弟子のドキュメンタリー、師匠のフィクション


 『KJ 音楽人生』(張経緯監督、原題『音楽人生』、2009年、香港)を観た。監督は、許鞍華(アン・ホイ)の弟子にあたる人で、これが長編映画としてはデビュー作で、ドキュメンタリーである。日本ではこの3月の大阪アジアン映画祭で初上映。

 主人公は黄家正という香港の音楽家。映画は、彼がわずか11才でチェコでピアニストとして演奏したころの姿と、17才で音楽学校のリーダー的な生徒として奮闘する現在の姿とを交互に映し出しながら、彼の身の回りの人たちへのインタビューも交えて、この多感で明敏な若い音楽家の姿を立体的に映し出している。とりわけ上手に撮られているなと思うのは、この人が、本人が自負するように音楽家として本当に天才なのか、それとも早熟ではあったが今や情緒不安定な凡人にすぎないのか、どちらなのか最後までわからなくて、観る者をひやひやさせる、というところだろう。「音楽家である前に、すばらしい人間でなければならない」と彼は事ある毎に言うのだが、自分が指揮をしているオーケストラのメンバーたちをいらいらと叱責する彼の態度にはかなり未熟なものがあり、この人はこれから大丈夫なのかなあと心配させる。

 彼を音楽へと駆り立ててきたものは何だろうか。映画は、まず、情熱的に彼にピアノを教えた中年女性の先生の姿を映す。クリスチャンでもある彼女は音楽とは神への賛美だと信じて全身体的に彼にピアノと人生を教え込もうとしたようで、神を信じない黄家正は先生にアンビバレントな感情を抱いたりしながらも、今では師であったこの女性に深く感謝をし愛着も感じているようだ。だが、やはり音楽をしている家正の兄は、弟はピアノをはじめてから情緒が不安定になった、と言う。映画は、家正の父親の姿も映す。医師を本職とする彼は相当な音楽マニアであり、自分の三人の子どもに音楽をやらせ、とくに才能のある家正にはつきっきりに近い様子で支え続け、本人の意思に反してでもコンサートに出演させることなどもしたようだ。家正の母は、家正が十代半ばころに父と離婚したらしく、映画には登場せず、どんな人であったのかわからない。

 この映画を観て、人を育てるというのはつくづく難しいことだ、と当たり前のことを思った。映画から察するに、この音楽家を育てたのは、先生のほかには、とりわけ父親の並はずれた情熱があったのだろうと思われる。父(と先生)のおかげで、家正は代え難い数々の経験をし、卓越した音楽家になる可能性を得たのではあるが、一方で、彼の人生は、父親(と先生)の止みがたい激しい情熱に巻き込まれて取り返しがつかなくなってしまったのかもしれないとも思える。「魅力のある人だけが人を変えることができるんだ」と家正は言っている。それはまったく正しいと思うが、他人の情熱と自分の情熱を混同してはならないだろう・・・などといったことを考えさせる映画であった。

 また、ちょっと関心したのは、家正のような、日本人からみれば傲慢極まるようにみえる若者を周りの人たちがそれなりに寛容に受け入れているようだ、ということである。父親も師匠も彼の傲慢さをくじくような言動はしておらず、むしろ鼓吹し続けている。兄や妹や友人たちも、時に鼻白みながらも、結局はこの若者に寛容である。音楽家としての能力に劣る兄は、弟と父とに反発ばかりしているわけではなく、「弟も、父も、今の自分に満足していないんだ」と冷静な理解を示す。ぶつかりあいながらも受け入れあっているあたりに、家正という天才(かもしれない人物)を育ててきた周囲の人たちの懐の深さが示されているように思われる。

 本筋とは関係ないが、もう一つ興味深く思ったのは、家正の通っている拔萃男書院というという学校のことである。音楽の発表会にむけて学校全体で盛り上がっていく様子であるとか、家正を含めて生徒たちの会話の節々に英語が出てくることとか、発表会後路上で騒ぎながら、’We are the best! Best of the best!’ などと叫んでいる様子は、私の好きな『玻璃之城』(張婉婷監督、1998年)という映画で描かれた香港大学の様子によく似ていて(この映画でも主人公は、‘We are the best’と言っている)、この辺の雰囲気は香港のエリート校の特徴なのかなと思った。調べてみると、拔萃男書院は、英語によって教育をするキリスト教(英国国教会)系の学校で、創設は1869年にまで遡るという。この学校をはじめ家正を取り囲む上層階級的な雰囲気には、かつて英国の植民地であった香港社会の一面が残っていることが想像される。

 この監督の師匠である許鞍華の、今のところの最新作『天水圍的夜與霧』(2009年)も少し前にみた。私は、許鞍華の日本における唯一の専門家を(一応)自任しているので ― というのは、彼女の映画についての日本語によるある程度まとまった文章は、1993 年の四方田犬彦『電影風雲』(平凡社)以外には、私の論文しかないからである・・・「憤怒・和解・自由 ― 許鞍華の映画について ― 」(上)(下)という論文なのですが、よかったらここここ(ともにPDF)で読んでください ― 、この映画についても機会があれば詳しく論じたいと思うが、とにかく優れた映画で、弟子の『音楽人生』の静かでスマートな撮りぶりとは対照的に、これは妻と娘を惨殺するにいたる男の狂気を描いた、激しい映画である。

 外面(そとづら)のいい中年の男が、どのような経緯で結婚し、どのようにして妻に深い不安と強い憎悪とをぶつけ、妻を支配するようになり殺害にまでいたるのか、を克明に真正面から描いている。そこに浮かび上がってくる姿は、日本でも90年代くらいから注目されるようになったDV(Domestic Violence)という現象の加害者として語られる男性の一般的なイメージとかなり重なるものがあり、許鞍華は間違いなくDVについてリサーチし、それを映画に取り入れたのだと思われる。その上で許鞍華にしてはわかりやすい撮りぶりで、どこにでもいそうな平凡で小心にもみえる男のリアルな心情と行動こそが、ホラー映画なんかに出てくる怪物たちよりもずっと恐ろしいものなのだということを映し出している。被害者となる妻の愚かしさも痛ましい。一般の映画ファンはもちろん、映画評論家のような玄人筋の人たちも好むような映画ではないので、前作『天水圍的日與夜』(2008年)ほどには評価されないだろうが、しかしそれでもさすがに許鞍華と思わせる、優れた、怖い映画だと思う。
by kohkawata | 2010-03-14 11:47 | 香港の映画
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