映画評論と満男の告白


 ここしばらく、かなり長い文章の仕上げと、研究会用の長くない文章の二つを平行して書いている。どちらもまあまあ順調に楽しく書いているが、おかげでかなり忙しい。しかも蒸し暑く、しかもワールドカップがあり、しかも意外にもまだ日本に希望が残っている。

 以下の文章はちょっと前に書きながら、アップしていなかった。なんとなく暑苦しい文章だからということもあり、ちょっと躊躇していた。迷ったならしゃべってしまえ、が正しい原則かもしれないと思い直して、アップしよう。

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 映画が好きだし研究もしているので、日本の映画評論家の文章もよく読む。しかし、その内容についてはどうかなと思うこともある。とくに、映画館で素晴らしい映画を見終わったあとの余韻に浸りながら幸せな気持ちでパンフレットをめくっていると、ちょっと浅薄な文章に出くわしたりして、余韻もいくらか醒めてしまう、ということがよくある。高名な評論家・研究者の文章であっても、である。

 そうしたなかにあって、佐藤忠男氏の映画評論を私はわりと信用しているし、同感することも多く、いろいろと学んできた。たいへん博識でありながら、それぞれの映画の勘所をさくっと押さえる感じは、淀川長治に似ていて、しかも説明が丁寧で、くせがないと思う。スノッブさがみられないのも、貴重だ。

 最近たまたま目にした彼の山田洋次についての発言は、まさにそうだと大いに共感した。

「彼[山田洋次]は日本の男にきちんとした愛の言葉をしゃべらせようと一生懸命努力するのですよ。だけれども、それがリアリティがない。そこでいろいろ苦悶してコメディになっているわけです。コメディとして扱っている分には、みんな受け入れるのです。それが生のヒューマニズムの言葉として使うと、「キリスト教の宣伝映画やなにかなら別だけれども、大衆娯楽映画の世界でそういう見え透いたことをやるな」と言って批判される。インテリ中のインテリと目されるような人が「本当にどうしようもない奴だ」という言い方をします。まともに愛を語らせようとするとたしかに大変なんです。」(佐藤忠男「映画とテレビ・ドラマから見た公と私」宮本久雄・金泰昌編『公共哲学 第15巻 文化と芸能から考える公共性』東京大学出版会、2004年、22頁)

 以前、『男はつらいよ』の最後の作品(『寅次郎紅の花』1995年)を観ていたら、寅さんの甥がかねてから好きだった女の子に「愛している」と告白するシーンがあった。そのセリフはかなり唐突で、それこそ何のリアリティーもなく、この名手がこんなダメなシーンを撮るのかと、驚かされたことがある。だが、たしかに、山田洋次の軌跡をちゃんと辿ってみれば、このシーンには万感の思いがあることがわかる。何十年かかかっても、何十作撮っても、どうしても寅さんが言えなかったこと、それを山田洋次は最終作になるであろう作品のなかで、未来を担う若い男にどうしても言わせたかったのだと思う。

 愛の言葉をめぐる山田洋次の逡巡と挑戦、あるいはそれに全面的に共感する同世代の佐藤忠男の思いにたいして、異なる世代である私は完全に同調できるわけではない。むしろ、「ああ、そんなことにずっとうじうじしてたんだなあ」と驚きのようなものを感じさえするし、そんな入口辺りで逡巡してるなよ、と苛立つ人(寅さんに怒って寅さんをすてたリリィーのように)がいても理解できる。それでも、そういう形の、誠実でありたいという願いがかつてあったということにはある種の感銘を覚えるし、そのような願いにおいて山田洋次を理解するという佐藤忠男のとらえかたはいいなと思う。

 そうした持続的な挑戦がなされていることを汲み取れずに、単に「凡庸」と勘違いして小馬鹿にする「インテリ中のインテリと目される人」への佐藤忠男氏の反発もよくわかる気がする。
by kohkawata | 2010-06-23 18:23 | 現代日本の文化 | Comments(0)
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