岩波文庫の『エピクロス』(出隆・岩崎允胤訳、1959年)をしばらくぶりに読み返してみたら、エピクロスはおおむね正しい、そして本当に楽しい人だなと感じた。 この人がこの断片的な文章のなかで繰り返し言っていることは、この世界は実に気前よく人間に愉悦を与えてくれる、ということだ。 「快とは祝福ある生の始め(動機)であり終り(目的)である」(70頁)。 人間とは、快を生き続けるもの、そんな祝福された存在なのだ。こんなおめでたい人生観があろうか。 だが、かく祝福された人生を送るためには条件がある。それは、恐怖から自由であることとだ。 「たいていの人は、質素な暮しを恐れ、その恐怖のために、かえって、こうした恐怖を最も多く生み出しそうな行為へと導かれる」(122頁)。 恐怖は恐怖を生む。だが、エピクロスによれば、恐怖は錯覚にすぎない。 「ひとは、恐怖のために、あるいは際限のないむなしい欲望のために、不幸になる。だが、もしこれらに手綱をつけるならば、祝福された思考を自分自身にかちとることができる」(122頁)。 さらに進んで、こうも言っている。「君が途方にくれてこまっているかぎり、それは、君が自然を忘却しているからである、というのは、君は自分でわざわざ不確定な恐怖と欲望を作り出しているのだから」(116頁)。 すべての恐怖はまやかしだ、自然とともにあれば決して途方になんかくれない、というのだ。この世界=自然は恵みに満ちているわけだ。 むろん、この世界にも苦痛というものはたしかにあるが、しかし、 「悪いことどもの限度は、時間的にも、痛みの点でも、わずかである」(73頁)。 よく考えてみれば、究極の恐怖であるかもしれない死でさえも恐ろしいものではない、という(ここがエピクロスの議論の肝所だろう)。 たしかに、「人はだれも、たったいま生まれたばかりであるかのように、この生から去ってゆく」(98頁)。だが、それでも死は論理的によく考えてみれば恐れるべきものではない。なぜなら、「われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである」(67頁)。だから、死は少しも怖くないのであり、「旅の終りに達したときには、いつもとかわらず明朗快活であるべきである」(96頁)。 実感としては人は死についても、老化や病気や苦痛についても、それが予期されるだけで不安や恐怖を感じる。だが、死そのものは恐怖すべきことではないと論理的にはいえる。だから、エピクロスは、物事を知的に論理的に正しく認識する知者であらねばならないという。さらにすすんでいえば、 「思慮深く美しく正しく生きることなしには快く生きることはできず、快く生きることなしには〈思慮ぶかく美しく正しく生きることもできない〉」(76頁)。 知性と愉悦とは相互循環的なのであり、知性の欠如と不幸とも相互循環的なのだ。この命題を快く受け入れる人はまさに前者の相互循環にあり、不快に思う人は後者の循環にあるのだろう。 ともあれ、もししっかりとした知者でさえあれば、もはや死は怖くない、死が怖くないなら、もうすべては怖くない。そして、恐怖から自由になった人間には自然から豊かな愉悦が与えられる。かくして、繰り返すが、「快とは祝福ある生の始め(動機)であり終り(目的)である」(70頁)。 逆に、「「長い人生の終りを見よ」というのは、過去の善きことどもにたいする忘恩の言葉である」(101頁)。世界は恵みに満ちており、その恵みを最後まで楽しもうではないか、というわけだ。 世界の恵みである快=愉悦とは、エピクロスにとって、いたって平凡な、身体的なものだ。「いっさいの善の始めであり根であるのは、胃袋の快である。知的な善も趣味的な善も、これに帰せられる」(59頁)。だから、「水とパンとで暮らしておれば、わたしは身体上の快に満ち満ちていられる」(114頁)。 エピクロスはこんな楽しい言葉も残している。「チーズを小壷に入れて送ってくれたまえ、したいと思えば豪遊することもできようから」(114頁)。あるいはこうもいう。「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスにさえ競いうるであろう」(92頁)。 かく身体的な愉悦に満ちる人は、自己充足的に自律しており、他者や社会に依存しない。「他の人々からの賞賛は、招かずして、おのずから来るべきものであって、われわれとしては、われわれ自身の癒されることにこそ専心すべきである」(99頁)。 そして、快の愉悦に満ちていることは、それ自体が「善」なのだ、とエピクロスは大胆にも言う。「最大の善については、それが生じるのと、われわれがそれを楽しむのとは、同時である」(94頁)。そして、「自己充足の最大の果実は自由である」(101頁)。 善とは、他人の評判とか地位とか名声とかそういった社会的なものではないし、他者への貢献などでもない。善とは、身体的な愉悦に満ちることなのだ、とはなかなか大胆な善の定義である。 かくなる愉悦の身体は、確かに自己充足的でだが、自閉的なわけではまったくない。 「明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう」(123頁)。「知者は、困窮に身を落したときでも、他人から分けてもらうよりも、むしろ自分のものを他人に分け与えるすべを心得ている。これほどにもかれの見出した自己充足の宝庫はすばらしい」(95頁)。 十分に愉悦に満ちたものは、気前がよい。だからといって彼は社会のために生きているわけではない。ご機嫌だから、ケチらずに気前よく人に与える、というだけのことだ。だから、エピクロスの社会観はとてもドライだ。 「正義は、それ自体で存する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互いに加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である」(83頁)。 社会は契約にすぎないと、近代的な見方をこの古代人は示している。さらに、「法は、知者たちのために存する、かれらが不正をしないようにではなしに、不正をされないように」(124頁)とも言う。こう考えると、法律も、実に気分のいいものであり、法律で成り立つこの社会も気分のいいもので、そんなものに抑圧されたり一生懸命貢献したりする義理も必然もない。なんと明るい社会観であろうか。 「大きな悪が避けられておれば、無上の喜びが生まれる。そして、これこそが善の本性である」(120頁)。 社会の悪、他人の悪、自己の悪、それらがあまりに大きくなければ、自ずから我らは喜びに満ちる。だから余計なことなんかしなくてよい、「隠れて、生きよ」(125頁)ということになる。 こうした彼の思想を一言でいえば、こうなるのだろう。 「不死なものとして、君の道を散歩してゆきたまえ」(112頁)。
by kohkawata
| 2014-12-24 10:31
| 欧米の文学
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