詞のアンソロジー


 詞についてのよい本をようやくみつけた。村上哲見注『李煜』(岩波書店、1959年)である。

 この本は、吉川幸次郎・小川環樹編集校閲『中国詩人選集』全32巻の一冊である。この選集ははるか半世紀も前のものだが、白いカバーの装幀はたいへん美しく、内容もいまだに古びていないよいもので、長く私の愛読のシリーズであり、その一冊『宋詩概説』を初め何度も読んでいる卷もある。

 しかしこの中の『李煜』は読んでおらず、選集中唯一の、「詩」ではない「詞」の本であるとは、うかつにも気がつかなかった。前半は李煜の詞の紹介・注釈が中心だが詞一般の解説も含まれており、後半は李白にはじまり李煜の父李璟にいたる詞 ― それは『花間集』という現存する詞の最古のアンソロジーとほぼ重なるものである ― とその注釈からなる。この本は日本で最初のある程度本格的な詞の本のようで、また今日でも最もよい詞の入門書であると思う(同じ村上氏に『宋詞の世界 ― 中国近世の抒情歌曲』大修館書店、2002年、という一般の人を対象にした本もあるけれども、ちょっとわかりにくい)。

 以前から、私は宋詞のことが気になっていた。

 中国語圏の大きな書店にいくと、唐詩・宋詞・元曲はそれぞれたくさんのアンソロジーが並んでいる。あるいは、漢文・唐詩・宋詞・元曲と四つが並び称されることも多い。だが、日本で広く知られているのは漢文と唐詩であり、宋詞と元曲はほとんど紹介されていない。私は、宋詞や元曲のアンソロジーを何冊か買って帰って読んでみたが、貧しい語学力のせいか、その味わいはよくわかなかった。

 なるほど詞とはこういうものか、と生半可ながらも理解できるような気になったのは、詞の朗読をはじめて聞いた時である。「パンダと学ぶ中国語」というサイトで詞の朗読を聞くことができて(i-tuneでも同じ朗読を拾える)、かなり美しい響きであることがわかる。もっともこの朗読が詞の朗読として標準的なものなのかどうかわからないし、そもそも詞には、中国でも早くに喪われたのだが、元来メロディーがあったという。それでも、韻文は音をもって楽しむものであり、ごく僅かとはいえ詞の朗読を聞くことができるのはありがたかった。

 この「パンダと学ぶ中国語」にもあるが、私の好きな詞には例えば、宋代の李清照(1084年生まれ)の「如夢令」というのがある。訳は試訳である。

昨夜雨疎風驟   昨夜、雨はさほどではなかったが、風はひどく強かった
濃睡不消残酒   深く眠ったつもりだったが、昨夜の酒はまだ残っているようだ
試問捲簾人     御簾をあげにきた侍女に聞いてみると
却道海棠依旧   庭の海棠の花は散らずにまだきれいに咲いていますよ、という
是否、是否      そうだろうか、そうだろうか
応是緑肥紅痩   きのうよりも緑が濃くなり、花はしぼんでいるはずだ

 『李煜』を読むと、この李清照らの宋詞へと展開していく詞の流れがよくわかる。この本のなかでとくに印象的であったのは、李煜の次の「虞美人」という詞である(なお、詞のタイトルは元々存在したメロディーに対応しているので、内容とは基本的に無関係)。訳はこの本にあるもの。

春花秋月何時了      春の花、秋の月、それらは昔も今も変わることなく、尽きること
               を知らずめぐりきて季節をいろどる。
往事知多少         それにひきかえ変わりはてたこの身、花をみるにつけ、月を見
               るにつけ、過ぎし日の思い出のみは数限りない。
小楼昨夜又東風      このわびしき高殿に、昨夜またしてもそよぎくる春風。

故国不堪回首 月明中  はるかなる故郷、眺めやりてものおもう悲しみにどうして堪えら
               れよう、さえわたる月明かりの下に。
雕闌玉砌依然在      雕(えり)せし欄干、玉の砌(みぎり)、豪奢な宮殿は今もその
               ままに在るだろうに、
只是朱顔改         ただこの身だけは、若き日の輝やかしい容姿はどこへやら、み
               じめに変わりはててしまった。
問君都有幾多愁      わが胸に満ちる悲しみはいったいどれほどといえばよかろう
               か。
恰似一江春水 向東流  長江の満ち溢れる春の水が、東を指して流れてゆくさまをその
               ままに、こんこんと流れて尽きるときを知らないのだ。

 李煜は、皇帝になる人の息子として937年に生まれ、25才で皇帝となり、在位の14年間、豪奢な歓楽を尽くした人である、という。だが、南唐という彼の帝国が宋によって滅ぼされ、その虜囚となっていた2年ほどの晩年に、彼はその生涯でもっとも優れた詞を残すことになる。そのなかでも、この「虞美人」は李煜の詞を代表する名作とされてきたそうだ。

 私もまた『李煜』を通読した限りでいえばやはりこの詞がもっともいいと思うし、深い嘆きと諦念のなかに不思議な華やぎがあると思う。遙か後に映画のタイトルともなった最後の行がなかでも忘れがたい。この詞が42才で亡くなる彼の最後の詞だという説が本当であるならば、李煜は、最後に最高の詞を創造した、ということになる。

 私が読んだ範囲だけでも、李清照や李煜のほかにも、晩唐の温庭筠や李煜の父親李璟、宋代の柳永などよさそうな詞人は数多い。と同時に、詞の世界には、詞人の個性を超えて、ある一つの小宇宙的なまとまり ― それを簡単に表現することは難しいが ― が感じられる。日本語の詩的な才能にも恵まれた人が、詞のアンソロジーを編んで、この美しい小宇宙を世に贈り届けてくれたら、と思う。
by kohkawata | 2010-01-12 18:52 | 近世中国の文化
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