ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義



 佐藤健志の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋)をしばらくぶりに読み直した。

 きっかけは、最近一部で話題の白井聡『永続敗戦論』を読んだことにある。『永続敗戦論』は、敗戦後の日本の永田町の政治家や霞ヶ関の官僚たちに根強く働いている、「対米従属」の宿痾とでもいうべき根強い傾向を雄弁に描き出しているのであるが、『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(以下、『ゴジラとヤマト』と略称)もまた、戦後の日本人のなかに潜む対米従属の心情を、かなり見事に分析している。

 白井もこの本を当然参照していると思ったが、まったく言及されていない。そういえば、同じように、戦後日本における政治家・官僚たちの対米従属の歪みを鋭く告発している、オーストラリアの政治学者ガバン・マコーマックの『空虚な楽園』や『属国』、あるいはジョン・W・ダワーとの共著『転換期の日本へ』も、どれもたいへん優れた仕事だと思うが、この『ゴジラとヤマト』には(たぶん)一度もふれていない。

 そこで、もしかしたらこの本は世間に忘れられているのかもしれないと思い、ちょっと書いてみる。なお、この創見に満ちた本が出版されたのは1992年で、著者は1967年生まれであるから、たいへんな若書きである。

 佐藤は、『ゴジラ』、『ウルトラマン』、『宇宙戦艦ヤマト』の各シリーズと、高畑勲と宮崎駿のいくつかのアニメ、安彦良和と押井守のアニメ・漫画など、戦後の日本を代表する少年向けの作品(佐藤と同世代の私には馴染み深いものばかり)を取り上げながら、そこにみられる、「イデオロギー」の矛盾を析出することで、作者たちのなかのみえざる対米意識と、それと密接にかかわる、しかるべき責任を背負うちゃんとした大人の男にいつまでもなれない「少年」たちの幼稚さぶりを明らかにしている。

 なかでももっとも面白いのは、『ウルトラマン』の分析であろう。ウルトラマンは宇宙人なのになぜ本来縁もゆかりもない地球人たちのために危険を顧みず怪獣と戦ってくれるのだろうか、ドラマの根本的な欠陥であるはずなのにウルトラマンのありえないほど博愛的な態度になぜ視聴者である男の子たちは違和感を抱かないのだろうか、と佐藤は疑問を投げかける。

 佐藤の答えは、単純である。ウルトラマンが実は米軍だからである。

 米軍もまた、外国人なのに、日本を守ってくれるはずだと日本人は信じている。その信仰にはたいした根拠はないのであるが、にもかかわらず米軍=米国の絶対的な強さと米国人の日本人への好意を戦後の日本人は信じている。そしてそのご都合主義的信仰は、日本の子どもたちも共有するところであって、制作者や子どもたちのなかにある対米従属の信仰が、ウルトラマンという作品のなかで起動して、ウルトラマンが、まるで米軍のように、自分たちのために敵をなぎ倒してくれることに拍手喝采するわけだ。それが証拠にみればよい、自衛隊を連想させる「科学捜査隊」は登場しても、在日米軍を連想させるような軍隊は、舞台が日本であるにもかかわらず、いっさい出てこないではないか。米軍の不在はウルトラマンが米軍を代替しているという解釈によってしか説明できないのだ、という。

 この本における佐藤の論証は理詰めだが結局厳密なものではないし、地政学的大状況と個々の心情とを結びつけるこの種の議論を厳密に論証することは一般にそもそも難しい。それに、ウルトラマンや仮面ライダーのようなヒーロー物には、米軍の投影ばかりではなく、男の子たちの万能感や醜い愚か者への近親憎悪といった感情も当然反映されているだろうし、庇護的な父親と酷薄な父親という分裂した気持ちも織り込まれていたりするだろう。いわば、ヒーローとその敵とは、作者と子どもたちの様々な情念の複雑なアマルガムであるはずであり、それゆえ佐藤の分析は一面的だとは思う。とりわけ、数々の乱暴で醜い怪獣たちが何を表しているのかを考えようとしていないのは、ヒーロー物の物語分析としては大きな欠点である。怪獣たちは、ソ連を表していたわけではないだろう。

 だが、それでもなお、日本のヒーローたちは実は米軍の化身なのだという主張は独創的であるし、本質の一端を射抜いている、と私には思われる。

 ゴジラもまた、佐藤の主張を私なりに思い切って単純化していえば、米軍の力を具現化したものである。眠れる恐竜であったゴジラは、米国の水爆実験によって目をさまし、南洋からやってきて日本に上陸し都市で暴れ回るのであるが、その様子はやはり南洋から飛んできて日本の街々を空爆した米軍のアナロジーなのである。そして、映画のなかでは自衛隊は出撃しても、やはり在日米軍の存在は描かれないのであるから、ゴジラも米軍なのである。ただ、1954年という戦後間もない段階で撮られた『ゴジラ』においては、米軍は日本を無償で守ってくれる都合のよい守護神であるよりは、日本を破壊した恐ろしい加害者として表現されている、というわけである。

 佐藤は、こうした戦後の映画やアニメの分析に基づいて、そこに現れている対米従属の必ずしも意識されない思い込みの根強さを剔出しながら、さらにある種の戦後批判にも踏み込んでいる。すなわち、自分たちの国の安全保障を真剣に考えることなく、米国が守ってくれると米国の善意を期待しながら、「小市民的な日常」に埋没して惰眠を貪ろうとする、こうした日本人たちは、どうしようもなく甘えた幼稚さに満ちており、マッカーサーが言ったようにせいぜい12才にしかなれない、だから、現実を見据えてもっと大人になるべきなのだ・・・・

 こうした、戦後批判としての対米従属論というスタンスは、白井やあるいは江藤淳の一連の対米占領・対米従属についての仕事、またそれをうけた加藤典洋の『アメリカの影』などにも共通するスタンスではある。ただ、私は、対米従属の剔出の部分には膝を打ちつつも、これらの戦後批判の部分にはあまり共感できない。いずれもが、地政学的な歪みをもって、政治論から人生論まで一気に語ろうとして、その政治論・人生論の中身はそれぞれであるが、いずれもが性急な提言になりすぎているように思われる。

 私がこの『ゴジラとヤマト』という本に感心したのでは、そうした性急な部分ではなく、子どもたちにすら地政学的な力関係が無意識的にすりこまれており、そのことが様々な形をとって現れている、という世界と人間とのダイナミクスを如実に示してくれていることにある(そのようなダイナミクスは、江藤淳の仕事全体にも豊かに示されていると思うが)。

 私たちは、他人とは異なる自立した自分を感じて生きているが、しかし、私たちはいつでもこの世界とともにある。戦中・戦後の歴史の積み重ねも、日本に展開する米軍も、あるいはきっと中国や台湾や韓国も、あるいは北朝鮮や、ひょっとすると「イスラム国」ですらも、私たちとともにある、たとえそのことを意識してなくても、私たちの「こころ」のなかに、それらの諸々はうごめいているのだ、そこには「従属」ということに止まらない豊かさがあり、そのことに驚きもっと楽しむべきなのではないか・・・・などといったら諸々の対米従属論以上に飛躍した抽象論になるだろうけれども、そのような豊かさを感じさせてくれるものが、この忘られているのかもしれない『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』という若々しい本のなかには確かにあると思うわけである。
by kohkawata | 2014-09-30 17:40 | 現代日本の文化
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