Kindle と消えゆくもの

 最近、Kindle を使いはじめた。使い心地のよさに嬉しい驚きを感じている。

 Kindle のpaper white を使っているのだが、画面に映し出される文字の塩梅がたいへんよく、上質の紙にインクで書かれた筆触のようなものすら感じる。また画面が僅かに光ることによって、文章が生き生きとしたものに感じられる。通常のパソコンの画面よりもずっと読みやすく、ほとんど本と見劣りしない水準にある。いや、本よりも、紙という介在なしに、より直接的にテクストに触れることができる感じすらする。

 そして、読みたい文章・本をすぐさま読めてしまう便利さには愕然とさせられる。20年ほど前にamazon で英語圏の本を取り寄せることのできる便利さにも愕然としたが、電子書籍によって取り寄せる時間が限りなく短くなったわけだ(海外の本をダウンロードするのはまだ簡単ではなさそうだが)。

 Kindle で最初に読んだのは堀辰雄であった。宮崎駿の『風立ちぬ』を楽しく観て、すぐに読み直したくなったのだが、研究室の書架に取りにいくよりも、早いし無料であった。そして、『風立ちぬ』のような古典的な作品を読むうえでも、Kindle の画面は少しも違和感がなかった。電源を切ったときに活字印刷をモチーフにした画像を浮かび上がらせるなど、明らかに本好きの取り込みを狙っており、薄く安っぽい文庫本よりだいぶいいとさえ感じさせられた。

 私は自分のことをかなり重傷の本好きだと思ってきたが、Kindle にふれて、自分が好きであったのは本という物体では必ずしもなく、文学作品そのもの、あるいはテクストを読むこと自体なのだということがわかった。Kindle一つさえあれば、どこでもいつでも素晴らしい作品を読むことができる、というのは安易だがとてつもなく楽しい。

 しかし、こんなにもKindle が便利で快適で、かえって少し不安なさびしい気持ちもなくはない。きっと、もはやいわゆる本を手に取って読むという行為も急速に廃れていくだろうし、自宅の書架に大量の本が並んでいるということも、本の置き場所に困るということも、すべてが多くの人にとっては過去のこととなっていくのだろう。街の本屋さんもますます姿を消していくだろう。そういえば、私が好きだった神戸の老舗海文堂も今日で店じまいだそうだ。さらにもっと情報のデジタル化が徹底していけば、まだ「書籍」というカテゴリーにしばられている「電子書籍」というものも消えていくのかもしれない。

 さらに、情報の徹底的なデジタル化が進み、情報へのアクセスの障壁がさらに低くなったとき、本屋や出版業など種々の知的産業はもちろんのこと、私たちの知性とか感性といったものさえもが大きく変わっていくのかもしれない。その内実がどのようなものになるのか、想像もできない。ただ、もしかすると、有象無象の情報がもっともっと溢れかえり、例えば宮崎駿や堀辰雄のように、たいへんな情熱を注ぎ込んで隅から隅まで行き届いた精緻な作品を生みだす、というような営為はこれまでのようには価値あるものとされないようになり、さらには気がつきさえもされないようになるのかもしれない。いや、そもそもすでに堀辰雄だって、その作品は文学としてすばらしいと思うが、すでにずいぶん忘れられていた。芸術や文学といったものの社会的なポジションや精神的な意義がまったく変わっていくのだろうと思われる。

 本も小説も童話も映画もテレビも、そうした近代の文化的産物は、情報環境のさらなるドラスティックな変化のなかですべていずれは消え去るに違いない、とまでいうとやはり何だかやはりにわかには信じられない。しかしどのみち、 もっぱら本を読んだり映画を観たりして学んできた私たち以上の世代のことは、後世の人にはもう本当には理解されないようになるのだろう。そう考えると、やはり少し悲しい。しかしまあ、近代化がはじまってここ数百年、時代はドラスティッックに変化し続けてきたし、世代間の理解なんてものはずっといたって貧しかったに違いないとは思う。
by kohkawata | 2013-09-30 19:08 | 現代日本の文化 | Comments(0)
<< おとぎの国の江國香織 中国本土の不安な未来 >>