『為小情人做早餐』という本のタイトルをみたとき、あっ、と息を呑むような感覚があった。「小さな恋人のために朝ごはんをつくる」という意味である。こんなに楽しく、可愛らしく、甘い本のタイトルを見たことがない、と思った。 このタイトルをみかけたのは、週一度授業をしにお邪魔している大谷大学の図書館(東アジアの文化を研究する私にとっては最上の図書館だ)の新規購入の書架で見つけた『味の台湾』(焦桐著、川浩二訳、みすず書房、2021年、作者の美食家ぶり全開のエセー集)という本の著者紹介の欄であった。さっそく台湾の三民書店から取り寄せたその本は、その可愛らしいタイトルとは裏腹に、恐ろしく浩瀚な本だった。685頁もある。 だが、内容はまさにタイトルの通り、甘く、楽しく、可愛らしいものだった。 この本は、焦桐という詩人兼料理エッセイストによる、二人の娘と料理をめぐるエセー集である。一つのエセーに、いずれかの娘、あるいは両方の、エピソードが綴られ、そのあとでそのエピソードに関係する(あるいは関係のない)料理のレシピが紹介される、という少しかわったスタイルの本である。そして、その文章のすべての箇所に、二人の娘、阿珊と阿雙への愛情が溢れかえっている。紹介される料理も、その多くが娘たちのためにつくったものである。 こんなにも手放しで、娘への愛情を書き綴った本というものを私はかつて読んだことがない。もしかしたら、これは父親の娘への愛を書いた、人類史上最も分厚い本かもしれない。 ほんのさわりだけ訳してみる。 「居間にいた阿雙は、私が帰ってきたのをみて、微笑んでくれる。美しい笑顔だ。その笑顔は意識的にしているもので、私が自分のお父さんであることを知っているのだ。間違いなく、知っている。私は阿雙の前でしゃがんで、彼女をじっとみる。すると、彼女は笑ってくれる。その笑顔は人の心を酔わせる。静かに私をじっとみてくれる。人を見るとき、その目は清らかで穏やかで、見られるものの魂のなかにそっと深く入ってくる。彼女の姿には神秘的な力があって、人はその力のおかげでがんばろうと思い、自信に満ちる。胸の奥から希望が湧き起こってくるのだ」(92-93頁) 阿雙は阿珊よりも12才も年下で、おませで明敏な子に育っていくのだが、その様子のすべてをこの父親はいつも目を細めて愛おしでいることが、どのページからも伝わってくる。姉の阿珊は、両親がまだ貧しく仕事に忙しかったときに生まれた子で、母親の実家に預けられるなど、少し苦労して育ったようで、かなり真面目な人に育っていく。それはそれで、父親にとってはこのうえなく可愛い娘なのである。 作者は、あまりにもこの2人の娘のことを愛していて、とうとう、「この姉妹は、こんなにも人の心を動かす力があるのだから、彼女たちの姿は金貨に刻まれるべきだと思う」(16頁)とさえ口走ってしまう。むろん冗談を装っているが、愛情でのぼせあがったあまりに、本当にそう思った瞬間があったのではないかと、私には思える。 作者は、しかし、娘を溺愛する呑気なパパというだけの人では、まったくない。『台湾現代史Ⅱ』(国書刊行会、2004年)に収められた彼の若いころの詩を読むと、ひどい孤独と叩きつけるような激しい怒りに自ら苦しんできたことがよくわかる。この『為小情人做早餐』という至福の書のなかにも所々で、不幸な過去のあったことが断片的に暗示されている。 また、彼の代表作の一つである、1999年に出版した本の翻訳『完全強壮レシピ』(池上貞子訳、思潮社、2007年)には、料理のレシピとならんで、恋人への暑苦しすぎるほどの露骨な情熱の詩が書き綴られていて、のけぞらされるほどである。字義通りの「飲食男女」の本だ。 だから、この娘たちへの溺愛ぶりは、単なる呑気なパパのものではなく、激しい情動に自ら振り回されてきた男の、やっとたどりついた幸福、しかも尋常でなく浮かれた、至福なのだろう。先に引用した、娘の微笑みについての文章も、親バカというだけではなくて、愛する人にまっすぐに見つめられて、それでけで有頂天になってしまうほどの孤独の感覚がこの人にはあるからこそなのだ、と私には感じられる。 かくして二人の娘にせっせと各種の美味しいものをつくり食べさせる喜びが延々と綴られるのだが、その終わることのないようにもみえる喜びの積み重ねのなかで、決定的な別れが訪れることが、少しずつ、語られていく。 二人の娘の母親が重い病気になってしまうのである。この本はそのことを主題的には書かないが、料理の、娘たちの、楽しいエピソードの端々で、次第に妻の病状が重くなっていくことが示される。 そして、阿雙がまだ中学校に上がったばかりのとき、妻は亡くなってしまう。 妻は、『完全強壮レシピ』でうたわれた、その熱情の対象であった人だと、おそらく、思われる。しかし、本はこの妻の死去への作者の気持ちを切々とは綴らない。おそらく書くことは相当に苦しく怖いことなのではないだろうか。描くのは、母の病気と死にもかかわらず、それでも学校に通い、友達と遊び、成長していく、二人の娘の日々の姿である。 作者自身もまた、次第に老い、病気にもなる。阿珊は英国に留学をし(ブルデューの本が難解すぎるとお父さんに愚痴ったりしている)、阿雙もどんどん自立していく。 こうして、最愛の娘二人と妻と過ごした夢のような幸福が終わっていくこともこの本は書いている。 残されたのは、その至福の日々を記録した、浩瀚な一冊の本だ。しかし、「二魚文化」という焦桐が自ら起こした出版社から出版されたこの本の奥付には、「編纂者」と「発行人」として「葉珊」という長女の名らしきものが記されいる。 最も幸福な時は過ぎ去ったとしても、父と娘二人は、二人の母親の思い出を抱きしめながら、なおともに生きいているのだろう、と読者は幸せの余韻を感じることができる。 #
by kohkawata
| 2022-12-21 21:28
| 台湾の文化
apple TVの、世界的にかなり人気があるという、『テッド・ラッソ』をseason2まで観た。 基本的には気楽にみられるコメディだが、あまり欧米のドラマを見ない私には興味深いところが多々あったし、教えられることもあった。 プロサッカーチームの話なので、人間関係の前提として明確な命令系統がある。オーナーをトップに、チームの幹部、監督、コーチたち、選手、チームの雑用係。上下関係といってもいい。しばしば大金が動き、それゆえの裏切りもある。 だが、米国(のなぜかアメフトの世界)から英国のプレミアリーグに飛び込んだ主人公の新人監督テッド・ラッソは、すべての選手・スタッフと親しくなろうと、たゆまぬユーモアとおしゃべりによって、奮闘する。 そういう彼の努力を受け入れる素地が、このイギリスのプレミアリーグに設定されているチームには、そしてイギリス社会には、あるようだ。 そして、監督を支える3人のコーチは、それぞれに対等の友人としてテッドに接することになる。それは、仕事が終わった後のバーでそうだ、というだけではない。ピッチにあっても彼らは、コーチとしてと同時に、友人として、テッドに絶えず本質的な助言をし、ときに激昂して主張をぶつける。 だからこの、異能の監督は、間違った判断をしてしまっても、修正することができるし、中年にいたってもなお謙虚で成長することができる。彼は最も辛辣なジャーナリストの批判にも耳を傾け、互いに尊敬するようになる。 こうして、様々な国籍の選手たちも、オーナーも、スタッフもみな、このフレンドリーなアメリカ人テッドを友人として接することになる。だからこそ、彼らもまた、テッドの助言によって成長することができる。自分の才能と名声に酔って傲慢になっていたエース・フォワードのジェイミーもまた、テッドやキャプテンと散々ぶつかって暴れ回った末に、いつのまにか謙虚なフットボーラに成長して、もう一人のエースにしてライバルのロハスに、やさしいラストパスを送るのだ。 とはいえ、そんなテッドでも、チームの優秀なカウンセラーのシャロンには、いくらか逃げ腰で時に攻撃的な態度をとる。だが、シャロンのおちつた眼差しと理解ある言葉に接して、彼はおびえつつも、自分の城から抜け出して、みなには伝えていなかった過去の悲劇を告げる。そして、最後には、彼女と友人として別れることになる。 これはもちろん、コメディだし、欧風の人情話だ。紋切り型とPC的な配慮のあいだでふらふらする場面もある。悪辣で下品なのはいつも白人男性で、黒人女性のシャロンはヨーダのような賢人、などというのはPC的な紋切り型だろう。 それでも、『テッド・ラッソ』には、国籍も性別も年齢も超えて、対等に言い合い認め合う個人主義的な友情の文化が、熾烈な競争的な社会組織のなかにでも十分に活かされるかもしれないという夢を見事に表現していると思う。そして、それが欧米のみならず、私も含めて世界の多くの人に歓迎されている、というのは悪くない話だと思う。高度なシステム社会における個人主義の夢を語るのがまさにapple的なイデオロギーなのだ、と斜に構えて批判するのは的外れのような気がするが、どうだろうか。 #
by kohkawata
| 2021-12-03 20:33
| 欧米の文学
「たけくらべ」を何十年ぶりかに読んで、いたく感心し、目が覚めるような思いがした。 句点もなくうねうねと続く文体は一見したところまったく古風で、ルビも注もない青空文庫版では意味の取れない箇所がしばしばでてくる。舞台も明治のはじめの吉原辺りの新興の下町だから、今読み直すと、高校生のころ読んだときよりも、いっそう古めかしく感じる。 何より、主人公の少年少女たちの置かれた状況は、今日の私たちには想像できないほど、厳しい。みな、ひどく狭く貧しい下町の厳しい条件といざこざに閉じ込められて、美登里は近い将来遊女となるほかはない境遇で、信如も坊主の家の子としてもうすぐ出家しなければならない。だから、彼らは遠い未来を夢みたりはしていない。その子供時代は、現代よりははるかに早く終わることが運命づけられていて、青春期もモラトリアムもなく、さっさと残酷な大人社会に強制的に加入させられる。それは近代における「子どもの発見」とか「児童の発見」などといったよくある文脈におくにしては前近代的すぎる。卓越した「たけくらべ」論を展開した前田愛ですらそうした文脈に引きずられているが、「たけくらべ」の世界は、近代というよりはほとんど江戸時代そのもので、もはや共感するのも難しいはずの、昔々の話だ。まだ明治になって30年も経っていない貧しい下町なのだから、当然といえば当然だ。 だが、にもかかわらず、「たけくらべ」に描かれた子どもたちの揺れ動く心情は、手に取るような鮮やかさをもって表現されていて、完全に共感できるような気にさせられる。 家業ゆえやむなく借金を集めて回ることを苦にしながら自分の気の弱さを嘆く正太が美登里の自分への好意をそっと探る様子、遊郭の家にひきとられた子であることを同級生にからかわれて激昂しながらもなぜか急に塞ぎ込んで登校しなくなる美登里、そうした大人になりかけている子どもたちの思いが手にとるように伝わってくる。 だから、「たけくらべ」にみられるのは、子どもの価値や内面の発見といった歴史的な変遷のなかでの一葉の時期的な先進性だけではなく、一葉という天才によってたまたま記録された、子どもたちの一瞬のスナップショットの、むしろ普遍的な姿だ。今でいう思春期の開始の直前の子どもたちの、子どもゆえに許された最後の自由の黄昏のなかで、ひどく窮屈で残酷でもある大人たちの時間に入っていかざるをえない確かな運命に怯えながら、ほんの一瞬だけ夢見た幸福のかけらが、たまたま記録されたのだ。最も早い克明な記録であり、またそれ以降社会の苛烈さがゆるんだことを思いえば、唯一無二の記録であるのかもしれない。 「朝冷はいつしか過ぎて日かげの暑くなるに、正太さん又晩によ、私の寮へも遊びにお出でな、燈籠ながして、お魚追ひましよ、池の橋が直つたれば怕い事は無いと言ひ捨てに立出る美登利の姿、正太うれしげに見送つて美くしと思ひぬ。」 そのように、子どもは昔から子どもで、そこには子どもである喜びも苦しみも、はかない幸福への期待も、自分が大人に変わっていく不安と悲しみも、ずっと同じようにあったのだろう、ただ、あの時代の子どもたちは今よりもはるかに厳しい現実のなかにあったのだと、「たけくらべ」は思わせる。 #
by kohkawata
| 2021-11-12 22:10
| 近代日本の文化
『大明皇妃』全62話をwowowで観た。たいへんな力作で、大いに楽しませてくれた。 これは、明代初期の6代にわたる皇帝とその周囲の人物たちの群像を、皇后となった孫若微という女性を視点人物的な主人公として描くドラマで、大枠は史実に従うが、主人公の造形をはじめ多くはフィクションである。漲挺という人の作・演出で、もとは2019年から2020年にかけて中国のテレビで放映されたもの。以下、いわゆるネタばれありの感想です。 人物描写もなかなか面白い。主人公とその育ての父親、徐浜という名の主人公の恋人、それから于謙という文官の四人は、大筋では賢い善人として描かれており(それぞれにタイプの異なる善人だが)、ドラマに安心感を与えているものの、その他の主だった登場人物たちはみな、善悪両面をもつ、あるいは善であっても愚とか、賢であっても悪などといった、一筋縄ではいかない、複雑な人間として描かれている。 ドラマの最初の方は、明の3代目皇帝である永楽帝を、その永楽帝に追い落とされた2代目の皇帝建文帝の遺臣たち、すなわち「靖難の遺児」たちが暗殺しようとするという企てを中心に展開する。主人公の孫若微は両親を永楽帝に殺されていて、この暗殺団の一員となっており、永楽帝は当然悪役として登場する。しかし、ドラマは、永楽帝が豪気で非情な皇帝でありながら、甥である建文帝を追放したこと(史実では靖難の役で死んでいるが、生き残ったという伝説が広く民間に伝わっていて、このドラマもそれを踏襲する)に罪悪感を抱き続けて、なんとか和解しようとする姿を描く。そして、可愛がっている孫が、激しい政争のなかで何とか生き残れるように、死の直前まであれこれと心を砕く、そうした優しさをもつ。 この永楽帝の孫(朱瞻基)は、敵対しているはずの孫若微と恋に落ちて、もう一人の主人公といってよいほどドラマの中心で活躍するのだが(実際、元の中国版ではこの二人が主人公ということになっているし、朱亜文という役者の演技はとてもいい。とはいえ、ドラマが終盤にさしかかる前に朱瞻基は死去する)、必ずしも単純な善人ではなくて、政敵である二人の叔父とさんざん争ったすえに、最後にはその一人を憤激のすえに殺害し、もう一人を死にいたるまで幽閉する。そのように残虐さのある人として描かれている。 また、孫若微には胡善尚という名を与えらえた妹がいて、両親を殺害されたさいに皇室の女官に拾われて皇室内で育つのだが、主人公の妹であるにもかかわらず、自分の出世のためには親友も育ての親も裏切り、虚言も色仕掛けも辞さないような、かなりの性悪の女として描かれる。しかし同時に、それは彼女の悲しい生い立ちのゆえなのだとして、決して単純な悪役なのではない。姉は、妹の性根の悪いことを知りながら、しかも同じ皇帝の妃というライバル関係にありながら、最後まで彼女を見放すことはない。彼女を育てた女官もまた、宮中の監督係として他の女官たちに酷薄に対応し胡善尚にも体罰を加え続けるが、同時に彼女のことを深く思って大切にしてもいる。 こうした人格の複雑性は、このドラマの大筋が史実に基づくことにも由来するのであろう。この明朝の6代は、実際血塗られた歴史としかいいようがなく、それをドラマ化するためには、どうしても登場人物たちは、複雑な人間でなければならず、時に人格の一貫性すら怪しくなることがあって、毎回の視聴率も取らねばならないし、ドラマを作る側も腐心したのであろうと思われる。しかし、それゆえにこそ、それぞれの登場人物の行為にもプロット全体にも予期できない意外性が絶えず生じて、観るものを飽きさせない。役者たちも、なかなか味わい深い芸達者な人が多く、3代目永楽帝、孫若微の育ての父、胡善尚の育ての母、4代目仁宗とその皇后、7代目景泰帝、みな魅力的である。 それから、もう一つ面白いところがあって、それはこのドラマのなかにかなり強い「中華思想」がみられることだ。元のタイトルの『大明風華』という言葉も中華思想を煽るかのようだし、メインのプロットも結局は、偉大な中華文明を偉大な中国人女性が守った、ということになっている。 しかも、この女性は、元来は永楽帝を殺そうとしたグループの一員であったのだが、皇帝たちの力に屈して、来歴を隠して皇帝の孫の妃となる。そして、「靖難の遺児」たちの赦免を勝ち得たうえで、葛藤を抱えながらも、結局は皇室と中国を守るために、身命を賭すことになるのだ。中華文明のなかの異分子ではあるが、最後には偉大なる中国の栄えある一員となるはずだ、という強烈にイデオロギー的なプロットであるように感じられる。 さらにいえば、これは深読みすぎるのかもしれないが、この主人公の運命は、実は香港のイデオロギー的な寓話なのかもしれない、とさえ思えてくる。旧主(建文帝=英国)の遺臣の子(主人公)は、新しい皇帝(永楽帝=北京政府)を暗殺して、自分たちの自由と誇りを取り戻そうとするが、実は旧主はそれを応援する気もさしてなく、主人公たちは新しい皇帝の圧倒的な力を前にして、結局は新しい秩序に従わざるをえないのだ。しかもこの主人公の妹は、復讐を胸に秘めつつ、やはり朱瞻基(宣宗)の妃となるのだが、この妹がマカオなのか、あるいは妹が香港で姉が台湾なのか・・・などと思ってしまう。いずれにせよ、圧倒的な軍事力と文化的な光輝を兼ね備える中華文明に、異分子たちもひれ伏するのがやむをえないがそれなりにしかるべき運命であるかのように、物語は進んで行く。 主人公を演じる湯唯は、浙江省出身らしいが、台湾出身の李安監督の映画『色・戒』で名をなし、香港映画でも活躍した人であり(そういえば、彼女が張學友とともに主演した香港映画『月満軒尼詩』について、このブログで以前ふれた)、大陸からみれば中華文明内の異分子的な女優であったはずだ。その湯唯が演じる皇后が、外圧に立ち向かって中華文明を守るのだ。 ところが、しかし、このドラマはあくまでも大枠では史実にそっていくので、終盤には、紋切り型のドラマも、安易な中華思想も裏切って、驚くべき展開をみせる。 主人公が生んだ子が皇太子になりながら、生まれつき心身の能力の著しく低いのだ。幼少期には立ち上がることすら困難で、言葉もなかなかしゃべりださない。あまりにも将来性がないために、その父帝は、皇太子を胡善尚の息子に代えようかと検討する。帝はさんざん迷った末に、結局は皇太子を代えずに、その後見を皇后孫若微に託して、死去する。しかし、その後の帝国の命運は悲惨なものであって、愚かな新皇帝に取り入った宦官の専横によって、国家は腐敗をはじめる。そして、皇帝は、初めての親征であえなく、北方の遊牧民族であるオイラトの虜囚となり、退位を余儀なくされ、さらにはオイラトら遊牧民族の連合軍によって首都北京も包囲されて帝国は存亡の危機に陥る。 この時、すでに最高権力者となっていた主人公と賢臣干謙、そして愛人の徐浜らの活躍で、明国はかろうじて遊牧民の侵攻を退ける。これがこの『大明皇妃』のクライマックスである。しかし、最後には、老いた主人公や干謙らの力及ばず、帝国は、この無能な元皇帝を担いでクーデータを起こした連中に乗っ取られてしまう。しかし、まんまと乗っ取った連中も、愚かな皇帝にふさわしく、やはり無能で無節操なのだ。 この長い歴史ドラマの結末は、善が勝つわけではないのはもちろん、悪が勝つわけですらなく、なんとアホが勝つのだ。だから結局、6代に渡って延々と繰り広げられてきた権力闘争は、華やかでいて、すべて虚しい。主人公の孫若微は、自分の夫と息子のことも含めて、朱家の連中は裏切りばかりのどうしようもない連中だと捨て台詞を残して皇宮を去る。それは中華思想などというものの空疎さをあますところなく示しているし、権力というもの一般の、さらには人の人生というものに潜む虚しさすらも指し示してる。 そして、もしもこのドラマの主人公が香港(あるいは、もしかしたら台湾)の運命を体現しているのだしたら、今香港で起こっている悲しく辛い事件の数々は、もっと壮大なドラマの序章にすぎず、今後も思いもかけぬことが次々と展開する、ということになる、元の香港に戻ることは二度とないにしても、じっさい、おそらく、そうなるほかはないだろうと思う。 音楽はやや単調で、編集は時に雑で、日本語字幕は所々適当、といった欠点もなくはないが、そんなことも考えさせる、壮大で美しいドラマだった。 #
by kohkawata
| 2020-12-25 08:00
| 現代中国の映画
今日8月7日は、七夕の祭りが盛んな地域では多く、月遅れの七夕とされる日。 4年前から毎年この時期には日本のどこかの町にお邪魔をして七夕の調査をしている。今年は、ほとんどの地域で七夕祭は中止になってしまったが、松本ではなんとか行っているようなので、今夏は松本。 松本の七夕の祭りは昔から家庭のなかで行われるもので、軒先に七夕人形をぶら下げて夏の果物や野菜を供えるのが伝統的な様式。だからこそ、とくに中止ということがないのだろう。一方で、街の中心部では、織姫と彦星の紙の人形を店先に飾る店が多いが、これは街の博物館が配っているらしい。ただ、関係者にきくと、今でも一部の家庭では伝統的な七夕の行事を行っているそうだ。七夕の人形は、子どもが生まれると主に母方の祖父母から送られる、ということが昔からの慣わし。 写真は、はかり博物館というところの展示。伝統的な松本の七夕祭を再現したものらしい。木製の頭と胴体に浴衣(元来は着物か?)を着せているが、この浴衣は人形用ではなくて子ども用で、それなりに大きかったりもするのが迫力があって、この地域の独自性を感じさせる。 といったように、毎年夏には調査しているのだが、普段は文献で日本のあちらこちらの七夕の習慣について調べている。 これまで調べたことの一部を、新型ウィルスのせいで外出をひかえぎみにしてきたこの半年はどのあいだ、少しずつまとめてきた。 まだまだ研究途上ですが、リンクを貼っておきます。 https://tanabatahomeblog.wordpress.com #
by kohkawata
| 2020-08-07 23:34
| 近代日本の文化
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