私の授業にでている学生が面白いというので、読んでみた。 森見登美彦『四畳半神話大系』。 森見登美彦風にいうならば、その面白さは無類であった。 まず第一に、小説の舞台が私にとって馴染み深い場所で、その場所がよく生かされていた。主人公たちが行き交うのは、出町柳から鴨川デルタの辺りを中心に、百万遍、京大キャンパス内、御蔭通、北白川、浄土寺、吉田山、岡崎辺りであり、少し離れて河原町三条から四条辺りにも彼らは出没する。これは私が学生であったころの行動範囲とほぼ正確に重なる。一つの街角、一つの通りにもたくさんの記憶がつまっているのであり、その多くを私は作者ないし主人公たちと共有できる。例えば、「まどい」という百万遍に実在するレストランが小説には出てくるが、この名前をきくだけで、様々な情景が鮮烈に目に浮かぶ。 私のように地方都市にしか住んだことのない者にとっては小説や映画の舞台とはほとんどいつも馴染みのない時空なので、自分のよく知っている場所が舞台になることがこれほど楽しいとはいままでわかっていなかった。この森見登美彦という人は舞台となった土地にたいして、心地よいユーモアを交えた深い愛着を抱いているので、時の流れのなかで私にはいつのまにか色あせてしまった街角が、この小説のなかでは再び生彩をもって輝き始め、そのために、失ったものを取り戻したかのような喜びを私にもたらしてくれる。 他の小説もいくつか読んでみたのだが、このような喜びは森見登美彦の他の小説にも共通することであって、例えば『有頂天家族』では、主人公は京都に住まう狸の一家なのであるが、狸であるにも関わらず彼らの行動範囲はほとんど『四畳半神話大系』の「私」と同じなのである。例えば、夷川の発電所とか出町柳の商店街を北に上がったところにあるアパートだとかに狸たちの根城があったりして、そのいずれも私の知人たちの住んでいた近辺であって、私は在りし日の知人たちと自分のことをまざまざと思い出した。 しかし、主人公たちと学生時代の私とが共有しているのは地理的な記憶ばかりではない。驚かされたのは、両者が、あまりにも多くの経験と感情を共有していることである。具体的に書く勇気などないが、ともかくも主人公たちの、七転八倒、こけつのまろびつのほとんどすべてが、あまりにも生々しく私の学生時代の経験でもあるのだ。 むろん、自分の青春の経験を自分では特殊なものだと思い込んでいても、実はよくある青春にすぎない、ということは一般論としては知っていたつもりだ。過剰な自負心も、世間知らずのお馬鹿ぶりも、感情の大げさな起伏も、異性にころりと幻惑されることも、知人たちとの離合集散も、それらはすべて自分だけの経験でもあるが、若い人というか、若い男であれば、大抵はよく似た経験をしているものだ。 だが、この小説を読んでそうだったのか、と思わされたのは、自分の青春の経験のありようというもののかなりの部分が、よくあるものであるばかりではなく、実はあの大学とその周辺という制度的・地理的なものによって生み出されたものであったのかもしれない、ということである。 思えばあの辺りは特殊な場所でもあった。永遠にも思えた自由に費やすことのできる膨大な時間、ほとんど拘束のない気楽な立場、未来に豊かな可能性があるとどこかで信じている楽観性、知性の偏重、あるいは、奇妙なサークルが無数に存在していること、多数の個性的な人間と出会えること、自分や周りの人間が比較的狭いエリアに集中していること、夜でも安全にうろうろできること、そのようなあの大学の周辺が生み出した諸条件のなかに自分はいたのだ、だからそこで経験する青春は、小説の主人公たちも、私も、そしておそらく多くの男子大学生(とくに京大の男子学生)たちも同じようなものになってしまうのだ。 例えば、作中には猫から出汁を取っているという噂の屋台ラーメン店がでてくるのだが、その「猫ラーメン」のことで作者はこう語っている。 「夜中にふと思い立って猫ラーメンを喰いに行ける世界。これを「極楽」という。」 この気分は完全にわかる。時間はある、情念もある、だから夜更かしをする、それで腹がへる、冷蔵庫には何もない、街へでる、同じような風体の連中が夜中なのにうようよいる、だから安いラーメン屋はいつまでも開いている、そしてそこまで怠惰でありながら明日はあると信じている、だから極楽なのだ。 そのように、偏っているとはいえ他の人たちと膨大な記憶を共有できているかのように感じることができるのは、あれは自分だけの馬鹿げた学生時代であったと悔恨するよりは、だいぶと心温まることである。 というわけで、なるほど、確かに面白かった。
by kohkawata
| 2014-07-31 16:18
| 現代日本の文化
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