懐古的な『さびしんぼう』を懐古する



 闘病中の大林宣彦監督の『さびしんぼう』をDVDで見直してみた。

 私がこの映画を最初に観たのは、高校の2年生が終わる頃の、高岡の御旅屋通りにあった映画館で、であったと思う(記憶違いかも)。1986年の春だったはず。 

 高校生が主人公のこの映画に、高校生であった私はいたく感動したのだが、思い出すと、それはセンチメンタルで美しい初恋のドラマとして感動したように思う。尾道のノスタルジックな光景、富田靖子演じる百合子さんの美しさ、「別れの曲」の甘いメロディー、そんなものがあいまって、映画館を出て、すっかり暗くなった高岡の街で呆然としていたのを思い出す。

 その後、だいぶたってから何度かビデオやDVDで見直したのだが、最初に観たよう時のような感動は必ずしも覚えなかった。音楽を使いすぎているし、効果音が安っぽいし、『さびしんぼう』というタイトルも「さびしんぼう」のキャラもちょっと恥ずかしい。全体にセンチメンタすぎると感じるようになった。

 もっとも、その前後、監督の他の作品もみて、どれもそれぞれによかった。『転校生』(1982年)と『時をかける少女』(1983年)は、映画好きであった私の兄のお気に入りだったこともあって、懐かしいし、『廃市』(1984年)もよかったし、『野ゆき山ゆき海辺ゆき』(1986年)も、タイトルを含めて部分的にはいいと思ったし、そして、山田太一原作で風間杜夫主演の『異人たちとの夏』(1988年)には、かなり強い感動というか悲しみを覚えた。

 しかしそれでも、『さびしんぼう』が大林監督の映画のなかでは最も思い出深い好きな映画であることに今でも変わりはない。そして、今回見直してみて、以前には感じることのなかった作品の中心テーマが、なぜか今ごろになってようやく見えてきたように思った。私は長いあいだ、この作品に感動しながらも、その内実を意識的にはよく理解していなかったようだ。

 尾道三部作の三作目としてよく知られた映画だが、一応書いておけば、こんなプロットだ。 

 尾道に住む主人公の高校生のヒロキ君は、同じ年頃の百合子さんに恋をする。近所の高校の教室でピアノを弾く彼女の姿を双眼鏡で覗いたり、自転車で通学途中の彼女とすれ違ったりしているうちに、彼女の美しい姿に魅了されてしまうのだ。

 言葉を交わしたことすらないのに、ヒロキ君はすっかり彼女に夢中で、他のすべてのことはどうでもいいという態度である。何でもいいあえる仲のよい友人たちのことも、子どものころからの知り合いの近所の母娘のことも、偉そうなのに小心で俗っぽい教師たちのことも、何を考えているかわからない坊主の父親のことも、ぼけかけた祖母のことも、何かと小言を言ってくる母親のことも、すべては当たり前の日常で、全部めんどくさいなあと思って、百合子さんのことばかり考えている。

 そんなとき、ピエロの格好をした「さびしんぼう」と名乗る女の子がどこからともなく現れて、ヒロキ君と母親に何かと騒がしくまとわりついてきて、この母子の日常をかき回すのである。

 映画は、このピエロによるドタバタを少しくどく描いていくのだが、そのなかでこの「さびしんぼう」が実は16才のときの母親であることを明らかにしていく。母親は16才のときにヒロキという名前の男の子に恋をして失恋してしまうのだが、後に別の男性と結婚して生んだ子に同じ名前を付けたのだ、という。この失恋をしたときの16才の母親が、どうしたわけか現在の世界に現れた、というわけだ。そして、「さびしんぼう」は、現在の母親=自分にたいして、息子にたいして叱責ばかりせずにもっと息子の気持ちを汲んで受け入れてやれ、といった意味の説教をしたりする。

 この「さびしんぼう」はなぜか雨に濡れると弱ってしまうらしく、散々母子の生活に土足で踏み込んで荒らしまわったあげくに、ある雨の日に、もうお別れをしなければいけないと泣きながらヒロキ君のもとを去っていく。ヒロキ君の方も、結局百合子さんに振られてお別れとなる・・・というお話である。 

 今回はじめてわかったのは、この映画が、ヒロキ君の初恋の話というだけではなく、むしろヒロキ君とその母親との別れのドラマなのだ、ということである。我ながら信じがたい鈍感さだが、高校生のときには少しも気づかなかった。

 高校生のヒロキ君とその母親は別れが近づいていることをお互いとくに気にしている様子もないが、「さびしんぼう」は、百合子さんに恋をして母親=自分のもとから息子=ヒロキ君が去っていくことをひどく悲しんでいて、悲しすぎて弱って死んでしまうかのようである。「さびしんぼう」が泣く姿をみて、のんきなヒロキ君もさすがに少し同情して悲しくなる。つまり、映画は、表面的にはいつもと変わらぬ日常の深層で進んでいく、母子の分離のドラマを描いているわけだ。

 この映画は、この母子の別れの悲しみを歌い上げているのだが、同時のこの母と子の互いの思いが、微妙に、しかしはっきりとすれちがっていることも示している。

 母親の息子への愛情には微妙に性愛的なものが含まれている。ヒロキという名前が母親の初恋の相手の名前からとられていることで、この母親の性愛的な思いが息子に注がれていることがわかるし、「さびしんぼう」は百合子さんに嫉妬している様子でもある。母親のこうした性愛的な思いは当然ながら満たされることはなく、かつてヒロキにふられたように、母親はもう一度ヒロキに捨てられるのである。

 一方、ヒロキ君は、日常的には母親の存在をうっとおしいと思っているし、そんな母親の性愛的でもある愛情を気にもとめない。けれども、そのヒロキ君もどこかでは母と別れていくことを悲しんでいるのであり、それが百合子さんへの思いに移し替えられているようにみえる。ヒロキ君にとって初恋は、初めて異性に性愛的に魅かれるということだけではなく、この母子の分離にたいする補償という意味をもっていることを、映画は、暗示しているというよりは、はっきりと意図的に描いている。百合子さんと「さびしんぼう」は富田靖子の二役で、だからヒロキ君は若き日の母親に似た姿に恋着している、というわけになる。母子がともにあったパラダイス的な日々が終わりつつあるからこそ、母親と似た異性の面影にすがりつこうとするわけだ。

 興味深いのは、「さびしんぼう」の方が怒ったり嫉妬したり泣いたりしてひどく人間的で全人格的なのに、百合子さんはいつも無表情でどんな人かわからないということだ。だから、ヒロキ君が好きなのは、母親や百合子さんの等身大の存在なのではなく、その姿の美しさや声や匂いといった、記憶のなかにある断片的で物質的なものだと考えられる。だから、ヒロキ君は母親との別れを心の奥では深く悲しんではいるのだが、実在する目の前の母親とは無関係に、母親の断片を弄びながら一人で悲しんでいるわけだ。子どもの母親への愛着とはたいがいはそんなものなのかもしれない。

 かくしてヒロキ君は母と別れるのだが、彼が失うのは、母や母と似た百合子さんだけではない。すでに高校生でもうすぐ大人にならなければならない彼は、数年のうちに子ども時代のすべてを急速に失っていくだろう。友だちとの気のおけない関係も、バカバカしくも楽しい学校生活も、家族を支えてくれていた父も、すべてを失っていくのであり、親げながらも儚くもある、どこか「廃市」を予感させる、尾道の風景を丁寧に写し込んでいるこの映画はそうした大きな喪失体験を描いているようにみえる。

 父親は何をしているのだろう、というのがこの母子のドラマにたいする素朴な疑問であろう。妻が初恋の相手の名前を息子につけることをスルーしたこの父親は、無口なうえにたまに口を開いてもトンチンカンなことしか言わず、何の役割も果たしていないようにみえる。そして、この映画は、ヒロキ君の父親だけでなく、すべての「父親的」なものを丁寧につまみだしている。祖母はいても祖父はおらず、校長先生は男だがヒロキ君たちに散々からかわれ、PTAの会長は間抜けなおばさんで、男の担任の先生は悪い人ではないがエロい俗物として笑われている。百合子さんにも母はいるが父はいない。尾道には「父」はおらず、尾道の外の世界はいっさい描かれない。

 『さびしんぼう』で表現された「父」を欠いた母性的な時空、それはいかにも戦後日本的な時空である。もっといえば、それは戦争からも貧困からもバブルからも衰退からも自由であった、「現実」がどこか遠い、ユートピアのような1980年代的な時空、我らが高校時代である(もっとも、映画では向島の百合子さんの家は貧乏で、貧乏なのに和服を着ていたりして、そこには80年代というよりはもう少し前の時代の、たぶん監督の少年時代の雰囲気がある)。

 その母性的な時空にあって、はっきりと自覚しなくても予感せずにはいられない母の喪失が大きければ大きいほど、人はきっとそれに直面などできないのだろう。ヒロキ君が百合子さんを強いて追いかけたりしないのは、結局彼にとって百合子さんが、失われいくすべてのもの(なかんずく母)の悲しい代理にすぎないからで、百合子さんは最初から消えていくべき形象なのだ。百合子さんを失って、それを悲しむことで、むしろ本当の悲しみから何とか逃れることができるような気がしているのかもしれない。

 意識できない別れの悲しみというテーマは、前作の『時をかける少女』でも主題的なものだ。主人公の和子は未来からきたという青年と別れるさいに記憶を消されるのだが、それでも覚えていないはずの初恋の思い出を抱きしめるかのように、独身であり続けるという結末になっている。『異人たちとの夏』では、このテーマが発展していて、亡霊として蘇った若き日の母と父と再会したうえで改めて永遠に別れる、というプロットになっている。それまではちゃんとお別れできていなかった、ということだろう。

 映画は最後に、実はヒロキ君が百合子さんと結婚したことを示すが、これは映画的な慰めといえよう。 映画のなかのヒロキ君は、百合子さんと結婚するばかりではなく、父親の跡を継いで住職に納まっているので、尾道の街とも別れずにすんでいるし、おそらくは老いた父母ともともに暮らし、高校時代の親友たちとも、盆正月には会えるだろう。だから、この映画を観終わった観客は、「なんだ、よかったじゃないか」とちょっと安堵することができる。しかも映画は、結婚した百合子さんがヒロキ君に「もう一つの顔」を見せている、と語る。つまり、失われていくべき形象とは別のより実在的な百合子さんが呈示されているとすることで、ヒロキ君も観客も現実に立ち返ることができるのである。

 しかしながら、実際の人生はそう簡単に幻想から目覚めて心地の良い「現実」に立ち返えられるわけではないだろう。尾道のような衰退していく地方都市には仕事も希望もないから、多くの若者は東京や関西といった大都市圏に移住してちりぢりになって帰ってくることはない。子ども時代の豊かな幸せと小さな不幸は、高校時代の終りととともに、ほとんどすべて失われて記憶のなかにしまわれていく運命にあるのだ。

 大きな喪失を抱えて、人はどうすればいいのだろうか。

 映画『さびしんぼう』は、そのノスタルジックな風景や甘い音楽、あるいは都合のよい結末とはうらはらに、青春の過酷で普遍的な喪失の運命を鮮やかに表現していると思う。



by kohkawata | 2017-07-24 16:11 | 現代日本の文化 | Comments(0)
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