『東方見聞録』


マルコ・ポーロ『完訳東方見聞録』1・2(愛宕松男訳注、平凡社ライブラリー、2000年) 

 この世界史的な大旅行記をいまごろはじめて読んだ。

 この本を読んでいくと、私(たち)が教科書的な知識で知っている歴史的な世界と非常に異なる、多様で豊かな世界が立ち上がってくる。マルコ・ポーロは行く先々で、「広大な王国」を通過し、「とてもりっぱな大都市」に遭遇し、「雑多な人種」や豊富な産物を目にする。あるいはこんな楽しげな記述もある。「騎行すること七日間でこの平原を横断し終わると、そのはずれに巨山がある。この巨山を越えると道は長い下り坂となる。まる二日間というものを下り続けるのだが、この間を通じて至る所、さまざまな果実がおびただしく実り続けている」(116頁)。今のイラン中央部辺りの記述であるようだ。あまりに多くの魅力的な国・都市・文物・景勝が出てくるので、彼が旅したアジアとはどこか他の惑星のことであるかのように思われる。

 なかでも、彼の描く「キンサイ」(=杭州)の繁栄ぶりは魅力的である。この旧都は、周囲100マイルに及び、総戸数は160万戸、城内には大小無数の運河が掘削され、その運河には12000もの橋が架かっている、と彼は記述する。商工業も極めて盛んで、例えば工匠組合は12あり、それぞれに12000ずつの工作店舗があり、それぞれの店舗には10人あまりの職人がいるという(だとすると、キンサイには職人だけで100万人以上いることになってしまうが)。市の南側には周回30マイルの湖水があり、湖上の遊覧船には清遊にふける客でいつも満員である、云々。

 アジアを放浪する欧米からのバックパッカーたちのなかにはこの本に触発された人が多いとどこかできいたが ― 本当かどうか知らない ― 、なるほどこれは世界中を旅したいという衝動を若い人にもたらすような、壮大なおもしろさがある。西洋の、中世の、商人の目を通してみた「オリエント」が、我々が一応知っていると思っている歴史的世界とは別に、茫々と広がっている。

 同時に、マルコ・ポーロという人が、人間の愚かさというものをたっぷりと体現していることにもまた、ある種のおかしみがある。最も目立つのは、彼が、キリスト教以外の宗教の信者たちを無反省に蔑視していることだ。なかでもイスラム教徒にたいしては「とても人が悪くて信用できない」などと敵愾心が顕わであるし、中国の諸民族や日本人はみな「偶像教徒」と一括して、わざわざ嫌うほどでもない一段下の存在であるかのようにみなしている。また、彼は元の皇帝「カーン」(フビライ・カーンのこと)の途方もなく強大な権力に敬服しきっていて、何にたいしてもカーンの視点から、つまりとんでもない「上から目線」で見下す傾向が強い。また自分を誇大にみせるのも好きなようで、例えば元が南宋を征服した一つの契機は、カーンにたいして自分が適切な軍事技術上の助言をしたことにある、などと大嘘を並べてみたりもしている。

 この旅行記の本筋ではないが、『東方見聞録』のなかで私がとくに惹かれたのは、ポーロが道中の人たちから聞いたという「山の老人」の逸話である。よく知られたているのかもしれないが、こんな話だ。

  「山の老人」は、狙った人物は必ず殺すという暗殺集団のボスであり、数多くの国王や領主たちは彼に殺されることを恐れて、友好関係を築こうとして貢ぎ物を欠かさない。山の老人は次のようにして暗殺者たちを養成している。老人は、ペルシア北部にあるムレヘットという国にある、二つの山脈にはさまれた峡谷に、壮大美麗にして贅をこらした庭園と邸宅のある宮苑をつくった。老人は、12歳から20歳の若い男たちを手なずけ老人のことを真の預言者だと信じさせたうえで、秘かに一服の薬を飲ませ昏睡させ、この宮苑のなかで目覚めさせる。すると若者たちは、そこがあまりに美しい場所で、しかも絶世の美女たちが集まっているので、自分たちは天国に来たのだと信じ込む。「美女たちは終日そのかたわらに侍って音楽を奏し歌を歌い、珍味佳肴の饗宴に給仕する。若者たちはこれらの美女を相手に存分の快楽を享受する。かかる次第で、若者たちはしたい放題できるものだから、この宮苑を去りたいなどとはつゆほども望まないのである」(上巻、138頁)。しかし、老人は、しかるべき時に若者たちに再び薬を飲ませ、老人のもとに運ばせる。目が覚めた若者たちは自分が天国にいないことにがっかりする。そこで預言者を装う老人は次のように告げる。「もう一度お前たちをあの天国にやってやりたいと思うから、特にお前たちを選んでこの使命を託するのだ。さあ行け。ただ某某を殺しさえすればよいのだ。万一お前たちが失敗して死ぬようなことがあっても、そのまままっすぐ天国に行けることは疑いない」(上巻、141-2頁)。かくして若者たちは天国を夢みて驚喜しながら、老人に命じられるがままに暗殺を遂行するのである。

 この「山の老人」の話は、多くの人の心をとらえるようで、ネット上などでもテロリズムとの関係などでよく言及されているし、私もだいぶ昔にテレビなどで聞いたことがあるように思う。この話は、注釈によれば ― なお、愛宕松男という人による詳細な注釈はたいへん高い水準のものだと思われる ― 、「新イスマーイール派」という名のイスラム教の一宗派が反対派の要人を倒して教勢を拡大するために刺客の養成をやっていた、という歴史的な事実に起源をもつとのことである。そして、英語で暗殺者を意味する assassin は、この一派が使った麻薬の名 hashish を語源とするそうで、このことからも、この逸話周辺のことが昔から遠くへもよく伝わっていたことがわかる。

 この話がなぜ私も含めて多くの人を惹きつけてきたのかを考えると、一見したところ、魅力的な悪役が活躍する奇想天外で安っぽいアクション映画のような話でありながら、同時に、この暗殺者たちの悲しい運命が私たちの、とりわけ男たちの人生の寓話にもなっているからではないか、と思われる。男たちの人生とは、天国・幸福・永遠・快楽・栄達・名誉・承認・安心などを夢みて、時間や苦労や危険などを顧みず何かをやり遂げようとするのだが、結局は何も得られずに終わっていくのであり、そのような普遍的な運命を若い暗殺者たちは体現しているのではないかと思うのだが、どうだろうか。
by kohkawata | 2010-02-05 15:46 | 近世中国の文化 | Comments(0)
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