはこうした事情ゆえなのだと思われる。私は関西にもう20年以上住んでいるが、今でも関西弁はほとんどしゃべらないし、イントネーションも関西風にならない。結局、関西弁といっても地域や話者によってずいぶん違いがあり、そのうちのどれかを私が選んで使用する必然性がないのだと思う。先日、大阪でタクシーに乗ったとき、岸和田出身という運転手のおじいさんのしゃべる関西弁が、若い人たちの吉本風の関西弁とはかなり異質な、とてもゆったりとした関西弁であることに驚き、いいなあと思ったが、だからといって私が今さらそんな関西弁を身につけてしゃべることはありえない。

 だが、それでも方言には余所者にとっても魅力があると思う。とりわけ、広東語は私には魅力的である。広東語には、国家化されたメジャーな言語とは異なって、ある種の強迫性というか生真面目さのようなものが少なく、より自由な雰囲気がありユーモアが豊かであるように思われる。また広東語使用圏は一国を形成してもおかしくないほどの人口と経済的な豊かさがあり、また先にふれたような日本の方言にはみられないような「広がり」があるので、文化的な開放性と多様さをともなっているようにも思われる。先にふれた「多D」だとか「阿 sir」といった表現には、そうしたユーモアと開放性があるように思われ、私にはとてもおもしろく心地がよい。あるいは、広東語を習い始めた時に最初に知って笑ったのだが、「ない」ことを意味する漢字(普通話でいえば「没有」)を、「有」という漢字から真ん中の「=」の部分を引き抜いた漢字を新たに造って表記する、というやり方にも広東語的なユーモアがあるように感じられる。この開放的なユーモアは、関西弁のそれにも通じると思うが、関西弁以上であるとさえ思う。

 それゆえ、たしかにかなりドンキ・ホーテ的だとは思うが、それでも広東語を学ぶことは楽しく意義あることなのである・・・そう信じて広東語を学ぼうという人たちのための、実践的な助言を、今日はずいぶん長くなってしまったので次回に、書いてみよう。
by kohkawata | 2010-02-14 10:39 | 香港の文化 | Comments(0)
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