今年の4月もひどく忙しく、このブログの更新もできなかった。新入生たちを迎え入れ、新しい授業をはじめ、新しい会議にもでなければならない。桜が咲いて散っていくのがいっそう怱忙と感じられて、ただでさえ移ろいやすいこの季節を年の変わり目とする日本の慣習に八つ当たり的に恨めしい思いを抱いてしまう。 それでもこの4月は例年以上にたくさんの人たちと出会うことができたことは振り返ってみればよいことであった。個人的に知りあった人のことをブログで書くのはやめておこうと思うが、とくに外国から来た人たちといろいろとしゃべれたことは楽しい経験であった。 忙しい合間に読んだ本で印象に残ったのは渡辺保『江戸演劇史』(上・下巻、講談社、2009年)。言うまでもなく、博識にして鋭敏な、歌舞伎研究の第一人者であり、この人の本はどれもおもしろいが、この新作はもう名人芸の域だと思う。 今回の本は歌舞伎だけではなく江戸時代の演劇全般を扱っているのだが、その語り口自体がひどく演劇的で、正確な表現・分析とはいえないのではないかと思うところも多々があるが、しかし演劇が好きな人が読めば、たまらなくおもしろいと思うだろう。 例えば、近松の『曽根崎心中』にふれた章で、渡辺は、そのもととなった実際に起こった心中事件のあらましを紹介してこう書いている。 元禄十六年(一七〇三)四月七日、曾根崎の森で、男女二人の死体が発見された。心中である。 男は、大坂で一番といわれた醤油屋平野屋忠右衛門の手代徳兵衛。二十五歳。手代といっても忠右衛門の兄の息子だから血縁の甥になる。 女は曾根崎新地天満屋抱えお初。二十一歳。評判の売れっ妓である。 二人の心中の原因は、男の転勤と女の身請け話のためであった。 平野屋は江戸へも販路を拡張していた。江戸支店。ところがその江戸支店で事件がおこった。責任者が百八十五両という大金をもって逃亡した。忠右衛門はやはり血縁の者を江戸の責任者にしたいと思った。 当然である。それには十二人の手代のうち徳兵衛を養子の娘と結婚させて江戸へ行かせたい。転勤と縁談が一度にふりかかった。 大坂での徳兵衛の担当は十二人の手代のうちで曾根崎新地一帯であった。 天満屋のお初は一ト目で徳兵衛の地味で、さり気ないが隙の身ごしらえ、態度に惚れて、徳兵衛と恋仲になった。ついぞ客にいったことがない「将来をたのみます」つまり女房になりたいといった。それが徳兵衛を動かして深い馴染みになった。 そこへふって湧いたように九州豊後国の客がお初を身請けして、今日明日にも本国へ下りたい。むろん天満屋は大喜びである。 江戸と豊後。 もう二人は一生逢えないかも知れない。そこで二人は心中した。(上巻、188-9頁) 近松の『曾根崎心中』にはない、徳兵衛の転勤話を少し詳しく織り込みながら、二人が心中に至る様子を簡潔に、しかし劇的に書いている。「将来をたのみます」と本当に言ったのか、典拠は何だ、文章の主述が整っていないではないか・・・などといった疑問はでてくるものの、それでもそうか、徳様ではなくお初が口説いたのか、江戸と豊後だったのか、などと思わされ、読み物としてたいへんおもしろい。 全編この調子で、あまりに長い間演劇の世界にどっぷり浸かってきたので、この巨匠はもうすべてが演劇的になっているのだと推察される。演劇を演劇的に語る通史 ― 日本の演劇研究には類例のない本だ。
by kohkawata
| 2010-05-01 15:10
| 近世日本の文化
|
カテゴリ
以前の記事
2022年 12月 2021年 12月 2021年 11月 2020年 12月 2020年 08月 2020年 03月 2020年 02月 2019年 08月 2019年 03月 2018年 07月 2018年 03月 2018年 01月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 05月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 03月 2016年 01月 2015年 09月 2015年 04月 2015年 02月 2014年 12月 2014年 09月 2014年 07月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 01月 2013年 11月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 03月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 06月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 その他のジャンル
最新の記事
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||