『この世界の片隅に』の感想


 今日、8月25日、287日続いたという上映がとうとう最終日だというので、テアトル梅田で『この世界の片隅に』をもう一度見に行った。

 最初にみたときにはひどく動揺して言葉にもならなかったが、二度目は少し落ちついて観られた。感想を書いてみる。監督や評論家とかがどう言っているか、あえてみないようにしている。

 私にとって、もっとも感動的なのは、原爆投下後数ヶ月経った広島で、孤児(みなしご)となった女の子がすずさんの右腕に手を伸ばすところ、そして、すずさんと周作さんがこの女の子を受け入れて一緒に呉に帰るところである。

 孤児からみれば、これは端的な救済である。同時に、主人公のすずさんからみれば、これは自分が親になることを引き受ける瞬間である。

 すずさんは、すでに姪の母親代わりになろうとしていた。しかし、それは姪の命と自分の右手首を失うことによって悲劇的に挫折していた。

 そう考えると、この映画は全体として、すずさんが、戦争のとんでもない暴力に何度も打ちひしがれながらも、力強く大人になったことを描いているとみなすことができる。

 思えば、すずさんも元々は孤児のような人だった。両親の影はなぜか薄くて、すずさんはわけのわからぬうちに嫁に出される。嫁入り先ですずは新しい家族ができたというよりは、足の不自由な義母の代わりの住み込みの家政婦のようである。当惑した彼女は「自分はこんなところで何をやっちょるのだろう」みたいなことを言う。そして、親に売られたのであろう、水商売の女性に友情を抱く。

 元々孤児のような境遇だったうえに、兄は徴兵されて戦士し、初恋の人も死を覚悟の出兵をし、姪を眼の前で殺され、母を原爆で失ってしまう・・・そうした国家的な暴力に親しい人を何度も殺されながらも、すずさんは大人になろうとする。

 そんなことがどうして可能なのか、どうしてすずさんは力強く大人になれたのか、映画はそのことをそんなに丁寧には描いてはいない(映画が丁寧に描いているのはすずさんの日常で、だからこそ暴力による日常生活の破壊が痛ましい)。

 しかし、玉音放送を聞いたさいのすずさんの行動の描写は、そのことを示そうとしていると思える。すずさんは、敗戦を知って、他の人と違って、「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね!?」みたいなことを叫んで激しく怒る。そして、自分の身体が植民地から奪い取った食料によってできていることを嘆く。

 この、原作にないセリフも含んだシーンは、少し唐突でわかりにくい。すずさんは、終戦に激怒するほど軍国主義者ではなかったはずだし、あまり教育を受けていなくて植民地のことなんてさほど理解していなかったはずだ。にもかかわらず、このシーンがあるのは、いかにも前近代的で戦前的だった従順な彼女が戦争の苛烈な運命をすべて受け入れたうえで、それを乗り越える、戦後的な主体の象徴として成長する必要が、映画の展開のうえで必要であったからではないだろうか。大切な人を何人も失ったことも、右手首を失ったことも、得意だった絵を画くこができなくなったことも、さらには日本による大規模な侵略も、米国による大虐殺も、そのすべての運命に苛まれ受け入れざるをえなかった日本人の象徴的代表として彼女は終戦を迎えるのだ。そして、かく理不尽な運命に苛まれながらも、自らの意思と責任で生き抜こうとすることで、戦後日本人の女神的なイコンとして転生する、ということがこのシーンとそれに続く孤児の受け入れのテーマにおいて表現されているのだ、と私には思われる。

 もっとも、これは生身の人の描写としてありえないほど飛躍しているのかもしれない。これはドラマをまとめあげようとするために設けられた、少し無理のある言い訳めいたシーンというべきなのかもしれない。

 この飛躍的すぎるのかもしれない成長が、それでもわりと自然にみえる背景には、周作さんが最初から変わることなくずっとすずさんのことが大好きだということがあるだろう。それが確かにこの映画の救いで、二人が結婚してから次第に信頼と愛着を深めていくさまはほほえましい。しかし、にもかかわらずこの終戦のシーンにおいて周作さんが留守であるのは、この映画の主題が必ずしも夫婦愛にあるわけではなく、むしろやはり、すずさん自身の神話的ともいえる成長にあること示しているように思われる。

 かくなる成長とともに、孤児のようであったすずさんは、自分に母親の面影を感じて救いを求めた孤児を受け入れることを、静かに、しかし決然と受け入れる。

 すずさんの姿は子どもっぽくて、声も可愛らしくあどけない。そんな人が、何度もひどい暴力に苛まれながらも、それでも母親になろうとする、その健気さに、この映画の感動のわけがあると私には思える。すずさんの成長は神話的でもあるが、しかしおおげさな理想化がなされているわけではなく、十分に抑制的に描かれていて、人の好感を逃さない。

 最初にみたときは、動揺しすぎてエンディングなんか目に入らなかった。しかし、今回みたら、そこには、すずさんと引き取られた女の子、それから周作さんの姉の径子さんの姿が描かれていた。みな、可愛らしい戦後風の洋服をきていて、この映画の手抜きのないやさしさをうれしく感じた。


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by kohkawata | 2017-08-25 19:44 | 現代日本の文化 | Comments(0)
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